わたしのお昼は、稼ぎ時だ。
 いくつものお店が立ち並ぶ商店街を抜け、小川の橋を越えたところにある小さな定食屋さん。席はカウンターに十席と座敷が各階に一つずつ。メニューは日替わり定食、生姜焼き、カレー、焼き魚、うどんそばの定食と他のお店に比べたら少ないけど、その分、味に対するこだわりは強い。席やメニューが限られていても、お昼時は、いつだって忙しい。

「姉ちゃん、茶くれ〜」
「はーい!」
「お姉さん、注文いいかね?」
「はいはーい!ただいまー!」

 厨房には忙しなく料理を盛る大将と、それをサポートする女将さん。注文を聞いたり、お茶を出したり、膳を下げたりするのはわたしの役目だ。
 職人さんたちの休憩時間は限られている。だからこそ、出来るだけゆっくりしてもらえるように料理は早く出し、その間は出来得る限りのサービスをする。『忙しき時こそくつろげ』はこの定食屋さんのモットーであり、大将と女将さんのこだわり。料理だけじゃなく、このお店が常連さんで溢れるのは、ふたりの想いがしっかりとお客さんに伝わっているからに他ならない。

「大将ー、お座席の方、焼き魚とうどん定食入りまーす」
「はいよっ!」
「女将さーん、カウンター三番の方、漬物おかわりでーす」
「はいねぇ〜」

 食器と箸がぶつかり、魚の焼ける音やカレーのいい香りがし、わたしたちとお客さんの声が響き渡る。いつだって忙しいのに、この店内に流れるゆったりとした時間が、わたしはいつだって好きだ。

「美味かった!また来るわ!」
「ありがとうございます!お待ちしてまーす!」

 一時間もすれば、店内はすっかり静寂を取り戻していた。空いた店内で、わたしは女将さんと場所を入れ替わってお皿洗いに徹する。女将さんは配膳を下げ、味の入った木のカウンターを布巾で拭きながら、わたしに声を掛けてくれる。

「ありがとうねェ、ナマエちゃん。助かるわ〜」
「いいーえ!これくらいなんってことないです!」
「今日は日替わりが多く出たから魚が余った。まかないは焼き魚になるな」
「焼き魚だいすきです!」

 いつも通り、大将がひとりごちるように提案してくるまかないの献立へ食い気味に主張すれば、滅多に動くことのない大将の口元がゆるりとあがる。

「魚が余った、なんて言って。この子がうちの焼き魚好きだからって少し多めに仕入れたくせに」
「え!?そ、そうなんですか大将!?」
「バカ言え。安かったに過ぎねェさ」
「張り切ってたくさん買ったら、喜んで安くしてくれましたもんね」
「大将!?女将さんこんなこと言ってますけど!?」

 焼き魚が食べられることが嬉しくて女将さんの悪ノリに全力で付き合ったら、ついに大将は無視を決め込むようになった。たぶん、女将さんの言っていることは本当で、大将は照れている。おかしそうに声を殺して笑う女将さんにつられて笑っていると、カラカラと乾いた音を立てて扉が開く。

「お、今日は空いてんな」
「いらっしゃいませ!お久しぶりです、土方さん!」

 暖簾をくぐって嬉しそうに店内を見渡しているのは、真選組の副長である土方さんだ。このお店は屯所から少し離れているから、他の隊士さんたちと鉢合わせになることがなく、気兼ねなく休めるというのが常連になっている理由だとこの前言っていた。もう何年も通ってくれているから、大体この時期は忙しくて顔を見なくなる、というのもわたしたちは把握済みである。
 簡単に手を拭き、表に出ていけば、入口近くに置いておいた新聞を手に取った土方さんは、軽く手をあげて応対してくれる。

「ん、何か機嫌いいな。いいことでもあったのか?」
「分かりますか?今日のまかない、焼き魚定食なんですよー!」
「相変わらず好きだな」
「あ!もちろん、久しぶりに土方さんが来てくれたのもありますよ!」
「調子いいこと言いやがって」

 座敷にあがりながら、額をツンッと人差し指で押され、あァ、土方さんも機嫌がいいのだなとぼんやり認識する。お冷やとおしぼりを持ちに行こうと踵を返すと、入れ違いで女将さんがおぼんの上にそれらを乗せて土方さんのほうへと歩いてゆく。
 しまったと思ったときには、遅かった。

「まァたあんたは!くわえ煙草なんかして!」

 土方さんの傍らに立った女将さんは、コップになみなみと注がれたお冷やをそのまま土方さんに向けてぶっかける。広げていた新聞も、咥えていた煙草も、もちろん着ていた隊服も、一瞬にしてびしょ濡れである。

「ば……ッババア!何しやがる!」
「うちは禁煙だって何回言やァ分かるんだい!吸うんなら外で吸いな!」
「机の上に堂々と灰皿置いといて毎回嘘こいてんじゃねーよ!」
「客が帰った今からは私の肺をクリーンにするための禁煙タイムなんだよ!」
「昼時が終わってからそう切り替わるんなら張り紙貼れよ!」
「いや、夜は夜で客が来ればまた喫煙タイムが始まるのさ」
「待てババア、俺も客だ」
「こんな無礼講な客がいてたまるかい!」
「ババアが無礼講な従業員だからだろうが!」

 前髪から水を滴らせた土方さんと仁王立ちしたまま微動だにしない女将さんの淡々とした言い合いを眺め、やれやれと嘆息する。別に、うちは禁煙タイムなんてものは設けてないし、なんなら女将さんはいつも温厚な人だ。誰彼構わずこんなことはしない。
 少し前に大将から聞いた話によると、女将さんはわたしが土方さんに懐いているのが気に入らないらしい。確かに土方さんが来ると嬉しいから、ついつい話し込んじゃうけど、わたしは男の人としてというわけではなく、兄弟、お兄ちゃんがいたらこんな感じかなという感覚で接しているのだけど、どうも娘を取られてしまったような気がしてならないんだとか。大体は男の人が感情的になって、女の人が窘めるというイメージだけど、うちに至ってはまるっきり逆。むしろ大将は煽ることもなければ、窘めることもない。完全に放置を決め込んでいる。

「副長殿が手前に手を出すような人なら、とっくに追い出してらァ」
「ほんとです。土方さんがわたしに色目使うわけがないですもん」
「どっちかってーと副長殿というよりは、隊長殿のほうを心配するもんじゃねーのかねェ」

 大将が温め直していた豚汁の入った鍋をかき混ぜながらごちた言葉を聞き返そうとすると、まるでそれに合わせたかのように再び扉が開く。考えるよりも前に癖で反応した体は俊敏な動きで入り口のほうへと顔を向く。噂をすれば影とやら。そこにいたのは欠伸をしながら後ろ手に扉を閉める、大将の指す隊長殿こと、真選組一番隊隊長の沖田さんだ。

「沖田さん、いらっしゃいませ!」

 入店してすぐ、座敷のほうを一瞥した沖田さんは腰に差していた刀をカウンターのところに立て掛けながら、自身も刀の右側へと腰を下ろす。土方さんと女将さんのやり取りには慣れっこな上、一切我関せずな沖田さんは涼しげな顔で頬杖をつきながら、わたしのほうへと顔を向ける。

「おゥ、いらっしゃいやしたぜ。大将、豚カツ定食ひとつ」
「いつもァそんなメニューねェんだが。今日はちょうど日替わりが豚カツだ、隊長殿」
「お、ついてら。お代はあそこに座ってる不躾ニコチン野郎にお願いしまさァ」
「ちょっと待て総悟コルァ!」
「コラァ!まだ話は終わってないよォ!」

 飄々とした顔で平然と波風の立つところへ煽りを入れるところも、相変わらず。お冷やとおしぼりを沖田さんの前に置きながら、苦笑せずにはいられない。

「会うの、久しぶりな気がしやすね、嬢ちゃん」

 背中越しの喧騒なんて何のその。人と人の間をぬって歩くが如く、するりと耳に届いた沖田さんの言葉にふと顔をあげる。見慣れているはずの臙脂色の瞳がまっすぐにこちらを見据えていて、少しだけ、ドキッとする。

「そっ、そうですね」
「お?何でェ。久しぶりだからって照れんなよ」
「照……!?て、照れてませんっ!」
「嘘吐けィ。おら、目ェ合わせて微笑んでみな?こう、ニッて」
「ち、近……っ!かかか、からかわないでくださいっ!」

 心の内を見透かされたような気がして慌てて否定してもそれさえも面白おかしく映るのか、沖田さんはけらけらと笑いながらお冷やを口にする。こんな風に、沖田さんはわたしにちょっかいを出すから、大将からすれば“心配するべき相手”なんだろう。大将が言うその心配も、どこまで本気かは分からないけど。

「そういや、最近、変なやつが出入りしたりしてやせんか?」

 少しだけ熱を持っている気もする頬を両手で抑えていると、急にいつものトーンに戻った沖田さんがおしぼりで手を拭きながらそんな風に尋ねてくる。あまりのオンオフ具合に、キョトンとしているわたしの代わりに、沖田さんの豚カツを揚げている大将が答える。

「来る連中は顔見知りのやつらが多いからなァ。ま、変な輩が居やァ、俺がとっとと追い返してらァ」
「それもそうですねェ。心配無用か」
「ど、どうかしたんですか?」

 このお店が常連さんばかり来るのは、一時顔を出す機会の多かった沖田さんなら分かっていることだ。そして、大将は歳こそ取っているけれど、もともとバウンサー、いわゆる用心棒として雇われていた経歴のある人だ。そういう人たちを見抜く鋭い観察力も持っているし、並大抵の相手なら簡単には負けない。

「近頃、浪士共の動きが活発化してやがるんでさァ。比較的重要度の高ェ取引を、こういう小せェ店の個室で行なう事案が増えてやしてね」
「小さくて悪かったな。おゥ、ナマエちゃん、この豚カツ定食を副長殿に」
「すいやせん、大将、謝りまさァ。あんたの器並みにこの店はでけェ。いや、ホント、本当にごめんなさい。僕今日その豚カツ定食を楽しみにお仕事がんばってきたんで、食わせて、いや、食べさせてください。お願いします、食べたものは自分で洗うんで、いやこれ本当にまじでまじで」

 百戦錬磨の斬り込み隊長と聞く沖田さんも頭のあがらない大将、たまに見かける光景ではあるけど、胃袋を掴んだほうが強いっていうのはこういうことを言うのではないのだろうかと思う。

「その取引を、料理を運んできた従業員が目撃。その場で斬り捨てられ、その騒動がきっかけで店ひとつが転覆する、なんてことがざらに起きている」

 大将の機嫌を損ねた沖田さんの代わりに、女将さんとのバトルを、どうやら敗北という形で終えたらしい土方さんは、空になったタバコの箱をくしゃっと握りつぶしながら、沖田さんとひとつ席を空けて腰掛けた。座敷では女将さんが少しだけ誇らしげな顔をしながら、濡れた机を布巾で拭いている。

「昔は敷居の高いところで取引をすることで、追っ手の目を掻い潜ってきたんだがな」
「でも、同じ個室なら、少し敷居の高いところで行なったほうが、人目に付きにくいし、壁も薄くないし、料理は美味しいし、 利点しかないんじゃないんですか?」
「それを、今の奴らは逆手に取ってきやがるんでさァ」

 こちらも、どうやら勝利という形で勝敗を決したらしい、沖田さんは豚カツ定食についている漬物をポリポリとかじりながら、言葉を続ける。

「商店街から少し離れたこういった店ならまだいいが、町中は賑やかで、人の出入りも多い。そんな店の中で声を潜めちまえば、音はまるで外に聞こえねェ。その上、そのやり取りを観察しようと影を潜めようモンなら、壁が薄いような店は天井も軋みやすい。潜むには向いてねェ。役に立ちもしねェ用心棒を雇っている見せかけの敷居が高ェ店よか、下町らしく人がごった返し、何かありゃ手前で身を守れるような、慣れ親しんだ場所のほうが、却って姿を眩ませやすいことに、奴らは気付いちまったんでさァ」
「それをわざわざ聞いてくるってことは……」

 一連の話を聞いて、何だか胸騒ぎがした。大将は沖田さんの言葉をすごい勢いで否定していたけど、少なからず二階に一室しか個室をもたないこのお店は、お世辞にも大きいとは言えないし、敷居も比較的低いほうに値する。土方さんや沖田さんのいる真選組が動き出しているということは、そこそこ事が大きくなっているに違いない。おそらく忙しい中、ふたりがここを訪れてくれたのも、わたしたちへの注意勧告もそうだけど、浪士たちへの牽制も含まれていると考えていい。
 そこまで思考を巡らせたところで、わたしの傍らで土方さんがふっと口角を緩めたのがわかった。思わず目を丸くして呆気に取られていると、わたしの様子に気が付いた土方さんは特段悪びれた様子もなく「悪い」と謝罪を口にする。

「やけに難しい顔してたからな。大方、いつものように考え込んでんのかと思ったまでだ」
「だ、だって、久しぶりに来たと思ったら、変なこと聞いてくるから……」
「脅しみたいに感じるよな。悪かった」
「ホントですぜ土方さん。物事にはタイミングってモンがあってですね」
「事の発端はテメェだぞ総悟」

 こちらはこちらで本当に悪びれた様子をまったく見せない沖田さんは「すいやせーん」と口一杯にお米を詰め込んだ状態で謝罪を口にする。土方さんも少し思うところがあったように目を細めたけど、いつものことと言えばいつものことなんだろう、それ以上を沖田さんに言及することはなかった。

「こればっかりは気を付けようがねェが、いつも世話になってる店だからな。様子見がてら、立ち寄っただけのことだ」

 悪かった、と三度目の謝罪を口にした土方さんは、未だ感情が顔に出ていたのか、わたしの頭を優しく撫で、罰の悪そうな顔をして笑った。
 そんな空気を裂くかのように、カタンっと、器が大きく打つ音がし、ハッとして振り返る。困ったような顔をした女将さんが、わたしの前に焼き魚の乗った膳を置いてくれていた。

「ナマエちゃんが心配してくれるのは嬉しいよ。だけど、起こってもいないことを気にかけても仕方のないことさ。何かあったとしても、ここは町からそう離れているわけでもないし、何よりこの人たちの目もある。すぐに駆け付けてくれるよ」
「何事もねェに越したこたァないがな。何はともあれ、食べなナマエちゃん。空腹は、何よりも体に毒だ」

 女将さんはぽんぽんっと優しく肩を叩き、大将はわたしの大好きなくだものを漬物の隣に添えてくれる。それだけで、少し気持ちが安らいだ気がした。土方さんの前にも膳が置かれ、一緒に手を合わせる。ほぐした焼き魚の身はふっくらとしていて、皮もパリッと焼けている。味噌汁を口に含めば、その温かさが妙に染みた。
 きっと、ここに来たのが土方さんだけだったのなら、この人は、沖田さんが告げたようなことを一切口にしなかったのだろうと、ぼんやり考える。本当に様子を見に来ただけで、いつもと変わらず、女将さんと煙草一本吸うのに攻防して、大将にわたしが食べるものと同じものを出して、満足げにお茶をすすって、代金を置いて去ってゆく。
 どちらが正解なのかはわからない。
 言わなくても起こることは起こるし、言ったところで何事もなかったのなら、それでいい。
 だけど。
 それは、取り越し苦労には、ならなかった。





 外の喧騒が掻き消されるほどの大雨が打ち付ける。 それは、めったに溢れることのない小川が氾濫しかけるほどの雨量だった。
 大地に含みきれなかった雨水は、その上を走るものを嘲笑うように、泥と共に跳ね上がり、体温と体力を奪ってゆく。初めは軽快だったその音は、次第に数を増やしていき、一定だったその旋律は疎らになっていった。
 いつも灯りを点しているそこは暗闇に包まれていて、胸に抱く妙な違和感を増幅させるには十分だった。引き戸になっている店の出入口が半分ほど開いているのも、また然り。
 町を走り抜けて熱くなった呼吸が、冷えた空気と相交わることなく、駆け抜けた跡を白く残す。こんなに大雨が降っているというのに、月明かりのない外がやけに明るく感じた。それ故、扉を引き壊し、室内へ突入したところで、何も不便に思わなかった。
 普段なら、揚げ物を扱う油と、魚を焼く匂いが心地よく感じたそこは、寒さで麻痺した鼻でも生臭いのが分かった。魚の類いではない、おびただしい量の、血の臭いだ。
 見慣れたカウンター、使い込まれた座敷、年季を感じる襖、そこら全てには浪士の返り血が真新しく刻まれていた。厨房への入口のすぐそばに、二階へと続く階段があがる。そこまで進んだところで、その入口の手前に、白い割烹着をまとった男がうつ伏せになって倒れていた。白かったそれは、真っ赤に染まっている。
 人がひとり通るのにやっとの階段の間にも、刀傷を負った浪士が重なるようにして倒れていた。一階に倒れていた浪士と同じように、一太刀でやられたようだ。
 二階に上がりきったところで、着物をまとった女が簪を握り締めたまま倒れていた。息絶えるまでにしばらく苦しんだのか、階段を上がってくる者を射貫くかのような眼光をしていたが、それは、そっと伏せておいた。
 一室しかないそこの部屋への扉は、閉ざされていた。物音ひとつしないが、同時に人の気配もしなかった。血の滲む唐紙ごと襖を両断し、その一室へと飛び込む。
 昼間しか訪れることのない者は、二階へ上がることはない。然し、初めて入ったとしても、明かりさえ灯っていなくとも、誰しもがこの瞬間、足を踏み入れたら気付くだろう。この部屋が、もともと黒壁ではなかったことに。
 壁という壁に叩き付けられるようにして横たわる浪士は、もはや誰ひとりとして息をしていないのが分かる。入口の向かい、腰までしかない窓のそばに、ひとり、刀を持った者が立っていた。
 窓の向こう、暗雲が大雨を降らせる中、時おり機嫌悪そうに唸り、そして、ひとつ、音を轟かせた。その瞬間の光で、対峙する者の顔をはっきりと認識させる。
 もちろん、見えずとも、解ってはいたが。

「沖田さん…………」

 血濡れた顔、刀によって引き裂かれた着物、結い上げられた髪は乱れていて、瞳に滲む涙が、体の傷よりも痛々しく見えた。

「嬢ちゃん……こいつァ、一体……」

 頭が、うまく働かない。
 惨状は目に見える光景がすべてのはずなのに、この血にまみれた戦場のような空間で、唯一生き残り、刀を握っているのが、まさか、看板娘であった彼女であることが、どうにも腑に落ちなかった。
 彼女は敵なのか、味方なのか。普段であればすぐに見当が付くというのに、その判断さえも麻痺してしまうほど、彼女からは敵意も殺意も、生気さえも、感じられなかった。
 畳に染み込み切れなかった赤黒い血の小さな溜まり場に、ドチャっと音を立てて、彼女が握っていた刀が転がる。ふっと、まるで糸が切れたかのように彼女の体がふらつき、そのままバシャッと血溜まりに顔を打ち付けた。

「おい……ッ!」

 何も考えず、彼女のそばまで駆け寄る。刀を振って鞘に納め、肩から彼女を抱き起こす。

「嬢ちゃん、嬢ちゃん……ッ!おいッ!しっかりしろ!」

 揺すっても、頬を叩いても、一切の反応はない。脈を計り、どうにか生きていることだけは確認し、こんな状況化で、思わず安堵の息が漏れる。

「総悟」

 声を掛けられ、肩越しに振り返る。煙草を吹かしながら部屋の惨状を目の当たりにした土方さんは、そのままぐるりと室内を見回してから、俺の手元へと視線を落とす。

「……生きてるか」
「大丈夫でさァ。大した怪我も、してやせん」

 そうか、というぼやきにも似た土方さんの言葉を掻き消す勢いで、次から次へと他の隊士が室内へやってくる。土方さんは傍らに落ちている刀を拾い上げ、柄から切っ先までじっと眺めていたが、抜き身のまま、踵を返し、部屋を出てゆく。
 俺は意識を失っている彼女を抱き上げ、同じように部屋をあとにする。階段を下りる手前、横たわる女が握る簪にはちりめん生地で作られた風車がついていたが、その色は元から赤かったのか、或いは染まったものなのか、判別出来なかった。

(211014)
・御披楽喜(おひらき)


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