すぅすぅと一定の速さで繰り返される呼吸、それに比例してゆっくり上下する体。その姿に俺は嗚呼彼女は生きているんだなと再認識する。未だピクリとも動かない瞼の傍らにある長い睫毛を凝視しながら、椅子に座ったまま彼女の手を握る。ひんやりしたそれに、ギュッと強く瞼を瞑ったのとほぼ同時にガチャっと部屋の扉が開く音がした。ハッとして顔を上げれば、そこには美味そうな飯の乗ったおぼんを持った八戒が居た。
「悟空、お昼持ってきましたよ」
「ありがと、八戒」
カタンと、俺のすぐ脇にある木製の丸テーブルの上に俺と、それから彼女の分の昼食が置かれる。野宿のときはいっつも缶詰だったけど、宿に宿泊したときは大体その宿から出る飯を食う。今日の昼食は東洋の料理、『きつねうどん』だ。最初食べたとき、だしが染み込んだアブラアゲって奴が熱くて、舌をやけどした覚えがある。少し冷ましてから食ったら美味かったけど、そんなことがあったからこの名前は一発で覚えた。
「……悟空、少しくらい食べないと体に毒ですよ」
天井に向かって立つ湯気をじーっと見ていると、ふと八戒が口を開いた。視線を合わせれば、八戒は困ったように眉を下げる。
「んー……分かってるんだけどさぁ。腹は減ってるし、うどん見たら美味そうだなって思うんだけど……何か、食う気がしないんだ」
箸に手を伸ばそうとしても、途中で止まっちまう。空腹のはずなのに、何か違う。こんなことは一度だってなかったし、そんな俺を見て三蔵や悟浄は驚いていたけど、それ以上に俺自身が一番びっくりした。隣に座る彼女に「よく食べるね」って頻繁に言われたし、「悟空から食べること取ったら何にも残らないんじゃないかな」なんて彼女が言うぐらい、俺はすごく食べるみたいだ。でも、この街に泊まって早三日、それまでの間、俺は水以外何も口にしていない。
理由なんてない。いくら腹が減っても、いくら料理が美味そうに見えても、『食う気』がしないから食わないだけ。
「それに、昨日ちょっと食おうと思って、一口食ったんだ。ほら、すっげー変わったチャーハンだったろ?どんな味がすんのかなって思ってさ。だけど……」
「けど?」
「……美味いって、思えなかった」
思わず顔を俯かせてしまう。おかしい。さすがに自分でも分かる。だって、ぜったいありえねーもん。美味そうな匂いがするってことはちゃんとした味があるはずなのに。まずいわけじゃないのに、美味いって感じられなかった。せっかく作ってくれたなのに、残すよりもそう感じ取ってしまう方が嫌だった。
それまでただ黙って俺を見ていた八戒が俺の肩にポンと手を置いたかと思うと、まるであやすみたいに、何度も何度も肩を叩いてくれた。そうして、俺はようやく見えなかった答えを吐き出した。
「……あいつと……ナマエと食わなきゃ、何も美味く、感じねぇんだ……っ」
真っ白なベッドの上で規則正しい呼吸を繰り返す彼女は、三日前、襲撃してきた妖怪の毒にやられて倒れた。何の力もなければ武器も持たない彼女はいつも邪魔にならないようにと言ってジープに乗っていたのに、その日は俺を庇って、俺の代わりに妖怪の攻撃を喰らった。幸い、八戒がすぐ治療して命を脅かすことはなくなった。けど、人間にとって妖怪の毒を喰らうのは致命的だから、完全に安心はできない。結果的に彼女はこの三日間、目を覚ましていない。
「お前のせいじゃない」と、悟浄に八戒、そしてあの三蔵にさえ言われた。ただ三蔵の場合、「勝手に飛び出したこいつが悪ィ」と三蔵らしいことを言っていたけど。それでも、分かる。三蔵や悟浄に八戒は俺と同じように彼女を守れなかったことを悔いている。だから俺だけが被害者ぶってちゃダメだっていうのも分かっている。みんなショックなんだ、不安なんだ、彼女のことが心配なんだ。その上、俺がこんな状態になったら、心配事はもっと増える。しっかりしなきゃいけないのに。せめて彼女が起きる瞬間ぐらいは、笑ってあげたいのに。
重ねていた彼女の手を、思わず強く握る。ダメなんだ、俺、あんたに傍で笑っていてもらわなきゃ、普通に生活も出来ない。飯も美味くねーからって拒否しちゃうし、今まではどんなに楽しかったことだってそう感じられなくなって、色のあった世界はモノクロに還る。普段ならぜってーこんなことありえねーのに、いつからだろう。俺、こんなに弱かった……?
握ったてのひらが、ふっと握り返される。
ハッとして、顔を彼女の方を向けばそこには確かに瞼を開けた彼女の姿があった。しばらく天井を行き来していた視線がふとこちらを向き、そして、俺の原動力が、向けられて。
「……悟、空」
彼女の声にただ一言、自分の名を呼ばれただけなのに。きっとこんなに嬉しいと思ったのはあの日、三蔵が俺をあそこから出してくれて以来かもしれない。忘れかけていたよろこびを、また改めて再認識する。
ぱたぱたと八戒がみんなを呼びに部屋を出ていく音を頭の片隅で認識しながら、咄嗟に彼女を抱きしめて、何度も何度も彼女の名前を呼ぶ。話したいことも、云いたいこともいっぱいあった。謝りたかったし、何より無茶したことに対して怒ろうとすら思っていたのに。
「……ごめんね、悟空。心配してくれて、ありがとう」
ほら。いつもそうやって俺より先に謝って、俺より先にお礼を言っちゃうから。彼女の笑顔には到底適いっこないけど、ちゃんと彼女の声に応えたいから、だから、俺も笑って返すんだ。
ぼくがきみのなにかでうごくようにきみもぼくのなにかによってすくわれていればいいとおもいました
(091227)