島原の遊郭。わたしはその数ある遊郭のうち、それなりに規模が大きい方である遊郭の遊女だ。禿も仕えるくらいの地位にいるが、決して花魁というわけではない。特別容姿が端麗なわけでもないわたしの元に、少し前から変わった客が訪れるようになった。少なくとも週一回のペースで訪れる彼はわたしを抱くわけでもなく、かといって話が目的かと言えばそういうわけでもなく、最悪の場合だと一言も話さず帰っていくときすらある。
そんな不思議な彼はなぜか、ウチの遊女たちはもちろんのこと、他の店の遊女たちからも人気があるらしい。実際、彼がウチに来るときは必ず外が騒がしくなるから、すぐに分かる。それまで、それなりに騒がしかった外が黄色い声援のようなものに変わるからだ。
どうやら、今日も来たらしい。
彼が来たのだと、わたしがそう察するのにもそれほど時間は費やさなかった。読んでいた書物を閉じ、立ち上がった頃にはいつも通り恐怖しか与えない笑みを浮かべて襖を蹴破り、わたしの部屋へ転がり込んでくるのだ。唯我独尊なのも大概にしてほしい。
「……毎回言ってますけど、襖を蹴破るのは止めて下さい。禿たちはそれを見る度嘆いてるんです」
「仕方ないよ、言うことを利かない襖が悪いんだから」
なんてワガママな。そもそもこの人は絶対そんな素振りすらしていないに決まってる。大体今彼が蹴破った襖はわたしや禿たちが毎日使っているわけだから、言うことを利かないわけがない。単純に面倒臭かったんだろう、襖に手を掛け横に引くという行動そのものが。
襖を直してから(といっても立てかけるだけ)パタパタと慌てて部屋から出ていく禿たちの背を見つめながら、心の中でごめんねと謝っておいた。遠慮・配慮という言葉とは到底無縁である彼はズカズカと部屋の中を進んできて、障子を開けるとその枠に腰を下ろした。
「……ねぇ、神威の旦那」
「堅苦しいなァ。神威でいいのに」
彼、もとい神威の旦那は片足をぶらんと部屋に垂らし、顔は愚か視線すらもわたしに向けずそう呟く。その目に映るのは何たるものか、わたしには分からない。
「旦那はここに何しに来てるんです?」
「んー……強いて言うなら、あんたに会いに?」
「口説くなら、もっとマシな嘘を吐いて下さい。旦那ほどの人なら、花魁の方が好みでしょう」
「俺の好みは俺にしか分からないだろ?勝手に決めないでよ」
「……なら、一つ伺いますが。旦那は毎回あたしを指名するのに、どうして一度もあたしを抱かないんですか」
そこでようやく旦那の視線がわたしに注がれる。ここはあくまで遊郭、大抵の客は憂さ晴らしや現実逃避など、理由は様々だが目的は同じで女を抱きにやってくる。中には単純に気に入った遊女に会いに行ったり、酒を飲みながら話をしに来たりする変わった客もいるが、旦那はどちらかと言えば前者寄りの人柄だろう。今まで抱かれることは愚か、指一本さえ触れてもらっていないわたしはもはや色んな意味で奇跡としか言い様がない。
「なに?抱かれたいの?」
「そ……っそういうことを言ってるんじゃないんです!わざわざお金を払ってここに来てるっていうのに、旦那は下手すればその窓枠に腰掛けて遠くを眺めて終わるときだってあるじゃないですか。……本当は何が目的なんです?」
神威の旦那は左右に揺らしていた足の、いわゆる貧乏揺すりを止めると、まだ薄ら赤い空を見上げながら「んー」と唸り出した。言えないのか、もしくは本当に理由がないのか。全く読めない『笑顔』という仮面が張り付いた顔を凝視すること数分、結局旦那はこう言葉を紡ぐのだ。
「やっぱり、あんたに会いにかな。これぐらいの頻度で俺が指名しとけば、とりあえず安心だからさ」
何の話だ。さっぱり見当も付かないまま、結局その日も旦那はわたしに髪の毛一本触れることなく帰ってしまった。本当に口説きに来ているのか、そもそも『安心』とは一体何を指すのか。相変わらず旦那には謎が多く、そして全くと言っていいほどその裏が、読めない。
その日の晩。けたたましい悲鳴を聴覚が捕らえると同時に、わたしは何事だという言葉を喉まで構えて部屋を飛び出す。そして、目の前に広がる変わり果てた店内に愕然とした。視界に飛び込んできたのは、仕えていた禿とさっきまで隣で笑っていた他の遊女たちが、首から多量の血を流して倒れている姿だった。あまりの衝撃に呼吸がままならなくなりそうになりながらも、わたしは覚束ない足取りで彼女たちを避け、その場から店の出入口の方へと駆け出した。
助けを呼ばなきゃ誰か誰でもいいどうしてみんな倒れているのどうしてわたし以外みんな目を醒まさないの何で何でなんで……っ?
「よかったよ、早くからあんたに近付いておいて」
ふと、そこで足を止める。開けっ放しの、とある遊女の小部屋、その窓枠に腰を下ろして笑みを浮かべているのは紛れもなく、神威の旦那。傍らには廊下に倒れていた彼女たち同様、うつ伏せの状態でピクリとも動く様子のない遊女の姿。足を組んでニコニコと変わることのない表情を浮かべる旦那の顔から、真っ赤に染まった両手に視線を移す。何を言われずとも、わたしは察した。
彼が、この有り様を作ったのだと。
「だ、んな……っ」
「やっぱりあんたは殺されてなかったんだ」
「どういう、ことですか……?どうして旦那がこんなことを……」
「仕事だからね」
「……そ……れだけ?」
仕事だから。たったそれだけでわたしの今までを、これからを、居場所を、思い出を、全てを奪ったっていうのか。
悲しみよりも怒りが込み上げる方が早かった。特徴ある長ったらしい着物なんか気にも止めず、わたしは旦那に向かって走り寄った、もちろん殴るために。反射的に勢いを付けて跳躍して殴りかかったが、明らかに戦い慣れている旦那にはいとも簡単にねじ伏せられた。そのまま床に抑えつけられ、更にはそのまま会話が続行された。
「何で怒るのか、俺には理解出来ないな。あんたは唯一この遊郭で生き残ったんだよ?」
「そ、れが……嫌なんです。わたしはそんな慈悲欲しくない!わたしに対する優しさが慈悲だって言うなら、今すぐ殺、」
「誰も慈悲なんてかけやしないよ」
そこで、ゆっくりと旦那の目が笑わなくなる。現れた碧い瞳に、わたしは思わず息を呑む。何もかもを射抜くような鋭い視線に、わたしは初めて旦那に緊張を覚えた。体が強張ったのはそれだけじゃない。今までは一切触れようとしなかった旦那が、なぜか今になってわたしの首筋に唇を寄せてきたから。
耳元で囁くように話しながら、旦那は徐々に鎖骨の方へと下降してゆく。
「あんたを生かしたのは俺のエゴだよ、俺はあんたが気に入った。あんたを生かすために今までどれだけ金を払おうが部下にあんたの存在を自然と気付かせるためにずっと通い続けたんだ。部下は俺が気に入ったって知ったものには手を出さないから」
「そんな……勝手、過ぎ……る……ッ」
「だからエゴだって言ってるだろ?」
中途半端に着物を乱した程度で、旦那はわたしを解放する。そして、無理矢理わたしを起こすと、また安っぽい笑みを浮かべて言葉を続ける。
「あんたの居場所はなくなったけれど、あんたはまだ生きてる。正しくは俺に生かされてる」
「……奪ったのも、そうしたのも旦那でしょう」
「うん、そう。だからさ、どうせなら俺に着いて来ない?」
「、は?」
聞いたくせに、旦那はわたしの答えを聞こうとはせず、そのまま手を引いて赤に染まった廊下を歩き出す。
「あんたの全てが島原の遊郭だっていうなら、場所が変わっても構わないだろ?」
「ちょ、ちょっと……」
「光が届くことはないけど、俺の目も行き届くし」
おいで?と振り向き様に言う旦那に逆らえないと思ったのは生かされているからか、はたまた島原で身に付いた勘の警鐘か。
夢を沈め
月に吼え
(090322)