「もう帰ってこないの?」
「そもそも此処に帰るべき場所はないからね」
あの子と同じ色の髪が揺れる。崩すことなく、傘越しに見えた笑顔に哀愁は全くといっていいほど、帯びていない。まったく読めない表情の裏に張り付けられた本音は、わたしと同じであることを願う。
「何か言いたそうだね」
「……何にもないよ」
三つ編に結われた髪が揺れる。にっこりと微笑んだまま、振り返る彼にどんな言葉を掛けたらいいか分からないなんて今更だ。
いってらっしゃい?帰ってくる保証どころか、醸し出すオーラが二度と会わないと言っている相手に向かって、そんな言葉を掛けるのは嘲笑って下さいと言っているようなものだ。
気を付けてね?先祖の血をどの同胞より強く受け継ぐ彼に、その言葉はあまりにも不似合いだ。戦闘種族と言われるあたしたちは戦いの中でしか生きる術を知らない。死と隣り合わせになるのは必然的だ。
「前にさ、俺があんたに言ったこと覚えてる?」
「……え?」
「“どうして、いつも笑っていられるの?”って言ったあんたの問いに、俺は“殺した相手を笑顔で見送るためだ”って答えた奴」
その笑みを浮かべたままの彼と、目が合う。静かに首を横に振れば、「やっぱりね」と予測済みだったらしい言葉が返ってくる。
「俺は戦いの中でしか生きた心地がしないんだ。だから、笑う理由はそれに繋がるものにしかならない。けどさ」
わざわざ降りた分だけ段を上ってきた彼にわたしは少なからず驚いた。いつもなら、自分は動かず人を動かすのに、今回はまったく逆。いつの間にか目の前に立っていた彼の手がスッと伸びてきた暁には首締められるんじゃないかと思ったけど、彼が触れたのはわたしの頬。
「あんたには、笑っていてほしいんだ。言葉にされると馬鹿じゃないのって思うことでも、あんたが黙って笑ってさえいてくれたら、俺はそれを察するから」
まるで、わたしの心を見透かしたように彼はそう言葉を並べた。要するに、今わたしは泣いてはいけないらしい。それでも、わたしの目からはぼろぼろと零れてしまうわけで。
いつもはその手で何もかもを壊すのに、今日の彼の手は余りにも優しくて、それが更にわたしの涙腺を緩めた。
「行か、ないで……ぇ、っ」
「残念だけど、そうもいかないんでね」
「帰、る場所……つくるからぁ…」
「あはは、参ったなぁ」
頬を撫でていた手はいつしか後頭部に回っていて、やっぱり彼はいつもなら考えられないぐらい優しい手付きでわたしを抱き締める。
「俺はあんたを壊したくない。けど、手放したくもない。だから、離れるだけ」
「そ、んなの……」
「おかしいのは今更だよ。俺自身、まさか誰かを好きになるなんて思わなかったし」
ゆっくりと温もりが遠ざかる。彼の匂いが離れていく。行かないで、傍に居て。嗚咽と共に飛び出そうな言葉を飲み込んで、わたしは一言だけ、彼に向かって言葉を放つ。
「好きだよ、神威」
振り向きすらしない彼の背を見送る。無意識の内に頬が緩んだのは、その背がやっぱり嘲笑うようにこう言っている気がしたから。
「馬鹿じゃないの」
(081227)