料理を教えられる上で、第一に肝に銘じておけと言われたのは、感情をスパイスとして加えることだった。悲しい気持ちで作ったら、料理にもそれらの気持ちが乗って食べる相手に伝染してしまうんだとか。必ず料理は楽しんで作れ、そして食べてもらう相手のことを考えろ、そうすれば自然とおいしいものができあがるからと。なら、愛のスパイスとやらもその類いに加わるのかと聞けば、それはまた特別な感情だから違うものだと言われたのはもうずいぶん前のこと。なのに、その言葉は今でもはっきりと覚えている。

 戦うことも見張ることも怪我の治療も、なにひとつ満足にこなすことが出来ない代わりにわたしがこの船、モビー・ディック号で唯一できること。それは、料理を作ること。
 決してそういった扱いを受けていたわけではないけど、何も出来ないことから肩身の狭い思いをしていたわたしに、女なんだから料理くらいは出来るだろ?と四番隊隊長兼料理長のサッチさんに尋ねられたのがそもそものきっかけだった。静かに首を振るわたしに彼の強面はにこっと微笑み、ムリヤリ包丁を持たされたときの恐怖は一生忘れない。
 他の隊長さん方も慌てた様子で『早まるな!』と口々に言われたし、正直言えば期待もされてなかったんだろうと思う。皮を剥くときは刃に親指を乗せる!手は猫!火は微調整!何から何まで、きっちり厳しく教えてもらった。今では味見と称してフライングでおかずを食べに来るクルーもいる。美味かったっていうたった一言だけでも、誰かの口から零れるなら、わたしはまた明日がんばろうって思える。サッチさんのおかげで、わたしは料理を作るのが大好きになった。





 野菜を挟んだまな板の上で、包丁がとんとんとテンポの良いリズムを奏でる。今日の船はいつになく静か。理由は、分かっている。みんなの気持ちが海よりも深く沈んでしまいそうな、そんな日。こういうときはあったかくて美味しい料理を出すのが一番の薬だと、教わった。
 脳内でその言葉を思い出して、また少しだけ切なくなる。勢いよく首をぶんぶんと横に振り、気持ちを切り替えて下味をつける準備をしようと調味料に手を伸ばしたところで、バァン!と勢いよく扉が開いた。ビクッと肩を震わせ、包丁を持ったまま、恐る恐る後ろを振り返ると、そこに立っていたのはエースさんだった。逆光なのにプラスして顔を俯かせていることから、彼が今どんな感情を抱いているのか、まったく分からない。

「水を一杯、もらえるか」
「あ…はい!」

 顔をあげないまま、こちらに歩み寄ってくる彼はいつものトーンでそう言葉を紡ぐ。包丁を置き、水で軽く手を洗ってから、コップにミネラルウォーターを注ぐ。樽の上に腰かけるエースさんのもとへ小走りで持っていくと、そこで彼はようやく顔をあげる。「コケるなよ?」なんて、ちょっとした冗談を口に、笑いながら。


「今日の飯は何だ?」
「逆に何が食べたいですか?」
「肉」
「言うと思いました」

 そうして、また歯を見せて笑う。血はつながってないのに繋がりが強いここの人たちは、みんな、親父さんにそっくりだ。エースさんがコップに口を付けるのを合図に、わたしも元いた位置に足を伸ばす。中断された下味作業を再開しようと調味料に手を伸ばし、頭の片隅で今切った野菜とお肉を使った一品を考える。

「俺は、奴を追おうと思う」

 耳に届いた音は、先ほどよりもワントーンばかり低い声色だった。塩が入った容器を手から落としそうになる。わたしが動揺した様は、十分すぎるほどエースさんに伝わってしまったらしい。彼の喉に、水分が通っていく音が聞こえる。

「いつ、ですか」
「この水が飲み終わったら」
「は、早い……」
「お前、相変わらずおもしろい返事の仕方をするよな」

 けらけらと笑って、また一口、エースさんが水を飲む。振り返らないと残りがどれくらいの量なのか分からないけど、少なからず今のわたしにそんな勇気は持ち合わせてなどいなかった。

 月が出ていない、数日前の夜のこと。手に入れたばかりの悪魔の実の見張りをしていたサッチさんは、或る者によって殺された。聞いた話に寄ると、エースさん隊長を務める二番隊の隊員・ティーチさんが犯人らしい。現に彼はその日を境に姿を眩ましたし、何人かのクルーがその現場を目撃している。らしいというより、もはや決定事項のようだった。表ではバカやって、元気そうに見えるけど、一人になると、怒りに我を失いかけたり、悲しみに打ちひしがれたり。ここ数日、そんなクルーが後を絶たなかった。
 きっとそんな仲間の姿を見て、一番胸を痛ませていたのはエースさんだと、薄々分かっていた。表には出さないけど、親父さんの感じている責任と似たそれ相応の後悔を、彼は背負っている。隊長として、白ひげ海賊団の一員として、言葉に出来ないような感情に押しつぶさそうになっているんじゃないかと、思う。

「なァ」

 割って入ってきたいつもと変わらない声色に思考が中断される。それをきっかけに振り返ると、樽の上にいると思っていたエースさんが背後に立っていて、声はあげず肩を揺らして驚いた。さっきみたいに笑い飛ばしてくれたほうが幾分か恥ずかしくなかったのに、人が変わったようにまっすぐな瞳を向ける彼に息をするのさえ忘れた。

「お前は、止めるか?」

 呟かれた言葉を、一文字ずつ、ゆっくり咀嚼してゆく。今まさにこの船を飛び出し、裏切り者と称されるティーチさんのあとを追うエースさんを止めるか、否か。彼の気持ちが十分すぎるほど解る現状で、素直な答えのイエスも、嘘で取り繕ったノーも言えない。声に、出来るわけがなかった。

「俺を、止めるか?」

 どうして今差し出された答えがこの二択なんだろう。賢くないわたしが、彼が望むもっともな答えなんて選べるわけがないのに。
 回答に困って、目を泳がせていると、チラッと視界に入ったのはエースさんの持つ、空になったコップだった。それを見た瞬間、理解する。今のわたしが、きっと親父さんやクルーが何を言っても、エースさんはこの船を飛び出していくんだろう。意識して吸い込んだ空気は、何だか妙な味がした。

「……止めます」

 エースさんは望んでいなくとも、誰よりもサッチさんが望んでいるであろう答え。わたしなりのせめてもの、抵抗。

「そうか」

 一言だけ、そう紡いだエースさんは飲み干したコップをわたしに向かって差し出してくる。受け取ったら、彼は背中を向けてしまうのだろうか。彼の気持ちを何ひとつ知らずに、わたしは彼を送り出すんだろうか。受け取るために伸ばした両手は気付いたら違う方向に伸びていた、はずなのに。
 パリン、と硝子が割れる音がした。
 目の前にエースさんはいない。でも、あれから扉は開いていないし、わたしは彼の背中に彫られた親父さんのマークを目にしていない。代わりに視界にあるのは空を切った自分の手のひらと、ふわふわと揺れる漆黒の髪、それから体全体で感じる、人肌よりも少しだけ高い、温もり。

「約束する」

 間近に聞こえるエースさんの声に、また息をするのを忘れる。背中にある逞しい手のひらが、今から少しの時を経れば離れることを考えると、自然と頬は涙を受け入れていた。

「必ず、ここに戻ってきて、真っ先にお前の飯を食う。必ずだ」
「……破ったら、海に突き落とします」
「約束するって言ってんだろ?男に二言はねぇよ」

 一度だけ、ぎゅっと彼の肩に顔を押しつける。エースさんが約束を破るとは思っていない。次の島に着いたら珍しい花を摘んで来てやる、試作品のメニューが失敗したとしても全部平らげてやる。“約束”としたことを、エースさんはすべて守ってくれた。心配も、不安も、ありあまるくらい持っている。けど、それを上回るくらい、わたしは彼を信じたい。だから、怒りに肩を震わせるエースさんから、体を離した。

「行ってらっしゃい」

 男は背中で語れ、というのは親父さんの口癖であったけど、涙を見せるわたしに背中を向けたエースさんは間違いなくそれが出来ていた。一瞬だけ頬を掠めたあの指先は、きっと一生忘れられない。


(きみを思える)
百年の魔法


(110405)


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