好きな人がいる。家族であり、親友であり、わたしにとって、かけがえのない人だ。
「厳ちゃん!」
制服を脱ぎ、汚れても良くかつ動きやすい服装に身を包んだ厳ちゃんに、後ろから声を掛ければ、彼はゆっくりとした動作で振り返る。頭にタオルを巻き、軍手をした手には工具入れが握られていて、同い年には見えないといわれてもおかしくない風貌は相変わらずだ。
「おぅ、ナマエ」
「今日家におばさんいる?」
「あぁ。どうかしたのか」
「お母さんが、社員旅行のお土産を渡しに行きたいって言っててね」
厳ちゃんとわたしは、家がご近所の、幼なじみだ。物心が付く前から一緒にいる上、家族ぐるみで仲がいいこともあって、親戚並みの付き合いがあることから、その感覚は友達というよりは家族・兄妹に近い。
幼い頃は人見知りが激しくて、うまく友達を作れなかったわたしを、常に引っ張り出してくれていたのが、厳ちゃんだった。昔から一歩引いて周りの様子を見ることに長けていた彼の声の掛け方は、臆病だったわたしの心を上手にほぐして、溶かしてくれた。もともと家族の前ではとてもおしゃべりだったわたしが、少しずつ人前でも自然体でいられるようになったのは、厳ちゃんのおかげだ。
「ん、分かった。伝えとく」
母がお土産を渡したいという話から、この前お裾分けしてもらったフルーツがとてつもなく美味しかったこと、一緒に探してもらったお隣さんのネコちゃんが無事に見つかったことなど、脱線に脱線を重ねたわたしの長い話を、厳ちゃんは黙って聞いてくれて、最後に、短くそう言う。つい長くなってしまうわたしの話を、昔から厳ちゃんは最後まで聞いてくれる。そういう優しさが嬉しくて、ついつい話しすぎてしまうのだけど、きっとそんなことも彼は分かった上で聞いてくれている。出来すぎた幼なじみである。緩んだ口元をそのままに「ありがとう」と言えば、強面の顔がほんのりと破顔して、柔らかくなる。
「厳ちゃん、今日はどこに行くの?」
工具を持った厳ちゃんが校内にいるということは、学校側から工務店に依頼が入ったということ。フェンスの修理程度であれば、在籍している厳ちゃんが放課後にその場へ赴くということも少なくない。
帰宅部で暇をもて余しているわたしは、そんな彼の後ろを付いていくことも多かったのだけど、最近は、少し訳が違う。案の定、厳ちゃんにしては珍しく、その横顔がいたずらっ子のように笑みを見せる。
「この前の豪雨で雨漏りしたらしいアメフト部の部室だ」
アメフト部、と聞いて、あからさまにわたしの表情が変わったのを見た厳ちゃんは、首を捻って、やっぱり楽しそうに笑ってわたしを見下ろしてくる。
「来るか?」
「行かない」
「即答か」
ハハッと声を出して笑った厳ちゃんは、次いでこんな言葉を発する。
「蛭魔に会えるぞ」
隠す気配のない、からかい口調純度百パーセントで言う厳ちゃんに、わたしは唇を噛んで、おそらくまったくないに等しい眼力で厳ちゃんを睨む。
昔から周りの様子を見て、その場に応じた言動を的確にしてきた厳ちゃんの、たったひとつの欠点。それは、こういった恋愛ごとが絡むと、そのレーダーがてんで無に返るということ。
事の発端は、同級生の蛭魔妖一くんこと妖ちゃんに、わたしの脅迫ネタとして厳ちゃんが好きなことを指摘されたことだった。ムサシにばらされたくなかったらうんたらかんたらと言われたときは、小さい頃から大切に育んできた気持ちと、家族であり兄妹であり親友でもあれるこの距離感を崩されるかもしれない懸念から、顔を真っ赤にして、怒ったことがある。その後、怒りは妖ちゃんにぶちまけることでスッキリしたものの、それから厳ちゃんはずっと、なぜかわたしが妖ちゃんのことを好きだと勘違いしている。
「会わなくてもいいもん」
「ん?そうか、照れるか」
「照れない!」
「顔、赤いぞ」
「赤くないっ!」
「ハハッ」
このモードに入った厳ちゃんは、案外しつこい。どれだけ否定しても、まったく信じてくれない。照れ隠しだと思われているし、わたしは恋愛が絡むと素直になれないのだと思っている。楽しそうにからかうその横顔は、年相応というより、もう少し幼く思える。
でも、引き際を心得ているところはさすがで、眉をつり上げて、迫力のない睨みを利かせるわたしに、ようやく満足したのか、厳ちゃんは気を抜くようにひとつ笑いを漏らす。
「ま、気が向いたらいつでも来い。あいつも、ナマエが来る分には何とも思わねぇさ」
「絶っ対行かないっ!」
「頑なだな」
なかなか信じてもらえない悲しさの滲み出る瞳で見てしまったのか、最後の攻防を挟んでも尚、可笑しそうにしていた厳ちゃんが、わたしのその視線に気付き、今度は困ったように眉を下げて笑う。
「悪い、からかいすぎたか」
「……厳ちゃん、きらい」
「そうか。そいつは困った」
これもまた、全然信じていないような口振りだったけど、このやり取りが彼に対する甘えから出るものだというのは、厳ちゃんも分かっている。そして、極めつけのように、少しだけ項垂れたわたしの頭を、昔よりもうんと大きくて、ゴツゴツとした手のひらが撫でることで、終息する。
「そろそろ行く。暗くなる前に帰れよ」
「……うん。またね、厳ちゃん」
まるで犬でも撫でるように、ガシガシと往復した手のひらがゆっくりと離れる。最後に交わった厳ちゃんの瞳が、夕日を反射してオレンジ色に光っていて、すごくきれいだった。
家族であり、親友である厳ちゃんは、わたしにとって、かけがえのない大切な人で、そして何より、昔から唯一、ずっと隣にいたいと願う、大好きな人だ。
「それをこんなトコで吐く暇があんなら、とっとと告って散りやがれ」
「散りませんーっ!」
数時間後の、アメフト部の部室。厳ちゃんが校門を通って帰るのを見送ってから、わたしは未だ残っているであろうことを見越した上で、アメフト部の部室の扉を高らかに開け放った。そうして、カジノ台に長い足を投げ出してパソコンを弄っていた妖ちゃんは、ちらりともこちらに視線を寄越すわけでもなく、ただ淡々と『やっぱり来やがった』と、噛んでいたガムを膨らませながら、ぼやくように呟いた。
妖ちゃんには、かなり前から、わたしが厳ちゃんのことが好きなことはバレている。それをネタに一回脅されたくらいだから、それなりにこのネタがわたしにとって効力があることは、間違いない。しかし、それに対してわたしが『言いたかったら言ったらいいよ!』と反発したことにより、それも妖ちゃんの中で、未だにネタとして持っているのか怪しい。
厳ちゃんの友達は、わたしの友達。昔からそんな縮図があることから、よそよそしく蛭魔くんと呼んでいたのを、妖ちゃんと呼ぶようになると、『テメー頭でも湧いてんのか』とゴミを見るような視線を向けられたことは今でも忘れない。ただ、それは時間の経過と共に、妖ちゃんに良しとされたらしく、『ま、男を見る目だけは確かだわな』と言われたことも、記憶に新しい。それ以来、わたしはこうして妖ちゃんに恋愛相談を持ちかけている。
「というかさ?妖ちゃんも否定してよ。わたしが好きなのは妖ちゃんじゃなくて厳ちゃんなのに」
「テメーが有耶無耶にしたことの尻拭いなんざ知るか」
「妖ちゃんだって、わたしが妖ちゃんのことを好きだって思われてたら困るでしょ?」
「何も困んねーよ」
「え、何それときめく」
「ときめいてんな。メリットもデメリットもねぇっつってんだよ糞なじみ」
こんな会話の往来も、もはや日常茶飯事である。妖ちゃんの向かい側に座り、ひたすらキーボードを叩き続ける彼の足元目掛けて脱力するようにカジノ台へと体を横たえる。すかさず「勝手に寝んな」という彼のお咎めがやってくるけど、今日は足蹴にされないだけ、まだいい。
「つーか、何がきっかけで勘違いしてやがんだあの糞ジジイ」
話題そのものに関心はなさそうながらも、他人事ではないからなのか、妖ちゃんは少し苛立ったように目をつり上げる。わたしが彼とこうしてよく話すようになったのは厳ちゃんがきっかけだし、そういった風に見られるシチュエーションに身を置いた記憶もない。
「うーん……分かんないけど、妖ちゃんに会うと、次は何で脅されるか分かんなくてドキドキするって伝えたことはある、かも」
「それだろ」
ターンッ、とキーボードを強く打った妖ちゃんがわたしの言葉を食う勢いで短く突っ込むように言う。一瞬、言われたことが理解できなくて、テーブルに横たわらせていた顔をゆっくり持ち上げ、妖ちゃんのほうへと向けると、彼は見たことないくらい呆れたような顔を浮かべていて、どこかのキツネを彷彿とさせた。
「えっ!?これ!?どこで!?」
「テメーそれ、はしょって伝えてやがんだろ」
抑揚のない声で言われ、妖ちゃんがさらに呆れたことだけが如実に伝わってくる。
厳ちゃんはわたしが妖ちゃんに弱味を握られて脅された過去があることを知らない。当然、その弱味であるネタが何であるかなんてことは知る由もないし、知られてはならない。これは、妖ちゃんと厳ちゃんの関係性を考えた上でも、伝えないほうがいいだろうなと常に思っていることだ。だとすれば、と眉間に皺を寄せ、頑張ってなかなか呼び起こすことのない記憶の引き出しを必死に開ける。
「……あっ!そうかも!ドキドキする、ってところだけ伝えた気がする!」
「自業自得じゃねぇか」
「え〜!?こんなことで〜!?」
今度こそ、完全に関心を失ったと言わんばかりに手元のパソコンに視線を落とした妖ちゃんに向かって、わたしは体を起こして抗議する。チッとひとつ舌打ちをした妖ちゃんは、カタカタと動く手元はそのままに、言葉を続ける。
「それだけじゃねぇとするなら、その変なあだ名を付けたのも一端だろうな」
「? 武蔵厳だから厳ちゃんなのと同じで、蛭魔妖一くんだから妖ちゃんなんだよ?どこが変なの?」
「強いて言えばその感覚だな」
「……? 栗田良寛くんだから良ちゃんだよ?」
「糞デブと一緒にすんな」
言われている意味が分からず、頭の上にたくさんの疑問符を並べるわたしを無視して、妖ちゃんは「ともかく、だ」と言ってから、パソコンに注いでいた鋭い視線をわたしのほうへと向ける。
「テメーの撒いた種であることはこれで明白だ。テメーのケツくらいテメーで拭け」
「……妖ちゃん、それセクハラだよ」
「ケケケ。その窓口違いの話題にここまで付き合ってやったんだ。ありがたく思いやがれ」
それから、無糖ガムの口を開けた妖ちゃんはいよいよデータ処理集中モードに入るようで、「ガキは暗くなる前に帰れ」と、厳ちゃんと同じ台詞を紡いで、半ば強引に部室を追い出された。
妖ちゃんはそういった勘違いが起こっていたとしても困らないと言っていたけど、それはきっと厳ちゃんだって同じことなのだ。わたしが妖ちゃんのことが好きなら応援する。直接言われてはいないし、ものすごく協力的になるわけでもないけど、厳ちゃんが示していることは、言わばそういうことなのだ。そういった姿勢を取ってくれていることに困るのは、紛れもないわたしである。
自分で撒いた種は自分で摘み取る。妖ちゃんに言われた言葉を思い返し、両手で頬をパシッと叩いて気合いを入れる。「よしっ」と声を挙げて、見上げた夕方の空はもうずいぶんと藍色に滲んでいて、とってもきれいだった。
昔から見慣れていたはずの背中は、少し見ない間に逞しいものになっていて、小さい頃、いつか見た厳ちゃんのお父さんにどことなくシルエットが似てきた。似てきても、大好きな厳ちゃんの背中を、わたしが見間違えることはない。
「厳ちゃん!」
「ん。あぁ、ナマエ」
数日後。同じように工具一式を抱えた厳ちゃんに声を掛ける。校門に向かって歩いているところを見ると、今日は既に作業を終えたあとなのかもしれない。
「もう帰るの?」
「あぁ。お前は?」
「わたしも今から帰るところ」
「なら、送ってく」
「ほんと?やった」
仕事で軽トラを使っている厳ちゃんは、たまにこうして家まで送ってくれることがある。家に早く着くことも嬉しいけど、どちらかというと少しでも長く厳ちゃんと居られることのほうが嬉しくて、るんるんな気持ちでいると、そんなわたしを見た厳ちゃんが隣を歩きながら、静かに笑ったのが分かった。
「ご機嫌だな」
「んー?ふふ、まぁねー!」
「蛭魔と何かあったか?」
思わぬ返しにびっくりして、思わず歩いていた足がピタッと止まる。それに倣ったように厳ちゃんの足も自然と止まり、不思議そうな顔をしてわたしを見つめる。
「……何で妖ちゃん?」
「ナマエの機嫌が良いのは常だが、今日は割増だからな」
良いことは今この瞬間にあったんだけど、どうもそこは厳ちゃんの中でイコールしないらしい。何でも全部妖ちゃんに繋げないでって怒りたい気持ちと、厳ちゃんと一緒にいると嬉しいことがまったく伝わっていなくて悲しい気持ちと、いつも機嫌がいいと思ってくれているのが嬉しい気持ちとがせめぎあい、頭の処理が追い付かなくて、両手で顔を覆って悶え苦しむ。
しかし、厳ちゃんがそんな風に言ってくるのだって、わたしがきちんと否定をしていないからだ。妖ちゃんにだって、自分で撒いた種くらい自分で何とかしろと、文字通りお尻を叩かれたところである。
話題にするにしても、今が絶好のチャンスだ。その場に蹲って悶え苦しんでいたわたしを、静かに見守っていた厳ちゃんのほうへ顔をあげ、意を決して「厳ちゃん!」と呼び掛ける。
「ん。なんだ」
「あの……っあのね。わたし、妖ちゃんのこと、恋愛として好きってわけじゃないの!」
率先して何かをしようとしていたわけじゃないけど、わたしが妖ちゃんのことを好きだと思い込んでいた厳ちゃんは、彼なりに、わたしにプラスになるよう働きをしてくれようとしていたことは、肌で感じている。だからこそ、今さらの否定になってしまって、それを告げることにドキドキしたけど、そんなわたしの心境とは裏腹に、厳ちゃんは驚いたというより、キョトンとした顔をしていて、そのリアクションは珍しいと同時に、少し可愛く映って、別の意味でわたしの心を乱す。
「そうなのか?」
「う、うん」
「ドキドキするって言ってたろ」
「あ、あれは……人並みに妖ちゃんのこと、怖いと思っていたときの話で!今は、もう、こう……普通におしゃべりできるし、お友達って感じ!」
キョトン顔の厳ちゃんが可愛くて、頭が働かなくなりそうになるのを、必死に受け答えして、どうにか持ちこたえる。
思った通り、わたしのドキドキするの意味を、ストレートに受け取っていた厳ちゃんの勘違いによるものだということが発覚し、少しホッとする。
と、そこで「そうか……」と呟いたあと、厳ちゃんはなぜかふっと息を漏らすように笑いをこぼす。
「蛭魔がお友達、な」
「……な、なに?」
「いや?」
噛み締めるように紡いだ厳ちゃんの言葉に反応をしてみるけど、なぜかはぐらかされる。そして、どこか優しい目をした厳ちゃんが、まっすぐにわたしのことを見てくるから、慣れない優しいそのまなざしに、今度は本格的にドキドキしてしまって、思わず視線を逸らす。
言葉には形容しがたい空気感に、なんて声をかけたらいいか迷っている間に、ふっと影が差し、それを視線で追うよりも先に、感覚で捕らえるほうが早かった。するりと頭を撫でられる手のひらは、前と同じものなのに、その力加減が、注がれた視線と同じくらい優しいもののように感じて、思考が、フリーズする。
「…………っ!?!?!?」
ボッと、音と火が出そうなくらい、急激に顔に集まった熱を自覚し、かといって頭に置かれた手のひらを退かすわけにもいかず、突然もたらされたときめきとパニックによる混乱で動けずにいると、またも頭上で、ふっと息が漏れる音が聞こえる。
見なくても分かるけど、反射的に視線をあげた先にいる厳ちゃんと目が合って、今度はいつもの笑みが向けられた。
「帰るか」
「え……っあ、う、うん!」
なんてことない、いつもの口調で言われて、これもまたほとんど反射的に返事をすれば、厳ちゃんはゆっくりと歩き出すから、わたしも慌ててその隣に並ぶ。
優しく見つめられた視線と、柔らかく触れられた手のひらの意味を知るのは、今のところ、厳ちゃんでも、わたしでもなく、妖ちゃんだけであることを、夕日に照らされながら歩くわたしたちは、知る由もないのだ。
(240511)