あれから、ナマエがあいつに告白をしたのか、結末がどうなったのかを、俺は知らない。
衝動的な俺の告白を受けた彼女が目を丸くしたまま固まった姿を見たとき、傷付いている自分がいることに心の中で自嘲した。分かっていたことなのに、何かを期待して告げたつもりじゃなかったのに、ただのエゴで紡いだはずの告白は、この数ヶ月、ひたむきに想い人だけを見てきたナマエを、ただただ戸惑わせるだけになった。
答えなんてあってないようなもので、むしろそれを敢えて言わせるのは酷だと思った。ごめん、と咄嗟に謝罪した俺の声で、ようやく我に返ったような表情をした彼女が何か言葉を発しようとして、それでも何を言うか迷うように視線を彷徨わせた。
ごめんの次に放った、忘れて、と言った俺は一体どんな表情をしていたのか。どんな心境で言ったのかは、もう思い出せない。引き留めてごめん、と改めて謝った俺は力の入っていない彼女の手をそっと離して、その背中をグラウンドのほうへ優しく押した。好きだと告げたばかりの口が付いて出た言葉は、頑張ってこい、という何とも無責任なものだった。混乱したままの彼女は、結局その名残を顔に張り付けたまま、ぎこちない笑顔でお礼を紡ぎ、ゆっくりと俺のもとから遠ざかってゆく。情けなさから思わず項垂れ、緩やかに自嘲した口先からは、何やってんだという音が漏れた。
そんなことがあってからの、休み明け。どんな顔をして会えばいいのか悩む俺の背中をポンッと叩き、おはようといつも通りの挨拶をしてきたのは、ナマエだった。一瞬フリーズした脳はすぐにフル稼働し、朝の挨拶と、今日も元気ですネという付属オプションを一言付けることで、いつも通りの空気感を取り戻した。
体育祭のひと月後には文化祭が控えている。出し物をするクラス、展示をするクラスなどがある中、部活動に専念している者は準備を免除されている。免除された側の俺と、クラスの違うナマエを含めたそれ以外のメンバーは各クラスの出し物の準備に追われ、幸か不幸か、その期間だけグループで集まる機会はぐっと減った。
「何かあったろ、ミョウジと」
文化祭当日。都内でも音駒高校の文化祭は昔から有名で、今年も派手めな出し物や企画が目白押しだった。中でも、一番注目が集まったのが、とある番組の企画を真似た、屋上から思いの丈を叫ぶ『高校生の主張』。どうでもいいことから日頃の感謝、愛の告白に至るまで何でもありのコーナーである。
今回、数多の応募の中からその一枠にナマエが選ばれたらしく、ちょうどそれが行われるグラウンドを目指して歩いているときだった。飲み物を買うためにグループメンバーの一人である男友達と自販機までやってきた時、唐突にそんな言葉を投げかけられた。小銭を入れて今まさにボタンを押そうとしたタイミングでの投げかけだったこともあり、思わずその指先があからさまに停止する。
「……何かって?」
「何もねえとは言わせねえけど?」
そいつは、唯一あのメンバーの中で、俺のナマエに対する気持ちに気付いていたであろう人物だ。直接的に聞かれたことはないけど、さりげない気の遣われ方や言動で、あぁ気付いてんなと、ふと思ったことがある。それがこの瞬間、確定事項となった。
先に購入した缶のプルタブを開け、ぐっとそれを煽ったそいつは、うまそうに大きく息を吐き出し、その視線を、再び俺へと戻す。
「お前がそんなあからさまに取り繕えてねえのも、珍しいなって」
それは問い詰めるというより、軽口にも似た心配であることが、苦笑とも自嘲とも取れる笑い方で伝わってくる。青く光ったまま選択されるのを待つ自販機のボタンを一瞥して目的のところを押せば、ボコッと音を立てて取り出し口にペットボトルが落ちてくる。それを拾い上げながら、思わずため息がこぼれたことで、知らず知らずの内に心の中で白旗を振っていたことを自覚した。
「告白したんだよ、ナマエに」
「答えは?」
「聞いてない」
「……はあ?」
意味が分からないという顔をするそいつに、思わず同調する。今となれば、聞いておいたほうが良かったとさえ思う。振られると分かっていて、敢えてその言葉を聞かずに送り出したのは、逃げていることと同義だ。気まずくなっていないのは、彼女がそのことに触れず接してくれているからであり、ギリギリのバランスで、“いつも通り”が成り立っているに過ぎない。
「エゴでいいから伝えたくなった。……それだけなんだよ」
ナマエに好きな相手がいることは、さすがにこいつも知らないだろう。それを知ってさえいれば答えを聞かなかった意味も見当がつくだろうが、あからさまに訝しげな表情をした割に「そっか」と言ったっきり、そいつはそれ以上その話題に触れてくることはなかった。
学校を挙げての企画は、かなり話題を呼んだのか、グラウンドには学校外の関係者を抜いても、全校生徒がいるのではないかと思うほど、相当な人数の観覧者がいた。音駒の生徒とそれ以外といった形で標識ロープによって簡易的に仕切られた作りは、境があってないようなものだ。
先に場所取りをしていたメンバーは、よりによって最前列を確保していた。ナマエの勇姿を!と女子二人はいつでも録画が出来るようスマホの充電を満タンにしていて、もう一人の男友達は呑気に焼きそばを啜っていた。女子との熱量の差が凄まじい。
目安として設けられた開始時刻は本鈴が鳴ることで告げられた。発表者はランダムで選ばれているようで、いつ出てくるのか分からないところも、見所のひとつのようだ。本鈴が鳴り止んですぐ、屋上から姿を見せた男子生徒の姿により、企画が始まったことをグラウンドにいる全員が察する。誰からともなく拍手をし、それが静まった頃、簡単な自己紹介のあと、「僕はー!」と番組で見た光景と同じ切り口で話が始まった。
テストの難易度に対する抗議、毎日校門で爽やかに挨拶してくれる保険医への感謝、食堂の日替わりメニューへの疑問など、見事十人十色な話題に共感したり、教師が屋上から顔を見せたときは大ブーイングが起き、「せ、先生だってな!思いの丈を叫びたいときだってあるんだぞー!?」と嘆く姿に笑ったりもした。生徒側で選ばれる人数は十人ほどと聞いている。そして、そのクライマックスはナマエに託されるようだった。ゆっくりとグラウンドが見渡せる位置まで姿を現した彼女は、表情こそはっきりと見えないが、胸の前で両手を抱えているところから察するに、緊張しているのが窺えた。
「さ、三年一組ー!ミョウジナマエです!」
第一声で少し噛んだ彼女が、気持ちを落ち着かせるように意識的に深呼吸したのが分かる。スマホを構えてその姿を撮影する女子二人がひそひそと可愛いと呟いたのには、心の中で大いに同意した。
「今日、わたしはー!ある人に伝えたいことがありまーす!」
グラウンドにいる全員が、常套句のなぁーにぃー?という言葉を、大声で叫ぶ中、きっと俺だけが、やっぱりなという感想を抱いている。選ばれた人数の中、ランダムによって順序が決まるといっても、クライマックスは大抵オチが決まっているようなものだ。彼女は気持ちに区切りを付けるつもりでこの企画に応募したであろうことが、その一言で察しがいった。
「三年、五組ー!」
腕を組んでじっとその姿を見据えようとした俺の耳に飛び込んできたクラス名に、ふと疑問を抱く。間を溜めているわけではなく、心の準備をするように、区切って言葉を放つナマエに、嫌な予感とはまた別の胸がざわつく感覚に息を呑んだあと、それは確信へと変わった。
「黒尾鉄朗ーっ……さ、さーん!」
慌てて付けられた敬称に少しばかりグラウンドの空気が和んだように笑いが起きるが、はっきりと名指しされた俺だけはリアクションを起こせずにいた。唯一俺が彼女に告白したことを伝えた男友達だけが、同じように笑うことなく、俺とナマエを交互に見やっている。
今までの『主張』も名指しされた教師や保険医、食堂のおばちゃんらは、屋上にいる主張者と会話がしやすいようにマイクと、その目印として赤いたすきを渡されていた。今回も例に漏れず、俺の手元にそれが渡り、その手配をした主宰側の人間が俺のもとから去ったのが合図かのように、彼女は言葉を続けた。
「わ……っわたしはー!黒尾にー!謝らなければならないことがありまーす!」
またも、常套句でグラウンドの全員が、なぁーにぃー?と大声を張る。ひとつ、間を置いて、彼女が息を吸い込んだのが分かった。
「春頃ー!わたしは黒尾に、とある相談を持ちかけて、先月、それを実行すると決めていました!」
ぼかした内容でも、実際に相談を受けていた身としては、それが何であるかはすぐに思い当たる。ナマエの好きな相手であるあいつに告白するための準備を整えてきたのも、告白するタイミングをキャンプファイアーが行われる体育祭の日にすることを勧めたのも、気持ちを自覚する前の俺だ。
「ずっと親身になって相談に乗ってくれて、いろんなアドバイスもくれて、この数ヶ月間、そこに向けて頑張るまでに、つらいことやしんどいこともあったけど、その度に黒尾が励ましてくれて、助けてもらって、ずっと……ずっと救われていました!」
短い期間とはいえ、今に至るまでの大変さは、安易に語れない。ナマエが俺に見せていた弱さはほんの一部で、自身で乗り越えてきた部分のほうが大きいだろうに、それを口にできる彼女は優しい人間だ。
「だけど……っだけど、先月、わたしは、結局……あれだけ黒尾に相談に乗ってもらっていたのに……その機会を、無駄にしてしまいました……っ」
機会が無駄になった、という表現でぼんやりと事を悟る。うまくいかなかったから言い出せなかった、という彼女の心境はきっとあんな風に俺が衝動的な行動を起こさなければ、こんなに複雑にはならなかっただろうなとも思うと、少し同情した。
彼女の声の張りに、震えが混じる。泣きそうになっていることが、不自然な間でじわじわと伝わってきて、グラウンドにいる人が口々にがんばれと声を掛け、奮い立つようにナマエも声を張り続ける。
「あの日、黒尾に頑張れって背中を押してもらったのに、押してもらったタイミングで、わたしは……っ黒尾に、嘘を吐いていたことを、自覚しました……!」
は、と思わず声が漏れる。彼女の言っている意味がよく分からず、屋上のほうを見上げたまま固まっていると、張るのではなく、自然な大きさのナマエの声が、ゆったりと降ってくる。
「黒尾は、本当にお兄ちゃんがいたらこんな感じなんだろうなって思えるくらい、優しくて頼りやすくて。気付けば、いつも黒尾に相談することが増えていっていつからか、兄よりも何でも話せる親友に近い存在になってた」
グラウンドからは、誰一人として声ひとつ挙げない。傍らにいる他のメンバーでさえ、黙って彼女の声に耳を傾け続ける。
「だから、このことに気付いたら駄目だと思った。似たような人を、……好きになった、なりたかったんだって、あの時に気付いたの。……黒尾が送り出してくれたあの日、わたしは……相手に気持ちを伝えられていません」
伝えていない、という言葉に、先ほどの機会を無駄にしたという本来の意味が、うまくいかなかったわけではなく、そもそも始まってさえいないということだったのを、この瞬間、ようやく理解する。いつから、という言葉が混乱する頭の中を反芻する。
「今の関係が壊れるのが怖かった。見てみぬ振りをしてきたけど、ちゃんとこの気持ちと向き合ってからは、ずっと、黒尾を騙していたみたいで、……今さら、ずるいと……っ思って」
ナマエの声に、悲痛の色が滲む。好きな人が出来たんだけど、と言ってきたあの日の彼女の顔が、ぼんやりと頭を過る。
「でも……ごめん、ごめんね。傷付けてごめんなさい。ずっとそばにいてくれたのに、苦しんでいたことに気が付かなくて……。都合が良いかもしれないけど、でも……でもでも、っごめん」
グラウンドのどこかから、すすり泣く声が聞こえる。どうにか伝えたいという気持ちが先行するように、矢継ぎ早に言葉だけを放つナマエの叫びは、胸の奥深くに突き刺さった。
表情なんて見えないこの距離で、ずっと注いでいた視線が、なぜか、彼女と交わった気がした。とくんとひとつ、心臓の音が木霊する。
「黒尾が、好きです」
張りも、震えもない、まっすぐな一言は、とんっと俺の耳に落ちてくる。マイクを持った手が、ぴくりと震えた。
ナマエが胸の前で抱えていた手で何度も顔を拭う。その仕草で、彼女が泣いていることを、ようやく認識する。
「答えなんてなくていいから……だからっ、黒尾のこと……好きでいても、いいですかーっ!?」
決死の叫びは、胸を抉られるほど深く染み込んだ。
トンッと、軽く背中を押され、思わず振り返ると、俺が彼女に告白したことを知る唯一の友人が、不敵に微笑んでいた。呆然とする俺の手からマイクとたすきを奪うと、顎で校舎を指してから、一言告げる。
「行ってこい」
再びトンッと背中を叩いた手のひらからは、勇気をもらった気がした。勢いのまま校舎に向かって走り出した俺を見たグラウンドの連中は、キャーだのウォーだのと言って、どよめき、沸き立つ。
靴を脱いで上履きに履き替える。いつも行なっている動作がここまで煩わしく感じた日はない。階段を何段も飛ばして駆け上がる。日頃からこれ以上の距離を走ったり飛んだりしているのに、気持ちが高揚しているのか、いつもより息が上がるタイミングが早いように思えた。普段は立ち入り禁止の立て札がある屋上の扉を開け放てば、そのすぐ脇には責任者である教師と主宰側の生徒が二人、簡易テントの下で待機していた。異様な事態に、彼女のそばに駆け寄ることも憚られたのだろう、ただ事の成り行きを見守ろうとしていることが分かった。
グラウンドから見えやすくするために作られた特設ステージの上には、座り込んでいるナマエの背中が見えた。落下防止の金網の向こう側からは、相変わらずがんばれという声がちらほら聞こえている。簡素な造りの階段をあがり、彼女と同じステージに上がると、俺の姿を確認したグラウンドの人たちが甲高い歓声を挙げる。下が空洞になっているステージは、足音を反響させやすく、歩く度に鳴る床の音で、彼女もまた俺の存在に気付き、ゆるゆると顔をあげた。
「黒尾……」
「……めちゃめちゃ泣いてんじゃん。待って、俺何も持ってないんですケド」
ナマエは想像の倍くらい泣いていて、しかも何度も擦ったらしい目元は赤らんでいた。着ている制服も半袖だったので、申し訳なさもありながら手を添えて優しく頬を伝う涙を指先で拭ってやれば、一旦落ち着いていたはずのそれが表情ごと崩れて、またボロボロとこぼれ落ちる。
「まぁーた泣く。何、なぁーにがそんなに悲しいの」
ひくひくと嗚咽が出るほど泣いているナマエを優しく諭すように、頬を撫でてからそのままくしゃくしゃになっている髪を後ろ手に流してやる。するすると指の隙間を縫って滑っていく細い髪の毛が、彼女があの日に向けて丁寧に手入れしていたのを物語っていた。
瞬きをする度にこぼれ落ちる涙を自身で払いながら、嗚咽の合間に彼女は大きく息を吸ってどうにか言葉を紡いでくる。
「だ……って、わたし……黒尾に、酷いこと、して……っ」
「えー、分かんねえわ。だって、俺、ナマエチャンの悩みを聞いてただけですし?」
彼女に好きな人が出来たというから、その応援をしている最中、俺が勝手に彼女のことを好きになった。時系列としてはそれだけのことで、ナマエは俺がいつから彼女のことを好きになったかなど知る術はない。知る、わけがないのだ。タイミングが悪かっただけで、それを酷いことだと、俺は思いもしない。
「まあ……酷いこと、って言うなら、さっきナマエチャンに言われはしましたけど」
「え……っ!な、何……?」
驚いたように目を丸くするナマエの瞳が、俺を映し出す。潤んだその双眸は痛いくらいにまっすぐで、何も知らない無垢さが、俺の色に染まっているようで、存外、悪い気にはならなかった。
「俺の気持ち知ってて、答えなんてなくていいから、好きでいていいかって、さっき言ったでしょうよ」
「!」
始めに答えなんてなくてもいいと思ったのは、きっと俺のほうだ。俺がナマエのことを好きだと知らず、ずっと恋愛相談を持ちかけていた彼女自身に対する罪滅ぼしのつもりで言った言葉であることは重々承知しているが、だとしたら、確かにそれは自分勝手であるかもしれない。
「答え合わせくらいは、せめて一緒にしません?」
小さな彼女の手をそっと取って、優しく握る。泣いてぐしゃぐしゃになったナマエの顔がゆっくりと俺のほうを向いて、こんな日が来るとは思いもしなかったな、なんて一足早く感傷に浸りそうになる。
「ナマエが好きだよ」
潤んだ瞳が、少しだけ見開かれる。言葉が、気持ちが伝わることって、こんなにも嬉しいものかと、感情が合せ鏡になりそうになる。秘めていた想いが、彼女と同じ形で表れそうなのを堪えたら、鼻の奥がツンとした。
「甘え上手なところも、ちょっとそそっかしいところも、大胆だけど、実はちょっとビビリなところも、結構泣き虫なところも、頑張り過ぎちゃうところも、相手のことを考えすぎちゃうところも、全部」
少しずつ俯いていった彼女が、鼻を啜りながら微かな嗚咽を漏らし出す。顎を伝ってパタパタと落ちる涙を拭おうと手を伸ばしかけて、そのままそれはナマエの背中に回すことにした。グラウンドからはまたも甲高い歓声が聞こえてくるけど、気にもならなかった。
「全部、俺は好きだよ」
もう泣いてほしくなんかないのに、騙していたなんて思わないでほしいのに、肩を揺らして泣く彼女の頭を撫でることしか出来ないことが悔しかった。柔らかな髪を梳くように指先を通せば、するすると流れるように落ちていき、今日までに彼女の努力をそこから垣間見れるような気がした。
「答え、分かった?」
自分勝手なままでなくてもいい、しっかりとした答えを提示してしばらく、少しだけ体を離したナマエが、潤んだ瞳をちらりと俺に向ける。きゅ、と弱々しく制服の袖を掴んだ指先が、赤くなった目元と同じように熱を帯びているように感じた。
「……両想い?」
「大正解」
目元に溜まった涙は瞬きをする度にはらはらと彼女の頬を濡らしてゆく。それをそっと拭ってやりながら、ついでにぐしゃぐしゃになった横髪も一緒に撫で付ける。
「正解者のあなたには抽選でクロオさんと手を繋いで下校できるチケットをプレゼントさせていただきマス」
「……ふふ、抽選なんだ」
ようやく、ナマエの顔に笑みが戻る。ふんわりとしたその表情はいつもより弱々しくて、どこか痛々しかったけど、二度とこんな風に泣かせないという誓いの指針にもなった。
「黒尾、わがまま言ってもいい?」
「何を改まって。いつも言ってんのに」
「だって、わたしがわがまま言うと、黒尾嬉しそうだから」
「エッ、嘘、まじ?そんな顔に出てる?」
「否定しないんだ」
今さら取り繕う必要のない部分は露見したままにして、軽口を言い合えばまたナマエが楽しそうに笑ってくれる。それが嬉しくて「何でも、仰せのままに?」と返せば、彼女が優しく目を細めて笑う。
「もう一回、……好きって、言ってほしい」
わがままの内容は、大層可愛らしいもので、びっくりして固まってしまった。じっと彼女を見据えたままでいると、じわじわ恥ずかしくなってきたのか、すごすごと俺の腕の中に戻ってくる。そういう無意識にあざといところも、結構好きだ。
「何度だって、言ってあげますよ」
ずっと触れるのを躊躇ってきたその背中を今一度優しく、でも少しだけ強く引き寄せて、じんわりと移る体温を感じる。俺に身を委ねてくれている彼女が愛しくて、その存在が嬉しくて、可愛くて、紡いだ声音は、自分が思うよりも、うんっと柔らかいものだった。
「――俺はおまえが好きだ」
(231115)
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