たまに、ある。
不意に見上げた空がきれいだと感じたり、人知れず咲いている花を見つけて悲しくなったり。あの人の背中のラインが好きだと思ったり、何を考えているか分からない横顔を追って虚しいと笑ったり。生きている中で、些細なことに目を奪われ、何かしらの感情を抱くことが。
例えば、宇宙が本当に無限大に広がっているとしたら地球だけ生き物が生きることが出来る星だなんて嘘だろうとか、死んだら生き物はどういう経路を辿って次なる結末を迎えるんだろうとか、どうして前世・来世、天国・地獄なんていう存在も不確かな言葉が絶えず残っていたりするんだろうとか。証明しようもない、生きているうちには到底理解できないような、壮大なことに対して疑問を抱くことが。
たまに、あるんだ。
今日抱いた感情や思いも、そんなふとした思考に過ぎないのだと思う。これはわたしにしか分からない感情で、でも、自分にも分からない感情で。どうして、こうなっているのか、ここにいるのか、足が進んでいるのか、分からない。解らないの。
毒々しい色をした、自らの意志を持たない無機質な機械。周りの声をすべて遮るかのように、しかし警告音として聴覚を突き抜ける甲高い音色。きちんとしたバランスを保つために舗装された足元に伸びる錆び付いたレールからは、今からわたしと接触するであろう物体が、ガタガタと大きな振動と共に接近してくるのを感じる。虚ろに沈む目先、人通りが少ない時間帯・場所を選んだわけではないけど、遮断された空間の向こう側で、似たような格好をした人たちが口元に手を当てて叫んでいたり、大きな動作でこっちへ来るようにとジェスチャーをしている姿が見える。
助けようという意志があるのであれば、その空間を壊してでもこっちへ来ればいいのに。よく知りもしない他人相手に自分の命を差し出せるような世の中なら、きっとわたしはこんなところに立っていない。知っているのに、少しでもそんなことを考えてしまった思考が馬鹿らしくて、そっと瞼を閉ざす。警告音を上回る音が、響き渡る。わたしを呼ぶほうへ、ゆっくりと顔を向ける。この瞬間が終わったら、わたしは、どこへ行くのかな、なんて―――不意に襲いかかる、浮遊感。
薄らと暮れてきて、赤みがかった空にかかる雲がちらちらと浮かんでいるのが見えて、また、きれいだなんて思考が働く。痛みが来ないのは後になって一気に来るからなのか、それとも単に痛覚が鈍っているのか。そもそも滅多に感じることのない浮遊感のほうが強く伝わっている体にとって、痛みは二の次に来るものなのかもしれない。雲よりも薄く存在していた三日月がチラリと視界に入ったのを認識して、わたしは再度瞼を閉ざした。
さよなら、という言葉が頭を過った。
「嫌だなァ。せっかく人が助けてあげたのに死なれたら骨折り損じゃないか」
トッと、着地した感覚があったのに、それは嫌に軽やかで、かつ未だに体が痛みを感じないことを疑問に感じたわたしが瞼をあげた瞬間、空と雲と月だけだった視界に突然見たこともないお兄さんが飛び込んできた。三秒ほど、フリーズ。そして、お兄さんと顔の距離が五センチもなかったことに気付いたわたしはとりあえず条件反射、暴れてみる。ガッチリと腰を固定されている腕は微動だにしなかったけど。パァンと、とてもデコピンをしたからといって鳴る音ではないはずだけど、そんな音を奏でたわたしの額とお兄さんの人差し指に、ありえないありえないと思いながら、両手で額を押さえていると、お兄さんはわたしを解放した。といっても、ポイッとゴミでも投げ捨てるような感じでだけど。
「命を生むのが女の仕事でしょ?死ぬなら強い奴を産んでからにしなよ」
乱暴に投げ出された衝撃で打った腰やお尻やらを労るには腕の本数が少なすぎる。とりあえず足りない分は泣いて誤魔化そうと思っていたら、お兄さんがわたしと視線を合わせるように屈み込んできた。オレンジ色の髪に黒色のスーツを着崩しているお兄さんは、どう見ても学生ではなく社会人らしかった。どこかの漫画で見たような髪型をしていること以外は特徴のないお兄さんだけど、絶えることのない笑顔が、何だか妙に怖かった。
「公共交通機関が絡む人身事故っていうのは、定刻通りに進まないとお客さんに迷惑が掛かるから、のちのち莫大な被害費を支払わなくちゃいけなくなる。もし、あんたが死んだら、それを背負うのはあんたの身内だ。俺はそういうの気にしないけど、あんたはどうなの?」
「身内なんて、いないから」
そこでようやく、笑顔によって閉ざされていたお兄さんの瞳が開かれる。ビー玉みたいに丸いそれは青くて、ひどく綺麗な印象を受けた。まるで、底の深い海みたい。
「家族も友達も仲間も、そんな風に名のある関係になった人間はいない。わたしを受け入れてくれるような家も場所も、ないんだから」
独りが楽だと知った日から、わたしは誰とも触れ合わずに生きてきた。手足をばたつかせる男の子、機転を利かせる女の子、口を動かす大人たち、氷よりも冷たい世界、安直で愚かな社会。すべてがマイナスではない、プラスがあるのも知っている。けど、分かりたくはない。人の感情というものはプラスよりもマイナスのほうが勝るものだから、視えるものすべてに反発したくなる。それに何よりも反発したのは、逆らったのは、目を背けたのは、世界の色を閉ざしたのは、わたし。
「だから、死のうと思ったんだ?」
「そんな、的確な意識で動いたわけじゃないよ。気付いたら、あそこに立ってた」
「夢遊病みたいだね。でも、」
ふっと、またお兄さんの瞳の色が瞼によって遮られる。そうしてまたパァンと、わたしの皮膚とお兄さんの指先が音を鳴らす。ただし、今度接触したのは頬だ。
「ロクに知りもしないくせに、何もかもから目を逸らそうとするのは、感心しないな」
ただでさえ涙によって、水面のようにゆらゆらと歪んでいた視界はさらに安定を失う。デコピンも頬をぶたれたのも初めてで、ドラマや映画で見るよりもかなり痛いことを知ったわたしはかなり動揺した。けど、それよりもお兄さんが紡いだ言葉のほうが、何倍も心を揺るがされた。
「すべてを知ったようで何も知らない人間が、世の中を語って死んでちゃ世も末だ。あんたが思っているほど、世界も人も冷たくない。それは、俺があんたを助けた時点で証明されている」
笑みを浮かべたままのお兄さんは咄嗟にぶたれた頬を押さえたわたしの手に手を重ねて、再度口を開く。
「俺はあんたが死のうと興味がない、関係もない。あんたが死のうとした意思を奪う権利も理由もなかった。だけど、助けた。どうしてか分かる?」
決定的な何かをハッキリと紡ぐことのないお兄さんの言葉に、わたしはかぶりを横に振る。そっと離れてゆく手の甲から、それに合わせて温もりも離れてゆくのを体感する。
「ほらね。やっぱりあんたは物事を知らなさすぎる」
それだけを言い残し、去っていこうとするお兄さんをわたしは慌てて引き止める。前が止められていないスーツの裾は風に舞って、引き止めるのに最適な役目を果たしてくれた。肩越しに振り返った横顔は相変わらず微笑んだままで、そこから感情を読み取ることは出来ないけど、おそらく視線だけをこちらにくれているお兄さんに向かって、わたしは震える唇で何とか音を紡ぐ。
「お、兄さんの……名前は?」
「今から死のうとするような弱い人間に教える名前はないよ」
「お兄さんが教えてくれるんでしょ?」
そう言えば、また青い瞳とご対面。学校も、雨風を凌ぐ役割しかない家も、何もかも放り捨てて、この人についていくのも有りだと判断をしたのは、コンマ数秒前。死ぬところをお兄さんが助けたということは、わたしは一度は死んだも同然。次にお兄さんの名前を聞くときは、遮断された空間に立っていたわたしとは別のわたしとして生きていく。
体ごとわたしに向き直ってくれたお兄さんはキッと眼光を鋭く光らせ、怪しく笑う。どちらかと言えば怖くて悪い顔をしているのに、かっこいいと思ってしまったわたしを、お兄さんは「やっぱり何も知らないんだね」と笑うだろうか。
「神様の神に威圧の威で、神威。いい度胸してるね、あんた」
「勝手に救わされた命だもの。責任持ってこの世界を教えてよ、神威さん」
「おもしろい女だね。同族の匂いがするよ」
何とも自然な動きで腰を引き寄せられ、神威さんの顔が寄ってくる。この人、ホストなんじゃないの。わたしがあの空間にいた時点で集まっていた人は周りに居たらしく、かといって次に起こる段階に対する抵抗の素振りすら見せなかったわたしはかなり歪んでいると自負したら、ふっと笑みがこぼれた。
アナログピース
(110804)