元来、学校のセキュリティーはどうしても何処かしらに隙が生じてくるものだ。学校に在籍する生徒や教師のみならず、校門を潜るのはPTAであったり荷物を運送してくる兄ちゃんだったりする。誰も来る由のない時間帯なら未だしも、白昼の来訪者の中から、人の目を持ってしても見極めるのに困難な善し悪しの区別を、今の技術が判別できるわけがないのだ。
 人でも機械でも難しい。ならば、多少なりとも人の目のほうが当てになるというものだ。

「銀ちゃーん!久しぶり〜!!!」

 こういう、さも今現在もこの学校の生徒ですみたいな面して上がり込んでくる馬鹿くらいは、安易に追い払えるだろうよ。
 屋上の扉をバーンッと壊れそうになる勢いで開け放ち、空に向かって両手を高々と上げて迫ってくる元教え子に、俺は冷ややかな視線を送る。タックルされ、腹部を圧迫するように力強く腰に腕を回されたおかげで、内臓的なものが出そうになるのも、毎度のことだ。既に慣れつつある。
 未だ寒くなることも多い春先だというのに、卒業当時よりも格段に『女』になった彼女は、少し早いのではないかと思うような、春なら映えそうなパステルカラーに身を包んでいた。こんなド派手な馬鹿、平然と廊下を歩こうものならすぐにでも追い出されそうなものだが、少なくとも月一で顔を出すこいつの存在そのものが、ここにいる教師や生徒の目に馴染んできてしまっているらしい。
 それも四月になり、ここの顔触れが少し変わればリセットされるが、どうせ彼女は、気にすることなんてないはずだ。

「全っ然、久しぶりじゃねーんだけど。お前、この前も学校来てたろ」
「うん、来た!銀ちゃんは二年生の研修に着いていっちゃっていなかったけど!来た!」
「違ェ。テメーそのあとも来てやがんだろうが。お土産くれって、職員室にまで押し掛けてきて」
「あれ?あ、うん!そうだった!でも二〜三週間は経ってるから、銀ちゃん久しぶり!」
「……あーハイハイ久しぶり久しぶり」

 まるで小学生のような天真爛漫さを持ち合わせる彼女は、お恥ずかしながら疾うに成人している。この高校を卒業し、しっかり楽しんだらしい四年の大学生活も終えても尚、なぜか彼女はここへよく顔を出しに来る。そりゃ、こいつ以外に今までも何度か顔を見せに来た奴はいたが、こうも頻繁にやって来る奴はかなり珍しい。
 化粧が崩れるだろうなんていう遠慮は、こいつに必要ない。顔面を鷲掴みにし、頑なに離れようとしない彼女を力任せに引き剥がす。「キャー!」なんて楽しげな声を高らかに上げた彼女は、今日はすんなりと離れたほうだ。

「で、今日は何の用だ?最後の挨拶にでも来たのか?」

 用、と言っても彼女がここへやって来る理由は、言ってしまえば一種の暇潰しだろうと、俺は読んでいる。ある時はビニールシートと花見団子、ある時は子ども用の簡易プールとホース、ある時はさつまいもとアルミホイル、ある時は熊手と小銭、それにプラスアルファ諸々をかなり大きめのボストンバッグに詰め、平然とあの校門を潜ってやって来る。そして、いつも決まって屋上にいる俺を捕まえては、それらを使うに適した場所へ移動するのだ。
 然し、だ。今日の彼女は珍しく軽装だった。かばんすら、持っていない。唯一キュロットのポケットから携帯に付いているであろう何処か見覚えのある気怠そうな目をしたキャラクターのキーホルダーが覗いている以外、何も持っていないようだった。
 ならば、今日は何をしに来たのか。
 胸ポケットへ手を伸ばし、煙草の箱へ指先が触れたところで、その奥にある飴を拾い上げる。小さな袋にこれでもかという程に敷き詰められた目と口の付いた苺のイラストを二つに引き裂くように口を開ける。今更、世間話をしに来たわけでもあるまいにと思いながら、舌先で飴を転がせば、それは歯に当たってコロッと音を立てた。

「うん」

 一瞬、唸ったのかと思った。だが、数秒経って、それが肯定を示すトーンであったことに気付き、センスのないデザインが描かれている袋から、彼女へと視線を向ける。
 今まで幾度となく勝手に押し掛けてきたくせに、イエスを謳った彼女の表情は厭に清々しい。

「わたしね、上京しようと思ってるんだ」

 まるで、結婚の報告をするかのような、決意のこもった言葉と力強い眼差しに、適当な相槌すら打つことが出来ず、俺はただただ目を細めて笑う彼女の言葉を続けて聞く他なかった。

「ずっと悩んでたんだけど、やっぱり動かないまま、自分で可能性を潰すのは良くないなって思ったし、それはここに通っているときに学んだから。とりあえず、いっぱいお世話になった銀ちゃんには、先に伝えておきたかったの」

 彼女が、一歩足を踏み出す。おそらく頭から足先まできっちりコーディネートされていたであろう彼女のスタイリングは、来客用の簡易的な青スリッパによって台無しになっていた。パコン、パコンと歩く度に間抜けな音が鳴る。俺が腕を置く柵の前で来ると彼女は歩調を止め、組んだ両腕をそこへ置くと、そのまま視界一面に広がるグラウンドを見下ろした。

「ねぇ、銀ちゃんは不思議に思ったことある?」

 そうして、まったく違うことを尋ね出す。あまりにも脈絡もきっかけもなかった話題展開だが、どもらなかっただけでも十分凄いと自分で思う。

「あァ?何を」
「わたしが、今更、学校に来てる理由」

 風に乗って、グラウンドを囲うようにして咲きまくっている桜の花びらがちらほらと屋上へと巻き上げられる。何を思ってそんなことを聞いているのか、ちらりと彼女の横顔を盗み見たが、その瞳は風を心地好く感じたことによって閉ざされた瞼に遮られていた。表情だって、先程と何ら変わらず、清々しいものだ。
 知らねーよ、とは、答えられなかった。実際知らないし、解らないのは本当だが、口に出来ないのはまたべつの問題からだった。

「……嫌いだったのは、知ってっけどな」

 紡いで、口内で飴玉を転がす。口を開いた状態でコロコロと立った音が外に漏れたのか、或いはまったく関係ないのか、細められた目元がちらりとこちらを向いたのが分かる。
 まだ、こいつが卒業する前の話。彼女は、クラスメートから苛めに遭っていた。机がなくなっていたり、教科書が破られたりなんて漫画で描かれるような苛めじゃない。存在はそこにあるものとして、単に無視するという、極めてシンプルだが、苛められている側の精神は着実に削られてゆく、実に陰湿なものだ。まだ『学校だけ』がすべての世界であった彼女は、次第に不登校気味になっていった。
 俺が今こうして語っているように、当時も、その事実は火を見るより明らかに露見していた。現国科目として彼女のクラスを受け持っていた俺は、クラス担任のもとへ苛めの改善を促しに行ったことがある。けど、結果として担任が行動に出ないのは、彼女自身が改善を求めてもいなければ望んでもいないことを告げたからだった。

「うん、嫌いだったよーあの頃は。毎日、何も楽しくなかった。夜早く寝ても、朝なかなか起きられなくて。心配したおばあちゃんが、毎朝起こしてくれて、散歩に連れ出してくれてからは、少し楽しくなったけど」

 何事でもないみたいに笑う彼女が、当時かなりの不安を抱えて生きていたことを、俺は知っている。彼女のばあさんが散歩に誘ってくれていたという話は今初めて聞いたが、もしかしたら、その後に進展があったのは、そういった良い気分転換があったからかもしれない。

「でもお前、俺が学校に来いって言ったら、次の日から素直に登校し始めたじゃねーか」

 苛められているから学校に行きません。行く気がないのでクラスの改善をする必要はありません。いくら当事者からそう告げられたからと言って、ハイそうですかと放置する奴の気が知れない。
 今を生きる子どもの多くは、自分の正しい居場所に悩み、苦しんでいる連中が殆どだ。そこに必要とされているか、果たしてそこに居てもいいのか。『地球』から見れば、『世界』の、『日本』という国の中の、ひとつの『学校』というのは、どこまでも小さな空間であるはずだ。けど、みんな、そこから出発していく。そこから、また一回り大きな世界へと旅立っていくのだ。こんな小さなところで立ち止まり、未来を潰していくのは、勿体無い。
 その日は駄目でも、明日明後日、一週間後、一ヶ月後には、自分で感じるその場の空気も、他人が纏うその雰囲気ですら、毎日わずかに異なっているはずだ。だから、

「うん」

 と。そこで、彼女が今一度頷きながら、肯定を言葉に表す。随分と暖かみを帯びた風がそよそよと頬を撫で、細かく巻かれた彼女の髪を弄んだ。

「友達が出来なくても、勉強が出来なくてもいいから、毎日学校にだけは来いって、あの時、銀ちゃん、言ったよね?学校に行く“楽しみ”と本来の“目的”、どっちも『ない』なら、行く意味なんて、全くないのに」

 組んだ両腕に体を預けるように屈めた彼女は、懐かしんでいるようにも、悔しがっているようにも思える双眸で、今し方校門を潜って来た在校生を見つめていた。そんな眼差しとは裏腹に、やはり、彼女の表情が暗くなることはない。いつだって、晴れやかだ。

「でもね、今なら分かる気がするの。いつだって、人は「あの時のほうが良かった」「この頃は良かった」って過去と今を比較する。だけど、それは「あのとき頑張れたんだから」って、つらい瞬間を踏み台にすることも出来る」

 ちらりと、彼女を一瞥すると、不覚にも目が合ってしまった。その瞳に、あの頃の曇りは一切見受けられなかった。

「頑張って毎日学校に来て、ただ教室に居るのも怖くて、気を紛らわすように始めた勉強は今までが嘘みたいに捗って、順位は上から数えるほうが早くなった。『がり勉』って言われるのが怖くて、お洒落にも気を配った。頭が良いだけじゃなくて、見た目も少しくらいマシなら、誰もなにも言わないでしょ?」

 学校へ来いと言っておきながら、それ以上の干渉は却って刺激になるかもしれないと思った俺は、必要以上に彼女へ声を掛けることを控えていた。時折、廊下で鉢合わせになったときは彼女のほうから話し掛けてきたし、苛めと称される行為が悪化している様子がないのは、クラス担任からも聞いていた。
 だから、著しくこいつの成績があがったときや、生活指導として引っ掛からない程度には華やか且つ綺麗になっていったときは、正直驚いたというよりは唖然としたことを、今でもはっきりと覚えている。

「だけど、不安と恐怖でごはんが喉を通らなくて、毎日ちょっとずつ痩せていって、これは醜いかもって思うくらい痩せちゃった時があったの。体操着だとバランスが悪くて、すごく恥ずかしかったのは、今でも忘れられない」

 優しいベージュの腕時計が袖から顔を出し、彼女が柵に手を置いた拍子にカンッと軽い音を立てる。改まったように、まっすぐに顔ごと視線を向けられ、俺もそれに倣わざるを得なくなる。
 と、そこで、気付く。

「でもね、「モデルみたいだな」って、銀ちゃん、言ってくれたことがあったの。些細な一言だったのかもしれないけど、あの頃は、それが何よりも大きな言葉だった」

 空気が揺れる。空間が、震えている。
 落ち着かないような、そわそわとした空気。それでいて、花の甘味を含んだ肌に優しい風は、数日前に感じたものと非常に似ていた。

「嫌で仕方なかったけど、頑張って毎日来て良かった。わたしに今の選択肢があるのはね、ぜんぶ銀ちゃんのおかげなの。だから、銀ちゃんにはすごく感謝してる。本当に本っ当に感謝してる。いっぱいありがとうって言っても伝えきれないくらい、本当にね、感謝してるの」

 当時は出来なかった友達との思い出を作る為に毎回あれだけ大きな荷物を抱えてきていたのも。
 俺が学校に居なくとも、拒否してきた時間を埋めるように、彼女がこの学校の空気に触れ、浸っていたのも。
 同年代で築けなかった仲間も、先輩として繋がりを広げていっていたのも。
 ぜんぶ、知っていた。でも、だから、無下には出来なかった。

「この学校に入って良かった。銀ちゃんが、この学校の先生で良かった。この学校で出会えて、本当に嬉しかった」

 ゆらゆら、俺をまっすぐ見つめる双眸が揺れる。一切の曇りがない瞳と清々しいという印象しかなかった彼女の表情が、ぼろぼろと崩れる。
 数年前の式当日、彼女は何の思い入れもないここを去ることに何ら抵抗はなかっただろう。周りがどれだけ泣き、仲間との別れを嘆こうが、彼女の感情は一ミリ足りとも微動だにしなかった筈だ。
 それが、世間的にこの学校を卒業して数年。今更、名残惜しく思うとは、彼女としては計算外だろう。

「ありがと……っ」

 遂に溢れ返り、肌を伝ったそれを、彼女は隠そうとはしなかった。苦しげに眉を寄せ、小さく鼻を啜ってはいたが、それでも、やはり覚悟を決める為に何かを得、何かを捨てることを選んだ彼女の表情は、至極あっさりしたものだった。
 今も昔も変わらない強がりなところが、果たして吉と出るか凶と出るか。
 口内でずいぶんと形を縮めた飴玉は、質量が軽くなったせいで、歯に当たるとカラッとそれらしい音を立てるようになっていた。口角をあげる際、それを歯で挟むと、ガリッと砕ける音がした。

「無茶、しねー程度にな」

 がんばれ、とは言えなかった。
 明るくなった髪越しに、頭を撫でる。俺が今出来る精一杯のエールだ。何かしらは、伝わっただろう。今度は肩が揺れるくらい、大きく鼻を啜った彼女は本日何度目かになる俺への感謝の声を紡いだ。

(140318)
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