薄ら肌寒さが際立ってきた廊下は、教室から疎らに出てきた人たちによって少しだけ人口密度を増す。寄りかかったときはひんやりとした冷たさが強かった壁は、じんわりとわたしの体温を拐って、徐々に同じ温もりを帯びていった。
三年四組と書かれたネームプレートは、もう随分とわたしの目に馴染んだものだ。隣のクラスから出てきた東峰に「今日もスガ待ち?」と聞かれるくらいだから、見慣れたものは、客観的に見ても増えているらしい。勢い良く首を縦に振れば、顔が吹っ飛ぶ心配をされながら、「相変わらず、仲良いな」という台詞を落として、彼は去っていってしまった。
わたしと、スガこと四組の菅原は、お付き合いをしている。思えばもう付き合って一年が経過しているけど、何となくはっきりと付き合っていると言うのが恥ずかしくて、誤魔化したような表現になってしまう。それを知っている東峰はたぶん“ラブラブだな”というのをかなり噛み砕いて、“仲が良いな”と言ってくれる。何とも有り難い限りである。
ふにゃりと、破顔するのを、慌ててセーターの袖を伸ばした手のひらで覆う。にやける顔を隠す意味は勿論あるのだけど、何より、感じた幸福が一分一秒でも多く、わたしの手元に残るように。
そんなことを考えている内に、四組の教室が騒がしくなる。どうやら、長いと有名なホームルームが、ようやく終わりを告げたらしい。跳ね上がるように身を起こし、わたしは前と後ろ、一斉にガラリと開いた扉から教室の中を覗む。
始めこそ、帰路へと着こうとする第一歩を邪魔するわたしを怪訝そうに見つめていた視線も、徐々に慣れたものになっていき、最終的には「またお前か」みたいなものに変わっていった。周りの子よりも少しだけ小柄なわたしでも、避けられる程度には存在感があるようで、雑談をしながら教室から出ていく子たちは、皆一様に『スガの彼女』として認知されているわたしを一瞥して横を通りすぎてゆく。
三列ある内の真ん中、前から三番目の廊下側。サボりにくく、当てられやすい、デメリットの大きいそこが、彼の席である。いつもなら、そこに腰掛けて帰り支度をしている彼の姿が、女の子に変わっている。
「今日、席替えがあったんだよ」
静かに動揺したわたしの心境を察したのか、そんな風に声を掛けられ、反射的に顔をあげる。そこには、少しだけ呆れたような視線くれる澤村がいた。
「スガだろ?」
「うん、そう!びっくりした〜。ついに性別の壁を越えちゃったのかと……」
「ついにってなんだよ」
そんなわけないだろと、やはり呆れたように笑って言う澤村とは、スガを通して仲良くなった数少ない男友達だ。バレーに受験勉強と、貴重な青春を学生の本分に費やす真面目な彼には、よく周りから受ける視線よりも更に鋭い『またお前か』オーラを感じるときが多々ある。来すぎだという自覚がないわけではないけど、彼に来るなと言われたわけではないから、未だしばらくは全然顔を出す予定である。会えるのであれば、出来うる限り会いたい。
わたしがこの場に立って、そこそこの時間が経過している。わたしが彼を見つけるか、或いは彼がわたしを見つけるのがいつものパターンなのだけど、何故だか、今日はそんな風に展開していく気がしない。不思議に思いながらも、新たな席が記載されている黒板を必死に目で追っていると、珍しく澤村が「あ」と拍子抜けしたような声を発した。
「そういえば、スガなら居ないぞ」
「え!?」
「体育の時に突き指して、保健室に行ったっきり戻ってないんだ」
「な、何で……何でもっと早く言ってくれないのー!!!」
何でと言っておきながら、わたしは澤村の言い分を聞くことなく、そこそこ物が入って重たい鞄を振り回しながら、廊下を走り抜けた。階段の踊り場を曲がる途中、遠心力によって少しだけ体から離れた鞄が廊下を走らないようにとわたしに注意を促す教頭先生に当たった気がしたけど、たぶん気のせいだ。
保健室が見え、少しだけ不安に駆られる。程度には差があるから、一概に突き指だからと言って、安心は出来ない。今は部を一・二年生に明け渡したとはいえ、彼が勉強の息抜きに部活へ顔を出していることは知っている。ましてや、彼のポジションはセッターだ。緻密で、繊細で、一番ボールに触れる、攻守の要。
どうしよう、彼が、悲しんでいたら、落ち込んでいたら。わたしは、どんな言葉を掛けたらいい?
「スガ!」
思考回路を混乱させたまま、勢いに任せて、保健室の扉を開け放つ。目一杯開いたそれはすぐにガツンッと騒々しく跳ね返った音を立て、ほんの少しだけわたしのほうへ戻ってくる。
「お、お前……。仮にも保健室なんだから、もっと静かに入ってこいよ……」
右手で氷水の入った袋を左手に押し当てながら、まんまるの双眸をこちらに向けるのは、菅原孝支その人だった。
驚いたような、困ったような、怒ったような、呆れたような。多種多様の眼差しと口振りでわたしに言う彼は、わたしが思うよりも元気なものだった。未だ一度も教室に戻っていないという澤村の話は本当のようで、未だ体操着のままのスガの膝には、ガーゼが当てられていた。
「澤村に、スガが突き指したって、聞いて……」
「え。だから、走ってきたの?」
「う、うん」
小さく息を切らすわたしを、ぽかんと口を開けて凝視していた彼は、暫くして可笑しそうに声を挙げて笑った。あんまりにも笑うものだから、始めこそ、わたしも少し前のスガのように呆気に取られてまじまじと彼のことを見つめてしまったけど、次第にそれはちょっとした悲しみから苛立ちへと変わっていった。
その微妙な心情の変化を敏感に感じ取ったのか、スガは未だ口角を緩ませながらも、押し殺すように声を飲むと、今度はふっと笑いかけてくる。
「そっか。ありがとな、心配してくれて」
そうして、彼は再び堪えきれなくなったように肩を震わせ出す。言葉自体は本心なんだろうけど、取り繕われたような、あやすような感覚しか抱けず、何だか釈然としない。
反動で半分ほど戻ってきた扉を閉め、ゆっくりとスガの方へ歩み寄る。わたしは思っていることがすぐ顔に出てしまうから、口元を隠すようにマフラーの中へ埋めてみたけど、もう今更遅いのかもしれない。わたしを見つめるスガは、何だかとても楽しそうだ。
「……笑うところじゃないと思う」
「いや、だって。そんな必死になって来てくれたんだって思ったら、嬉しくなるじゃん」
「そんなもん……?」
「うん。俺、死ぬんじゃねーのってくらいの勢いだった」
彼が腰を下ろす丸椅子の前に置かれたパイプ椅子に座り、なるべく感情が籠らないようにマフラーに顔を埋めたまま、ちらりと見上げてみるけど、彼はやっぱりお見通しとでも言いたげに歯を見せて笑う。
「ありがとな」
そして、また紡がれる感謝の言葉に、すっきりしない感覚は呼吸と共に去ってゆく。つられるように緩んだ口元は、悔しいから隠したままにしておく。
「膝も怪我したなんて、澤村言ってなかった」
「……あー。これ?これはー……そのー……」
そこで、ようやく彼の顔から少しだけ余裕がなくなる。気まずそうに、言いづらそうに、分かりやすいほどふらふらと宙を彷徨う視線に、わたしは座ったままスガの方へ身を乗り出す。
「わたしにも言えないこと?」
「や……そういうんじゃなくって……」
どうにも歯切れが悪い。消毒したのか、はたまた湿布が貼られているのかは解らないけど、突き指ほどは大したことがなさそうなのに。
手元を冷やしているから、彼がわたしの視線から逃げる術は限られている。視線が合わないように、或いはわたしに顔が見られないように、スガは必死に右へ左へと首を振る。その視界に入ろうと大きく体を動かし、彼のあとを追うにつれ、気付く。
「……スガ、熱でもあるの?」
「へっ?」
「耳、赤い……」
けど、と続くはずだった言葉は、喉の奥で、空気の抜けた風船のようにしゅるしゅると萎んでいった。
ほんのりと耳に薄付いていた赤は、みるみるうちに彼の顔全体へと広がっていったからだ。首だけでなく、心なしか、冷やしているはずの手元まで赤くなったように思う。
わたしが彼の名を呼ぶ前に、スガは「あー……」とやはり歯切れ悪く、言葉になる前の音だけをこぼす。そうして、観念したように、小さく唇を動かした。
「体育館から保健室に向かう途中で……転けた」
「……ん?えっ?」
「……だぁーから、ちょっとした段差に気付かなくて転けたって言ってるべ!?」
「いや、そこまでは言ってないよね!?」
やけくそだとでも言うかのように声を張ったスガは、拗ねたようにわたしから視線を逸らした。なるほど、どうやら言葉として紡ぐには恥ずかしかったらしい。確かに校舎の中で膝を擦りむいたとは、友だちは愚か彼女には言いたくないのが普通だ。
眉を寄せて唇を尖らせる彼は、いつも大人びているのに、この時ばかりは年相応の男の子に見えて、少し嬉しくなった。
「ふふっ。変なこと聞いてごめんね、スガ」
「……今笑った。本心じゃないべ?」
「本心だよー。スガが死んじゃうんじゃないかと思って、走ってきたのにー」
「それ、さっき俺が言った。そして、あからさまな棒読みをやめなさい」
ぽすんっと、スガからはチョップが繰り出される。ほんのりと冷たい感覚があったそれは、こともあろうに突き指したほうの手だった。頭に攻撃を食らった側ではあるけど、じゃれあう程度のそれでも、今は過剰に反応してしまう。走ってきたくらいに心配だったのは、あくまでも事実なのだ。
「こっちの手はもっと労ってよ!冷やして冷やして!」
「平気平気。先生に言われた時間の倍は冷やしてるし、もう感覚殆どない」
「でも……」
何か言おうと口を開いたところで、出てきたのは呼吸によって吐き出される筈の二酸化炭素だけだった。
もともとスポーツマンであったスガのほうが怪我の有無に関しては詳しいし、その処置だって素人のわたしが言うよりも適切に行なえるだろう。そう思って、無理矢理氷水の入った袋へ押し付けていたスガの手から、そっと力を抜く。
そっかとか、そうだねとか、彼の平気という言葉に対して何かを紡いだはずなのに、それをうまく記憶することが出来なかった。そのせいで、不自然な沈黙が室内に漂っている気がして、呼吸がしづらくなる。
「……あ。でも、あれだ」
その空気を破るように、ふとスガがそんな風に言葉をこぼす。無意識の内に俯かせていた顔を跳ね上げれば、彼は何の感情も乗らない眼差しでわたしを見つめていた。そうして、そこから、ニッと歯を見せて笑う姿は、さながら悪戯を思い付いたような子どものよう。
「キス、してくれたら治るかもしんねーべ」
さらりと紡がれたその二文字は、保健室という空間にはあまりにも不釣り合いで、そのせいか、わたしの頭にもスッとは入ってこなかった。キス、そして、スガが見せた表情を思い出し、わたしの視線は必然と冷やされている指先へ落ちる。
「……跪いて?」
「何で!?」
「手の甲にするんでしょ?」
手の甲にキスをするのには何か意味があると本で読んだことがあるけど、もし、彼がそうすることを望んでいるのであれば、おとぎ話の王子様がお姫様にしてあげるように、その場に跪いて……というのが、わたしの中ではスタンダードなイメージだ。そして、それはスガの中でも同じだったようで、納得したように声を漏らす一方で、その顔は不服とも取れる、何とも言えない表情を作っていた。
「違うんだよな〜」
「でも、キスでしょ?」
「もっと王道な位置があるだろ?」
そう言って、少しだけわたしのほうへ体を乗り出したスガは、指先で、とんとんと、自分の口元を叩く。
「俺にでいいの」
またしてもさらりと言われ、今度は、少しだけ頬に熱が集まるのが分かる。さっきまではただの単語にしか聞こえなかったそれが、急に“そうするべきでない行為”として色濃くなった気がして、誰も居ないと分かっていながら、必然と声の音量を絞ってしまう。聞こえないと言わんばかりに距離を詰めるスガとは裏腹に、わたしはその分離れることに努める。
「い、いやいや。スガ、此処……学校、だし」
「学校だけど、もう放課後になってる」
「でででっ、でも、先生来ちゃうかもしれないし。見つかったら、お……っ怒られちゃうし!」
「じゃあ、怒られない内にしちゃおっか」
「で、でも……あ、あっ、そ……そう!学校じゃなくって……か、帰る途中にでも、」
「ナマエ」
断り文句を考えようと視線を右往左往させていたことが災いして、彼の手がわたしの腕に伸びていたことに気付いたのは、体を引っ張られてからだった。前のめりになったわたしと、もともとこちらに寄っていたスガとの距離は、幾許もない。
「今、したい」
そろりと見上げた視線の先にいた彼の双眸に飲まれそうになる。狡いとか、敵わないとか、思うことはたくさんあって、紡ぐべき言葉はそれ以上にあるはずなのに。まるで蛇に睨まれたカエルみたいに、体は、瞬きを繰り返す瞼でさえ、その機能を忘れたかのように動かなくなってしまっていた。
わたしが彼に視線を向けたときみたく、そろりと、スガが少しだけ顔を傾けて近付いてくる。硬直していた体は、瞼を閉ざすという動作だけは何とかして行なってくれた。余裕なんて全くない頭の片隅で、自分の手のひらがひんやりと冷たいスガの指先に縋り付いていることを認識した辺りで、唇が交わる。
少しして、名残惜しいとでもいうかのように、ゆったりと離れてゆく体温を感じながら、わたしは小さく呼吸する。自分のものでなくなったかのように動かなくなっていた体は、安堵感のようなものが呼吸と共に体に流れると、僅かながらいうことを利いてくれるようになった。
短いスパンで繰り返される瞬きがおかしかったのか、未だ十分すぎるほど近い距離にいるスガが、嬉しそうな顔をしながら、わたしの瞼に口付ける。思わぬ不意打ちに、肩を震わせてしまう。
「い、意地悪……」
「あはは、ごめんって」
まるで、悪びれる様子もない態度に腹が立つ。ふと、随分と氷が溶けた袋が床に落ちていることに気付き、先程まで冷やされていた彼の手を見やる。未だどことなく痛々しい色をしているけど、微かに触れ合う肌からはほんのりとした温もりが伝わってくる。
魔法は使えないし、跪いてキスなんて恥ずかしくて、とてもじゃないと出来ない。だけど、心配ならいくらでもしてあげられる。
スポーツマンの手とは思えないほどの綺麗な指先から、直接、彼のほうへと視線をあげる。そこで、やっぱり反省の色が見られない彼と目が合うわけだけど、それだけ、それだけなのに、不思議と彼を愛おしいと思った。
「……スガのボゲェ!」
「!? それ俺の後輩の口癖!やめて! 」
早く、元気にバレーしている姿を見せてね。
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