ふわふわとした心地いい感覚に、少しずつ意識が浮上するのが分かった。パチッと、瞼が開く音が微かに聞こえて、いつも通りの、見慣れた景色がぼんやりと視界に入る。カーテンの隙間から差し込む透明な日差しと、布団を被っていてもぬくぬくとする気温に、朝が来たことを実感する。
また、ひとつ、目を閉じて、そのまま深く深呼吸すれば、なぜか、うまく言葉に言い表せない幸福と安心感に浸れた。
その、吸い込んだ空気に、嗅ぎ慣れた匂いが混じる。次いで意識がはっきりしてくる前からあった、ふわふわとした感覚がまだ続いていることに気付く。もう一度目を開け、少しだけ顔を動かせば、それまでもそこにあったであろう気配を、わたしはようやく認識した。
「ん、起きた?」
頭の中でうっすら思い描いていた通りの相手と視線が交わり、その目が柔らかさを含んで緩められる。
「おはよ」
「……おはよー、鉄朗」
朝の挨拶を交わすと、まるで壊れ物を扱うように優しく頭を撫でていた大きな手のひらが、最後に寝癖だらけのわたしの髪を一撫でしてから、ゆっくりと離れる。心地よさの正体を知り、鉄朗がベッドから立ち上がるのを追いかけるように、わたしもゆっくりと起き上がる。
鉄朗は既に日課のロードワークも済ませてきたのか、簡単な身支度や着替えも済んでいて、心なしか部屋を歩く足取りも軽やかだった。いつも通り、部屋の隅に置いたボストンバッグを漁る彼をぼんやりと眺めていると、その視線に気付いた鉄朗が顔を上げる。
「まだ眠い?無理に起きなくてもいーよ」
「……んーん、起きる」
少しひんやりした空気に思わず布団から出した足先を擦り合わせてから、ベッド下に敷いてあるラグへと降りる。芝生のようなきれいな深緑色の上を歩き、ラグの終わりに置かれていたスリッパに足を入れる。鉄朗が準備してくれたんだと、きっちり揃えられた置き方でそれを認識する。
込み上げてきたあくびを両手で覆いながら、洗面所へと向かう。髪をまとめて冷たい水で顔を洗っていると、少しずつ頭がハッキリとしてくる。いつも通り、洗顔フォームを泡立てて、鏡を見ながらその泡を顔に付け、ふと、気付く。昨日は、遅く帰ってきた上、連日残業続きで疲労困憊だったから、お肌のコンディションは良くなかったと思うのだけど、いつもと、泡の吸い付き方が違う気がする。
首を傾げながら、まんべんなく顔を洗い、それを水で流しながら、またふと気付く。昨日、どうやってベッドに行ったのかが思い出せない。それどころか、昨夜は鉄朗に会った記憶さえない。玄関の鍵を開けたところまでは何となく覚えているけど、それ以降の記憶が、まったくない。なのに、今のわたしはちゃんと寝間着に着替えているし、化粧も落としている。可能性はひとつしか思い当たらない。
タオルで顔を拭きながら、リビングへと戻ると、鉄朗はキッチンに立っていた。慣れた手付きで戸棚からコーヒードリッパーとフィルターを取り出し、コーヒーの支度をする彼に、そっと呼びかける。
「鉄朗……」
「んー?」
「もしかして、昨日……ベッドまで運んでくれた?」
コーヒーキャニスターに手を伸ばしかけた鉄朗の手が、ぴたりと止まる。そして、そのままこちらを向いた視線は、何か思案するようなもので、それがどんな感情から来ているのかまでは、読み取れなかった。
「ちゃんと自分の足で向かってましたヨ」
「……覚えてない」
「まー、相当疲れている感じだったしな。あ、でも風呂は一緒に入りました」
「えっ!?」
思わずタオルを強く掴んだわたしの反応に、どこかホッとしたような笑みを見せた鉄朗は、調理スペースに手を置いて体を支えながら、歯を見せて、いつもの意地悪な表情を作った。
「そのまま寝たらって言っても聞かねえし、でもひとりで入らせるのは心配だったから。体は自分で洗っていたけど、髪は俺が洗わせていただきました」
あ、ちゃんと昨日のナマエチャンには許可取りましたヨ、なんて続ける鉄朗に、何だか自分が怖くなる。そんなわたしの様子を見てか、覗かせた意地悪な笑みを少しずつ薄れさせていった彼は、ふっと笑いを漏らしてから、コーヒーを立てる準備を再開させる。
「風呂から出たあとはいよいよ限界って感じだったな。横になったら起きなさそうだったから、俺の足の間に座ってもらって髪の毛は乾かしたし、スキンケアもさせていただきました」
「……ご迷惑おかけしました」
どうりで、いつもより肌がもちもちしているわけだ。おんなじスキンケアを使っても、使い手が違うだけで、ここまで違うのかと思うほどの仕上がりになっていて、嬉しい半面、少し悲しい。普段のわたしを、よく見てくれているからだろう、髪の毛を乾かす前にトリートメントを塗布してくれていたのも、髪からそれが香ってくるから分かる。
情けなさから、少しだけ小さくなった声でこぼれるように出た言葉で謝れば、鉄朗はカラカラと笑う。
「いやいや、迷惑なんて思ってねえから。むしろ化粧水の順番とか間違っていたら、ナマエの肌が荒れちゃうじゃん。思い出すのに必死で、そんな風に感じている暇なかったわ」
この人は、わたしを甘やかすのが、本当に上手だと思う。
さも、何でもないみたいに、そんなことをさらっと言う鉄朗に、胸がじんわりと温かくなる。コーヒーポットでフィルターにゆっくりとお湯を注ぐ彼にそっと近付き、ポットを傾けるのをやめたタイミングで、とんっと、その広い背中に頭を預ける。すると、また笑ったのか、大きな体が少しだけ揺れた。
「どーしたの?惚れちゃった?」
「もうとっくに惚れている」
「……やば、俺がときめいちゃったじゃん」
ふふ、とわたしが笑うと、それに呼応するように、鉄朗もまた短く笑いを漏らす。彼の背中から頭を離すと、体をこちらに向けてきた鉄朗が優しくわたしの頭を撫でる。
「勝手にキッチン借りて、朝ごはん作ったけど、食べる?」
「うん、食べる」
二口コンロには小さな鍋が置かれていて、ほんのりと湯気が上がっているのが見えた。パンの焼ける香りとコーヒーの香りがほんのりと交わる朝の香りに、何だかホッとする。
ちゃっちゃとスキンケアを済ませて戻ると、見慣れたテーブルには既に料理が並べられていて、ちょうど淹れ立てのコーヒーがマグカップに注がれているところだった。カリカリのベーコンとつやを残す半熟の目玉焼き、丸ごとひとつの玉ねぎがくたくたになるまで煮えたコンソメスープにこんがりといい色のトースト。きっと、誰しもが求める、理想の朝ごはん。
それを、大好きな人と向かい合って食べる。これを幸福と呼ばずして、何とするか。
「口元が緩んでますケド〜?」
マグカップをテーブルに置きながら向かいの椅子に腰かける彼にそんな指摘をされるけど、きっと今のわたしたちは合わせ鏡状態。
「鉄朗こそ」
「……いや、だって、何かさ」
珍しく歯切れの悪い鉄朗は、言葉を選んでいるように見えたけど、少しして、観念したように、眉を下げて笑う。
「嬉しいじゃん、こういうの」
曖昧なようでいて、確信的なその言葉は、これ以上にないものだった。鉄朗も、わたしと同じ気持ちでいてくれることが奇跡みたいに思えて、可笑しいような、照れるような、何とも言えない感覚に口元がくすぐったくなる。
「うん、嬉しいね」
思ったことをそのまま口に出せば、彼の目元がまた柔らかく、優しく緩んで、そんなことにも幸福を覚えた。
手を合わせて、食卓の挨拶をする。ほんのりと優しく湯気をあげるスープをスプーンで一掬いして、ふっと冷ましてからそっと啜る。玉ねぎの甘さが立つ温かなスープに、またホッとする。向かいで鉄朗がマーガリンを塗ったトーストを齧り、サクッと音を立てる。いい音、なんて思ったら、自然と口元が綻んだ。
「ちょっと、腫れたな」
「え?」
スプーンで簡単にほぐれる玉ねぎを掬って一口食べてすぐ、鉄朗が問いかけるというより、独り言のように紡いだ言葉を、わたしがたまたま拾った。何の気なしに顔をあげると、リーチの長い彼の腕が伸びてきていて、認識するよりも早く、その指先がそっとわたしの目元を縁取る。
「……わたし、泣いた?」
「昨日な」
そう言ったっきり、言葉を紡ぐ気配のない鉄朗の様子に、そっと視線をテーブルに彷徨わせると、昨日外したであろう仕事用の腕時計が目に入る。その拍子に、急にいろんなことを思い出した。
連日の残業にようやく終わりが見え始めた昨日、後輩がミスをした。割と大きなもので、取り返しが付かなくて、上司と一緒にフォローに回り、心が折れそうになっている後輩のフォローもし、同時に終わりが目と鼻の先にある業務もこなし、気が付けば、お昼を食べることも、休憩を取ることもなく、一日が終わっていた。ほとんど乗ったことのない終電に揺られながら、帰っていることを実感した瞬間、蓄積された疲労がどっと肩にのし掛かってきた。
どうにか玄関の前まで辿り着き、鍵を差し込むために持ち上げた腕さえ重怠く感じた。だから、扉を開けて、漏れてきた部屋の明かりに、何で電気付いているんだろうと思いながらも、安心感を抱いたのは事実で。さらに、そこへおかえりという言葉と一緒に現れた鉄朗の姿を見て、完全に気が抜けて、訳も分からず、涙が溢れたのを、鮮明に思い出す。
同じように、訳も分からずわたしを抱きしめてくれる鉄朗の体温に安心して、気持ちも心も和らいでいるのに、決壊した涙腺を締めるのは難しかった。どうした?なんて、優しい声で問いかけてくる鉄朗に、きちんと言葉として紡げていたかどうか分からない声を、彼はわたしを抱きしめたまま、最後まで聞いてくれていた。
「俺、昨日ほどここに居てよかったって思ったことねえわ」
わたしの様子を見て何かを感じ取ったのか、鉄朗はまたトーストを齧って、そんな風に言ってくる。もぐもぐと咀嚼する姿を見つめたままでいると、彼は茶化すでも、いつもみたく悪戯っぽく笑うでもなく、真剣な眼差しを携え、視線を介した。
「ナマエが泣くほどしんどいってとき、そばに居てやれなかったら、きっと死ぬほど後悔してたと思う」
そう思うと、日頃の行いが良いな俺、とそこでようやくいつもの調子に戻る鉄朗に、また口元がくすぐったさを覚える。感情がうまく飲み込めなくて、嬉しいのに、ありがとうって言いたいのに、息を吸えば、口を開けば、泣いてしまいそうだった。
視界に、齧りかけのパンがお皿に置かれたのが見える。指先に付いたパン屑を軽く払った彼の指先は、スープの器に添えられたわたしの手を取る。何気なく、つられるように顔をあげれば、向かいに座る彼はまた柔らかい笑みを浮かべていた。
「ナマエは何でも頑張りすぎて、ちょっとやそっとのことじゃ根をあげねえから、ずっと心配だったけど。いざとなったら頼ってくれるんだって、少し安心した」
朧気な記憶の、優しい声とリンクする。昨日抱いた言い様のない安心感と、温もりと、散り散りになりそうだった気持ちを必死に繋ぎ止めてくれていた鉄朗のすべてが、体に流れ込んできて、手が、胸が、全身が、熱い。
ガタッと、彼が椅子から立ち上がって、わたしのそばにやってくる。重ねられた手のひらを引かれ、わたしの体を自身のほうへと向けた鉄朗は、少し迷うようにゆっくりと、しかし回した腕にはしっかりと力を込めて、わたしを抱きしめる。
堪えていた感情は、一度溢れ出したら、塞き止めるのは困難だった。震える肩をいっそう抱き寄せられて、しゃっくりと一緒に跳ねる背中がそっと撫でられる。
「何かあったら、……いや、何かなくてもいーから。すぐ、いつでも呼んで。ぜーんぶ放り投げて、ナマエのところにすっ飛んでくるから」
嗚咽混じりの、決して可愛くない声で、どうにか返事をする。それでも、鉄朗は気にする様子なんてなくて、それどころか、回した腕に込める力を強めて、隙間もないくらいにわたしを抱きしめてくれた。
ティッシュを渡されて、鼻をかんでいる間に鉄朗はわたしの目元に残る涙を拭ったあと、保冷剤の入ったタオルを持ってきてくれる。これが後輩の言っていた“すぱだり”ってやつかもしれない。
「ナマエ、今日したいことある?」
少し冷めてしまった目玉焼きをフォークで刺しながら、鉄朗が何気なく尋ねてくる。ジャムを塗ったパンを咀嚼したわたしは考え込む振りをして、口の中が空になってから、その言葉を口にする。
「…………鉄朗の誕生日、お祝いする」
「おっ」
返ってきた言葉は、驚いたものではなく、どこか感心したようなニュアンスのものだった。
「覚えてたんだ?」
「鉄朗が泊まった理由を考えて……思い出した……」
昨日の出来事は思い出せたけど、ではなぜ昨日、鉄朗が泊まることになっていたのかは、少し考えれば、すぐに思い出せた。今日が、鉄朗の誕生日だからだ。
正直言えば、ここ数日は忙しすぎて、忘れていた。約束をしたのはずいぶん前で、まさかその時にはこんな状況になるなんて想像もしていなくて、当日の何日か前に準備すればいいかと思っていたせいで、ケーキどころかプレゼントさえ用意していない。
きっと、そんなことはクローゼットや冷蔵庫を開けた鉄朗ならすべてお見通しだろうから、今さら隠すこともない。しかも、よりによって、祝われる側の人間が祝う側の人間の世話をするという情けない現状を生み出してしまったこともあって、目も当てられない。
「じゃ、言って?」
「えっ?」
持っていたフォークをお皿に置いた鉄朗は、そのまま両手を膝に置くようにしてしまいこみ、じっとこちらを見据える。
「例の言葉、クダサイ」
話の流れで、ハッとする。言い方は怪しげではあるけど、要するに、だ。
「……誕生日おめでとう、鉄朗」
「ん、ありがと」
「大好き」
「うぐ……ッ、今言うのはずるいと思います俺も大好きです」
そこで、空気が緩むのを感じて、思わず口元が綻ぶ。そんなわたしの様子を見て、また鉄朗がホッとしたように笑う。その表情ひとつで、昨日のわたしが、どれだけ彼に心配をかけていたのか、痛感させられる。
「知っていると思うけど、プレゼントもケーキも用意できてないの。だから、今日は鉄朗のやりたいことをしよ」
「まじでか。ナマエのやりたいことに付き合おうと思っていたんだけどなあ」
んー、と唸りながら、半分以上あったパンを一気に口に頬張った鉄朗は、それから首を傾げたり腕を組んだりして、しばらく考え込んだ末、コーヒーを一口含んだあと、「じゃあ、」と前置きをする。
「ちょっと散歩してから、昼寝しよ」
「……おじいちゃんみたい」
すごく平和な提案にまた笑いがこぼれる。スープの入った器を持ち上げながら、鉄朗は少しだけ口角をあげながら、言葉を続ける。
「何か、まだ眠そうだし。寝られなかったら、いいじゃん、動画見ても、ゲームやってもいいし」
主語のない言葉だけど、わたしのことを指しているのは明白だった。頭はすっきりしているけど、確かに眠気があるのは間違いない。でも、それじゃあ意味がない。鉄朗がしたいことを一緒にやりたいのに、わたしに合わせてくれていたら、本末転倒だ。
なのに、少し先の未来を想像しながら、はにかむ鉄朗の顔を見たら、言えなかった。
「ナマエと一緒にいられたら、何だっていいんですよ、俺は」
そんな、最大級の殺し文句をさらりと言われたら、ダメだなんて、言えるはずがなかった。
彼の優先順位が何かなんて、昨日のことを思えばすぐに分かる。大切にしてくれている分だけ、わたしだって、鉄朗を甘やかしたいのに。
「……わたしのやりたいことに付き合ってくれるんだっけ」
空になったお皿の上にフォークを置き、何の脈絡もなくそう告げたわたしの言葉に、鉄朗はマグカップを机に置きながら、浅く頷く。
「付き合いますとも」
「じゃあ、……ケーキ、買いに行こ」
そこで、今日初めて鉄朗が目を丸くする。手をつないで散歩して、帰ってきたら微睡み中で昼寝をして、仮に寝られなかったら、動画を見るのも、ゲームをするのも、いい。隣に大好きな人がいるんだから、もちろん、幸せに決まっている。
だけど、鉄朗の誕生日である今日、わたしがやりたいことは、やっぱり彼をお祝いしたいことだから。その平和な日常に、ほんの少しの非日常を交えるのも、一興だと思うのだ。
すべての意図が伝わっていなくとも、彼が賛同してくれることは目に見えている。ニッ、と口角をあげた彼は身を乗り出して、わたしの案にひとつ首肯する。
「いいね。今日はナマエチャンが初めて甘えてくれた記念でもあるし」
「それ、毎年お祝いするの?」
「そーしようかねえ。ちょうど俺の誕生日と一緒だし」
ナマエはなに食べる?なんて、今からどの種類を買うのか尋ねてくる鉄朗に、また自然と笑いがこぼれる。自分がお祝いされる用のホールケーキを買うなんて発想は毛頭なくて、しかもわたしの好きなケーキを、誕生日である彼自身が買おうとしている。わたしが買うと言っても、きっと、そこは譲らないんだろうなと思う。
すっかり高くなってきた日差しが部屋を照らす。肩を並べて歩く外は少し冷えているだろうけど、背中に当たる日の光と、肩に当たる彼の温もりのおかげで、温かいんだろうと思いながら、わたしは残りのスープにそっと口を付けた。
(221117)
★ 11/17 Happy Birthday Kuro Tetsurou.
・BGM:ハミングバード/Novelbright