「じ……っじんちゃん!」
「なんだい、ハニー?」
「た…………っタンマ!」
絞り出すように放った声は、案の定情けなく裏返って、室内に響く。首元を掠める他人の肌やら髪の毛やらがもたらすくすぐったい感覚に、もう頭はパニック寸前。わたしの思考は、何にも思い浮かばないくらい、真っ白なのにショートする一歩手前という、矛盾した状況に陥っている。
やれやれと言わんばかりの様子で吐息を漏らしながら、彼・神宮寺レンはゆっくりとした動作で、わたしの首元から顔を上げる。起き上がる際、肩から流れるようにして彼の髪が一房落ちてくる様は、ひとつの演出か何かのようで、美しすぎて思わず息を飲んでしまった。
離れた、と思えばそれほど距離は開いていなく、ちょっと屈めば鼻と鼻がぶつかりあう間合いで、彼は頬杖を付き、困ったように眉を下げて、こんな風に尋ねてくる。
「俺は、いつまで待てばいいのかな?」
相変わらず甘い声色がどこか切なく響き、思わずうっ、と喉が引きつる。怒っているようにも見えるけど、そうじゃない。これは、拗ねているのだ。
理由は単純明快。わたしが、いつまでも彼を焦らしているから。
もともと極度の恥ずかしがり屋であるわたしは、恋愛経験が少ない。手を繋いだりすることはもちろん、スキンシップの一環であるボディタッチも、苦手。自分からするのは元より、されることだって例外じゃない。彼とは付き合い出して長いから、いい加減名前で呼んでくれないかという申し出に対し、「神宮司さん」から「じんちゃん」という妥協もいいところの案を飲んでくれた彼は、本当に優しいと思う。(本当はダーリンと呼んでほしいみたいだけど、今のわたしには到底無理な話だ)
押さえ込まれる様にして、肩に触れられていた手のひらが二の腕に沿って撫でられ、それが何とも名残惜しそうな触れ方だったのもあり、彼からの愛しいという想いが肌越しに伝わってきて、心臓が強く跳ねる。
「今日は珍しくハニーのほうから誘いがあったから、つまりはそういうことだと踏んで来たんだけど?……俺の自惚れだったってことか」
「ち、違う!」
先ほどよりも格段に声を張り上げて否定の言葉を連ねれば、彼は驚いたように、或いはきょとんとした顔で、わたしにまっすぐな視線を注いでくる。何の感情も乗っていない視線だけれど、わたしはそんなことでさえ、既にギブアップ寸前である。
そんなわたしの気持ちを見透かしたように、彼はふっと息を抜くように口元を綻ばせ、頬杖を付いていた手でそっとわたしの頭を撫でる。慈しむかのような優しい手付きに、いつもなら恥ずかしさのほうが勝るのに、今は大きな手のひらが髪を梳いてゆく感覚が気持ち良くて、自然と瞼を閉ざす。
「ハニーが勇気を出してくれたことは分かっているよ。意地悪してごめんね」
「……ううん。わたしのほうこそ、ごめんなさい」
「何にも謝ることなんてないさ。こうして、俺を部屋へ呼んでくれただけでも、大きな進歩だと思っているから」
どこまで優しい人なんだろう。最近になって、ようやくどうにか自分から抱擁出来るまでにはなったけど、キスと、それから先のことは、少し考えただけで、頭に血が昇ってのぼせてしまいそうになる。実際、キスのその先へと進もうとした彼に、わたしの脳は対処が追い付かず、一度気を失いかけたことがある。罪悪感からなのか、もともと気の遣い方は人一倍だったけど、それ以来、より一層、彼はわたしに合わせてくれるようになった気がする。
甘えていてばかりでは駄目だと思って、せめて、キスくらいは自分から出来るようになろうと、漫画を読んだりドラマをたくさん見たりして、ある程度、視覚的には慣れた。見ることは平気になったから、次は実践だと思って、今日は思い切って彼を部屋へ呼んだというのに。いざ本人を目の前にしたら、抱き締めるどころか、彼の体に触れることさえ出来なくて、気付けばあれよあれよとベッドに結い付けられて、思わず制止をかけたのだけど。
わたしが焦っていることも含めて、じんちゃんには何もかもお見通しだったのかもしれない。
「キスも出来ない彼女で、ごめんね」
「俺からするから問題ない。もう謝るのはなしだよ」
止むことのない心地よい感覚にぼーっとしながら、瞼を持ち上げて端正な顔立ちの彼の瞳を見つめる。目の前で綺麗に笑う彼のそれが伝染したのか、少しずつわたしの口角もゆるゆると緩んでゆく。
シーツの上を這った彼の手のひらが、投げ出されていたわたしの指に絡まる。髪の毛を梳いていたほうの手のひらもわたしの顔に触れてきて、頬から目尻の辺りを親指で撫でられる。開いた瞼を閉ざせば、ギシッとベッドのスプリングが軋んだ音を立て、彼が距離を詰めてきたのが分かった。柔らかい感触が唇に当たって、同時に仄かな温もりも感じる。ちゅ、と微かにリップ音を立てて彼が離れてゆくのを感じながら、そっと瞼をあげる。至近距離にいる彼と視線が交じり合って、その双眸が柔らかくなるのを見て、わたしはやっぱりつられて口元が綻ぶ。
「余裕そうだね?ハニー」
「余裕に見える……?」
「あぁ。このまま先に進んだら、受け入れてくれるんじゃないかってくらいにね」
頬に添えられていた手のひらが下降して、わたしの下唇に彼の人差し指がトンっと当てられる。それから、顎を伝って首元をツッとなぞられれば、途端、顔に熱が集中したのを自覚する。そんな様子を見て、じんちゃんがクッと笑いを殺すように吹き出す。
「…………じんちゃんのいじわる」
「ふふっ……ごめんごめん。反応が可愛いから、つい」
そっぽを向いて未だに笑いを堪え続ける彼に、わたしは空いたほうの手で拳を作って、じんちゃんの肩に軽く当てる。こっちは至って真剣なのに、笑うなんて失礼だ。別の意味で顔を赤くしたままにしていれば、視線だけをこちらに向けたじんちゃんが、今度は先ほどよりも少し荒っぽい手付きで、頭を撫でられる。
「ごめんね。お詫びに何か淹れるよ。何がいい?ココア?紅茶?それとも、ハーブティー?」
「……ココア」
「オーケー。待ってて」
にっこりという音がぴったりなくらい綺麗に笑った彼は、最後にわたしの髪を梳くように一撫でしてから、ベッドから降りる。きっと意図はないと思うのだけど、尾を引くような仕草に、少しだけ胸がチクリと痛む。
わたしの部屋はワンルームだから、リビング兼寝室である空間にキッチンがある。収納が多いに越したことはない、ということでじんちゃんがキッチンメーカーに発注を依頼して流し台の上に付けてくれた吊戸棚の中身は、わたしよりもきっと彼のほうが熟知している。わたしの部屋でありながら、彼が飲み物を入れてくれるのは、そういうことなのである。
体を起こして、慣れた手付きで戸棚を開ける彼の背中をぼんやりと眺める。この前、百円ショップへ行ったことがないという彼を連れていった店先で購入した取っ手付のボックスに、先ほどじんちゃんが連ねた飲み物の粉末や茶葉が入っている。緑茶、珈琲など、種類も味も多種多様。わたしの家にあるポットやコップで出すには恐れ多いようなものまで、あのボックスにはいろいろ入っている。全貌を知るのが怖くて、きちんと見たことがないのは、彼には内緒の話。
いいもので入れると美味しいんだよ、と言いながら軽く万を超えるロイヤルスプーンをわたしの家に常備させた彼は、今もそれでココアを掬って、ワンコインにも満たない安物のマグカップへと入れる。今までは執事さんにやってもらっていただろうから、若干恐ろしい光景ではあったものの、もう慣れたもので、ケトルに水を注いでセットすることさえ、楽しんでいるように見える。
そこで、ふと、あることが気になった。些細なことなのだけど、気になり出すと、どうしても口にしたくなってしまうわたしは、どこか機嫌良さげに鼻歌を口ずさみ出した彼の名前を呼ぶ。「ん?」と口角をあげたまま、顔だけをこちらへ向けられたその角度が絶妙に格好良くて、出来れば普通に正面を向いてほしいと思ってしまう。
「何で、いつもココアか、紅茶か、ハーブティーなの?」
「……もしかして、別のものが飲みたい?」
「えっ!ち、違う……!ごっ、ごめん、違う……」
思わず二回続けて否定の言葉を並べたわたしを笑うこともなく、ただ小首を傾げて次の台詞を待つじんちゃんに、わたしは辿々しく言葉を続ける。
「その箱の中、いろんな種類の飲み物があるけど、じんちゃんがなに飲む?って聞いてくれるとき、大体その三つだなぁと思って。……ただ、それだけなんだけど、ね……」
何だかとても面白くないことを聞いているようで、徐々に声が尻すぼみになっていったけど、彼にはきちんと届いたらしい。なぜか、満足したような笑みを浮かべながら、感心するように何度も頷く。
「そっか、気付いちゃったか。さすがだねハニー」
「え……っ」
褒められたのになぜか素直に喜べず、そこで唐突にわたしはネガティブモードに突入する。もしかして、その飲み物にはそれぞれに元彼女さんとの大切な思い出が詰まっていて、それを少しずつ忘れるためにわたしに飲ませているとか……!
「今、妙なこと考えたね?」
「え!?かっ、考えてないよ!?」
「全部口に出ていたよ」
もう穴があったら入りたいレベルで恥ずかしい。穴はないから、布団を被ることにしました。
けらけらと笑いながらこちらへと近寄ってきたじんちゃんは、難なく頭から被った布団を引っぺがし、ぐしゃぐしゃになったわたしの髪の毛を整えてくれる。
「知っていると思うけど、俺は今まで女の子みんなに、平等な扱いをしてきたからね」
さらりと耳元の髪を流し、次いで、彼はまっすぐにわたしの双眸を見据えて、落ち着いた声で唱えるように言う。
「“特別な女の子”は、君だけだよ」
長い睫毛が伏せられ、掬われたそこに彼の唇が落ちる。まさに目と鼻の先で広がる甘い空気に当てられ、頬や額が急激に熱くなるのを感じて、思わず手の甲で口元を隠しながら、ほんの少しだけ体を引く。それを見て、わたしの髪の毛を指先から逃がした彼は、わたしの顔を覗き込むように身を屈めてくる。
じんちゃんの言葉は純粋に嬉しいのに、恥ずかしさのほうが勝って、その熱は耳にまで達していることが容易に分かる。まっすぐな視線に耐えられず、両手で顔を覆えば、彼はまた可笑しそうに笑いながら、もう本心かどうかもわからない謝罪を口にする。うぅ……完全に遊ばれている。
遠くの方で、カチッとスイッチが切り替わるような音が聞こえた。お湯が沸いたことを知らせるサインだ。あやすように頭を撫でられてから、彼は改めてキッチンの方へと向かう。蜜柑色のマグカップにお湯が注がれ、ほんのりと甘いココアの香りが部屋を包む。
「変な思い出はないけど、俺がこの三択を与えるのには、ちゃんとした理由があるんだよ」
熱を冷ますように、両方の頬に手を当てていたわたしへ、じんちゃんはそんな風に言ってくる。顔を上げて聞き返そうとすれば、彼は手に持っていたマグカップをわたしのほうへ差し出してきて、慌てて受け取れば、「熱いから気を付けて」と優しく言葉を掛けてくれる。
「ココアや紅茶、ハーブティーには共通して、心を落ち着かせる効能があるんだ。ハニーは比較的フレッシュな味を好むみたいだったから、ハーブティーならレモンバーム、紅茶ならニルギリ、アンブレやバイカル……オレンジ系統のものが多かったかな」
あんまり聞いたことのない単語を耳に入れながら、知らないところで彼がわたしの好みのものを選んで飲ませてくれていたことに驚く。あのボックスに茶葉がたくさんあるのは、もしかしたらわたしが無意識に除外とされていた子たちなのかもしれない。
ふーんと相槌を打ちながら、未だ熱々のマグカップにそっと指先を添えて、入れてくれたココアに口を付ける。甘すぎず、くどすぎず、いつも通りの香りと共にホッと肩の力が抜けて、ほんのりと癒される。
「人間の体っていうのは賢くてね、無意識に足りない栄養素を欲してしまう仕組みになっている。酸っぱいものや辛いものを食べたくなるのは、その一端なんだ」
何だか珍しい話をしてくれるなーと思いながら、うんうんと頷いていると、彼は布団の裏側に転がっていたルームウェアをわたしの肩に掛けてくれる。何気ない心遣いを欠かさないのも、じんちゃんらしい。
「ハニーは疲れている時、大体紅茶を飲みたがる。それが肉体だけでなく、心まで疲弊している時は、ハーブティーになるかな」
「…………んっ!?」
突然、そんな風に言われ、ココアを口に含んだままだった為、聞き返したような声しか挙がらず、危うく吹き出すところだった。肩の隙間もないくらい、きっちりルームウェアがわたしの体にフィットしたのを確認したじんちゃんは、人差し指を立てながら力説する。
「何も不思議なことじゃないさ。柑橘類には疲労回復や貧血防止、ストレスを緩和する効果だってある。紅茶やハーブティーは、味はもちろんだけど、香りで癒される女性が多い。欲するのは必然だ」
「でも、ココアは柑橘系じゃないよ……?」
確かに、思えば梅干しやグレープフルーツといった酸っぱいものは、じんちゃんと付き合う前からよく食べていたけど、今、わたしが口にしているのは、彼の話とはまったく異なる甘い甘いココア。隠し味に何かを入れているようにも見えなかったし、疲れていると甘いものが食べたくなるとはよく聞くけど、共通性のない話題をじんちゃんが出すようには思えない。
そんなわたしの返しに、彼は満足そうににっこり微笑んでから、首肯する。
「ココアにも似た効能があってね。リラックス効果はもちろん、美肌やアンチエイジング効果、冷え性も改善できるみたいなんだ」
何だか専門家みたいだ。わたしの感心する眼差しを受けながら、じんちゃんは続ける。
「ただ、俺がこの三択の中にココアを入れたのは、紅茶やハーブティーと違う点があるからなんだ。なんだと思う?」
ココアの表面にふーっと息を吹き掛けて冷ましていたところへ、唐突に彼から質問が降ってきて、思わず素っ頓狂な声をあげる。えーととか、うーんととか、無駄な前置きをたくさん紡いだところで、答えに結び付く言葉が浮かぶはずなどなく。
「……甘いのが、体にいい……とか」
おずおずという擬音がぴったりな視線を彼に注ぐと、じんちゃんはほんの少しだけ目を丸くして、「いい線にいったね、ハニー」と褒めてくれる。
「ココアには幸福を感じられる成分が入っていてね。甘いから太るイメージが強いココアだけど、一杯で十分空腹感を満たしてくれるから、ダイエットにも向いている。幸福感を得られるから、ストレスを軽減してくれる上に、リラックス効果を高めてくれるってわけだ」
説明を聞きながら、それを一口含みながら、さっき自然と肩の力が抜けたのを思い出す。もしかしたら、このココアはわたしが知らないだけでかなり高いものなのかもしれないし、或いは彼が高価なスプーンで入れてくれたからという理由で美味しく感じるのかもしれないけど、理由はそれだけではなかったようだ。
じんちゃんはわたしの知らないことをたくさん教えてくれる。そんなことにも幸せを感じながら、もう一口、ココアを飲んだところで、ふと何か忘れていることに気付く。上手いこと丸め込まれた気がしたけど、わたしが紅茶やハーブティーを選ぶのには無意識なりに理由があった。そして、彼はその理由を理解していた。なら、わたしがココアを選ぶ理由はなんなのか。彼の説明してくれた内容を思い返し、わたしの合点がいった考えは有り得ない方向で着地をした。勢いよく顔をあげれば、危うく未だココアがたくさん入ったコップを落とすところだった。落とさずに済んだのは、反射神経のいい彼がそれを支えてくれたからだ。
「あ……っ愛なら、もらってるよ!?じんちゃんから、いっぱい!!!」
「えっ?急にどうしたの?」
慌ただしげに視線をコップからわたしへ戻してくれるじんちゃんに、まとまりきらない思考で、なるべく早く、一生懸命、言葉を並べる。
「ココアには、幸福を感じる成分があって。でも、わたしが無意識に、紅茶でもハーブティーでもなく、ココアを選ぶのは、幸せを感じてないからってことだよね……?でも、違う……違うの。わたし、じんちゃんから、たくさん好きって感情をもらっているし、か……っ返せていないけど、返していきたいとも思っているし……ココアなんてなくても、じんちゃんといるだけで、いっぱいいっぱい、幸せ、感じられているよ」
自分がとんでもなく恥ずかしいことを口にしていることも、顔が真っ赤に染まっていくのも分かっていたけど、それよりも彼の中の理由を払拭しなきゃと思う一心で、ただ頭に浮かぶ言葉を声にして連ねた。
一瞬、呆気に取られたような顔をした彼は、それからふっと微笑むように目を細めて、コップに添えていた手をそっとわたしのほうへと押し戻す。
「落ち着いてハニー。とりあえずココア、一口飲んで」
優しく肩を撫でられ、促されるまま、温かいそれを口に入れる。ルームウェア越しに感じる彼の手のひらの温かさと相まって、焦りも、戸惑いも、自然と和らいで、甘さを含んだ吐息が漏れる。
「そっか、理由を言ってなかったっけ。不安にさせてごめんね」
「……ううん。わたしの方こそ」
何だか今日は謝られてばっかりだ。もう一口、ココアを飲んで、改めて未だ温かい眼差しをくれるじんちゃんと視線を交わらせる。珍しく照れたような表情を浮かべながら、彼は笑いを隠し切れない様子で、小さく唇を動かす。
「これは、少し自惚れな気もするんだけどね。ハニーがココアを選ぶときは、大体、キャパシティオーバーな時が多いんだ」
「キャパシティ……?」
「摂取のし過ぎ……とでもいうのかな。足りないんじゃない、むしろ、逆なんじゃないかなって」
じんちゃんにしては回りくどいその言葉を、少し冷静になった思考回路で咀嚼しようとするも、どうもわたしの頭では処理に限界がある。言っている意味がいまいち理解できないというのが顔に出ていたのか、彼は少し困った顔をして、更に噛み砕いた言い方をしてくれる。
「ま、要するに。俺が抱き締めたり、キスをしたりすると、ハニーは顔を真っ赤にして照れるだろう?……“そういうとき”が多いってことだよ」
後の祭りではあるけど、わざわざ口にさせるようなことではない言葉を紡がせてしまった上、さっき誤魔化すようにココアを飲んだことを思い出し、まさに目の前で肯定を示したかのようで、これでもかってくらい顔に熱が集まるのが分かる。
だけど、嬉しいことも、悲しいことも、極端に言葉が少ないわたしのことを考えてくれていたものだったことが分かって、むず痒い気持ちになる。尽くされるよりは尽くすタイプであろうことは分かっていたけど、それでも、あくまで、わたしを癒すためだけに、この三択をくれたのだと思うと、ただただ愛しさが募った。
もともと、今日彼を呼んだのは、彼からもらっている愛を返したかったからだ。だから、今こそ、今のわたしなりの最上級のお返しを、する時。
「!」
肩を撫でてくれていた腕に縋るように引き寄せ、前のめりになった彼の唇へ触れるだけのキスをする。コップを持っていたこともあって、あんまり大きな行動は出来ないけど、そうであってもなくても、今のわたしに出来ることは、これが精一杯。
力の限り瞑った目をそっと開けながら、少しずつ距離を開けると、目をまんまるにしたじんちゃんが視線が交わる。口を少し開けた状態、まさにぽかんという表情をする彼は一向に口を開く様子がなく、わたしは居心地悪く介したままだった視線を彷徨わせながら、ついでに言葉も探す。
「……キャパシティが、空いたから……せ、摂取を、っ!」
指に引っ掻けていたコップが大きな彼の手のひらによって奪われ、意識がそれに逸れると同時に、ぐっと肩を引かれる感覚に思わず目を見開く。次の瞬間には、先ほど触れたばかりの彼の唇が重なり、至近距離にある彼の長い睫毛に鼓動を持っていかれそうになって、慌てて瞼を閉ざす。ココアとは異なる彼の甘い香りが引いたり寄ったりして、短く繰り返されるリップ音に頭がくらくらしてくる。恥ずかしくて堪らず、逃げたいのに、抱きすくめるように肩を抱かれているせいで、身を捩ることさえままならない。
せめてもの抵抗で、少しだけ顔を背けたけど、彼は難なくといった様子で、首を捻るだけでまたわたしの唇を捕らえてくる。こんな風にしつこいじんちゃんは、とっても稀だ。いつもなら、嫌がる素振りをすれば、すぐにやめてくれるのに。ココアでほぐされたはずの緊張がぶり返して、震える指先でじんちゃんの服に縋り付けば、何を思ったのか、唇が彼の舌先でツーッとなぞられ、次いで甘噛みされる。びっくりして思わず目を開けると、さっきまで閉ざされていたはずの青い瞳と視線が交わる。いつもは冷静な双眸が熱を孕んだようにぎらついていて、ぼーっとその瞳に魅了されている間に、唇の隙間を縫って這ってきた彼の舌先に肩を震わせると同時に、反射的に再び瞼をきつく閉ざす。
もう、オーバーヒート寸前だ。そんなわたしをあやすように、いつのまにコップを置いたのか、逆手で頭を撫でながら、乱れ落ちてきた横髪をわたしの耳へと掛けながら、体はゆっくりと後方へ押し倒されてゆく。ただでさえ、正確に機能していない思考回路が、呼吸を奪われたことによって、更に悪化の一途を辿る。まともに状況が把握できず、キスの波に抗うように塞がれる唇の隙間から声に成り切らなかった音が漏れたところで、ようやく唇が離れてゆく。お互いの熱い吐息が漏れ、真っ白な頭で、目の前が涙で歪んでいることだけを認識する。
「……ごめん、っ」
わたしの傍らへ顔を埋めるようにして頭を落ち着けたじんちゃんが、切羽詰まったような声で、そんな言葉が耳元で呟かれる。瞬きを何度か繰り返している内に、少しずつ落ち着いてきたわたしの脳はゆったりと回り出して、そこでようやく謝られたことを理解する。
「じんちゃん……?」
縋るようにして掴んでいた服から手を離し、とんとんとその胸を優しく叩きながら名前を呼ぶと、彼はゆっくりとその身を起こす。いつもは綺麗に整っている髪の毛が珍しく乱れていて、さっきじんちゃんがしてくれたのに倣って、彼の前髪を撫でれば、その向こう側に見えた彼の表情は、苦悩に満ちていた。何かを言おうとして、薄ら開いた唇から、さっきわたしを惑わせた真っ赤な舌が顔を出しては引っ込む。言葉を、選んでいるように思えた。
軽率な行動だった、と少し反省する。わたしのペースに合わせて、いろんなことを制御してくれている彼に対して、さっきわたしが取った行動はそれをなし崩しにする引き金でしかない。謝ろうとしたら、それを察したのか、彼は眉を下げて困ったように笑う。
「ハニーが謝ることじゃない。君を傷付けたのは、俺だから。抑えられなくてごめんね」
言って、そろりともするりとも言える優しい動作で、柔らかくわたしの頬を撫でる。
「……抑え、ないで」
添えられた彼の手に手を重ねると、わたしの口からは、そんな言葉がするんっとこぼれた。自分で言っておいて、じんちゃんと一緒に目を丸くすれば、彼は別の意味でまた驚いたように、苦笑混じりに顔を緩めた。
「何でハニーまで驚いているの?」
「ふふっ……何でかな。じんちゃんにつられた」
どちらからともなく、笑いが漏れて、気まずさにも緊迫にも似た空気が和らぐ。まっすぐに見据えられる瞳からは、さっき見た熱はすっかり落ち着いていたけど、その奥は鋭さだけが残っていた。まるで、草むらで息を潜める獣のよう。重ねた指先を絡めて、慎重に言葉を選んでいく。
「さっきは、びっくりしただけ。嫌なわけじゃないの」
「それは分かってる。でも、焦ることだってない」
絡めた指が緩く動いて、互いの熱を分け合う。いつだって足並みを揃えてくれようとするじんちゃんだけど、わたしだって、彼に合わせてあげたい。優しい彼にだからこそ、答えたい。小さくかぶりを振って、わたしは言葉を紡ぐ。
「焦ってない。部屋へ呼んだのも、その先を望んだのも、わたしだから」
だから、じんちゃんが欲しいよ、なんて、都合のいい言葉を続けて紡ぐことは出来なかった。
本音を言えば、ずっとずっとそうだった。アクションを起こすことも起こされることも恥ずかしくてたまらないのに、彼の指先に触れられることはとても嬉しかったし、彼の唇が体を這う感覚だって、くすぐったかったけど、それでも心地よかった。だからこそ、怖かった。これ以上、進んでしまったら、自分がどこまでのことを彼に望んでしまうのか。彼がわたしを傷付けたくないと思ってくれる気持ちはわたしも同じなのに、わがままになってしまいそうで、嫌だった。
するりと、唯一自由の利く彼の親指がわたしの頬を大きくなぞる。優しく触れられているのに、身を捩りたくなるような甘さを含んだそれに、絡めた指先に少しだけ力が入る。
「……後悔しない?」
彼の言葉が乗る吐息に、双眸に、指先に、熱がこもる。答えるよりも先に少し身を屈められ、乾いた唇がぺろりと舐められる。“こういうこと”をするんだよと揶揄されているようで、頬が熱くなっていくのを感じながら、でも、わたしだって、後には引けなかった。唇で、彼の上唇を甘噛みする。驚いたように見開かれた目は、一瞬で細められ、そうして、妖艶に色を変えてゆく。
「もう、止められないよ」
耳元から、首筋へ、彼の唇が落ちてゆく。頬の上で絡まっていた指先はいつのまにかシーツに押し付けられるように結い付けられていて、ただただ熱い彼の手のひらを縋るように握る。
「……いいよ」
ただの肯定でもなく、大丈夫でもない、許可。重ねられた指に力が入って、それさえも心地よく思える。呼吸も、鼓動も、香りも、彼に奪われてゆく。その、盲目的に落ちていく感覚でさえ、やっぱり心地よかった。
分け合うように縋って
(170214)