目が覚めたとき、目の前に広がる真っ白な空間に、一瞬まだ夢の中にいるのかと思った。力を入れた指先が柔らかな布ではなく、冷たく固い床に触れたとき、これが現実であることを悟った。体を起こし、静かに息を吐いて、起き抜けでうまく回らない頭に酸素を回す。ざっと辺りを見渡す限り、真っ白な空間が広がっているだけ。ひとまず、純粋に浮かんだ疑問。ここは、どこなんだろう。

「あ、ようやく起きた」
「!?」

 背後から聞こえてきた声に思わず肩を震わせ、勢いよく振り返る。そこには、どこかで見たような記憶のある、高身長の男子が立っていた。右半分の前髪が下りた黒髪の人と、色素の薄い髪をオールバックにした人、どちらも見覚えがある。

「音駒と、梟谷の……」
「俺らのこと知ってんの?」
「公式戦で、何となく」

 名前までは覚えていないけど、関東地区でも強豪の部類に入る梟谷と、粘りの印象が強い音駒は、わたしの学校とも何度か公式戦で当たったことがある。わたしの学校はそこまで強くないから、他校のマネージャーまで、選手の人たちが覚えているとは露にも思っていない。二人とも練習着なのか、Tシャツを着ているけど、そのビジュアルや体格から、何となくで結び付けることができた。
 わたしと会話をする黒髪の人とは裏腹に、色素の薄い髪の人は得体の知れない真っ白な空間を物珍しそうにうろうろと徘徊している。さながら檻の中に閉じ込められた動物のようだ。

「おーい、木兎。おまえもちょっとこっち来い」
「あー、黒尾ー、何か変なもん見つけたー」
「人の話聞きなさいよ」

 木兎と呼ばれた色素の薄い髪の人が、黒尾と呼ばれた黒髪の人をマイペースに呼ぶ。ちょっと待ってて、と黒尾さんに言われたものの、この状況でじっと座って待っているのも落ち着かず、長い足でとっとと歩いていってしまう二人のあとを追いかける。
 木兎さんがいるところまで行くと、そこにはうっすらと長方形に縁取られた扉があった。その扉の上には看板のようなものがぶら下がっていて、達筆な字で、こう書かれていた。【同時にイかないと出られない部屋】と。

「…………は?」

 その文字を読んで声を挙げたのは、黒尾さんだった。木兎さんはというと、引手かノブがないかを調べているようで、何度も扉を触ったり少し遠巻きに見たりしていた。

「うん、こりゃ開かねえな!」
「んなことは見れば分かるわ。それより、こっちのほうが問題だろ」
「どれ?」

 扉にしか着目していなかった木兎さんの頭をがっちり掴んだ黒尾さんは、そのまま無理矢理顔を上げさせ、問題の文字が書かれている看板を読ませる。

「どーじに、いかないと、でられないへや……。……どこに行くの?」
「おまえ本気で言ってんの?」

 盛大に大きなため息を吐いた黒尾さんの気苦労とは裏腹に、決してボケたわけでもない様子の木兎さんはまんまるの瞳を黒尾さんに向けたまま、首を傾げる。
 さすがのわたしも、文字の意味は分かる。ここは、おそらく最近噂に聞く空間だ。難易度のようなものがあり、ハグすれば出られる部屋というものから、こういった過激とも言える要求が求められる部屋もあると聞く。

「……最近流行りの、例の部屋デスネ」
「そう、みたいだね……」

 ぽけーっとしている木兎さんに説明することを諦めたのか、黒尾さんは再度大きなため息を吐いてから、考え込むように指先を口元に持っていく。従来通らなければならない道を、どうにか回避する手はないか、考えてくれているのかもしれない。
 音駒も、梟谷も、深く関わったことはない。だけど、強烈なサーブとスパイクを打ち敵味方問わず空気を引っ張る力を持つ木兎さんと、しなやかなレシーブと徹底したブロックで繋ぐことを重視する黒尾さんの、普段の様子は、正直、少し苦手という印象を持っていた。声が大きく細かなことを得意としなさそうな豪快な木兎さんと、落ち着いてはいるけどその冷静さゆえ本心を垣間見ることが少ない黒尾さん。うちの選手たちとは真逆の、わたしが普段関わらないタイプの二人だ。ここに閉じ込められたのが知り合いだとしたら、それはそれで気まずさがあるけど、苦手と認識している人を相手に、そういうことをしなければならない可能性に、胸がもやもやする。

「よし、とりあえず自己紹介しよう」
「えっ」

 何の脈絡もなしに、黒尾さんが空気を切り替えるように声を張る。その声は木兎さんにも聞こえたようで、そうだなと言いながらこちらへと戻ってくる。

「君も、名前も知らない俺らと一緒にいるの、不安デショ。お互いの素性くらい明かしておかないとネ」

 ニッと歯を見せて笑う黒尾さんは、少なくともわたしが今まで見てきた印象の人ではない気がして、少しホッとする。

「することになったら、名前呼ばなきゃいけないし?」
「!」

 からかうように、低い声でそんなことを言う黒尾さんは、やっぱりわたしが見てきた印象と違わない、とすぐに訂正する。危ない、騙されるところだった。

「ということで、改めまして。音駒高校男子バレーボール部主将、三年の黒尾鉄朗デス。よろしく」
「梟谷学園男子バレーボール部主将!三年!木兎光太郎!よろしく!」
「えっと……中川大学高校男子バレーボール部のマネージャー、三年の、ミョウジナマエです。よろしくお願いします……」

 自己紹介を終えると、真っ先に木兎さんが反応する。

「三年!?一年かと思った!」
「よ、よく言われる……」

 童顔である自覚はあるし、高校にあがってからもよく間違えられるから慣れているけど、確かに、これは自己紹介しておいて正解だったかもしれない。会話をするからというより、声を発したことで少し緊張がほぐれたような気がする。

「じゃあ、ちょっとこのまま今の状況を整理してくか」
「おー!頼んだ!」
「おまえもちょっとは頭使え」

 努めて冷静な黒尾さんとどこまでいっても元気な木兎さんは、あべこべではあるけど、仲が良いようで、そのやり取りを見ると、わたしの中にある不安を少しだけ払拭してくれる。思わず、くすっと口元を緩めると、こちらを一瞥した黒尾さんと目が合う。同じように口元をうっすらと緩め、そのまま口を開く。

「俺たち三人は、何にもない空間に閉じ込められている。最近噂の【目的を達成しないと出られない部屋】ってやつだ。木兎とぐるっと一周してみたが、出入口はこの扉以外は無い。かといって、カメラが取り付けられているわけでもねえから、監視はされていない。そして、ここを出る方法は、あそこに書かれていることを実行する他ない」

 この何もない真っ白な空間に閉じ込められることは、よく聞く噂話として、流行っていた。基本的に噂というのは信憑性に欠けるものではあるけど、火のない所に煙は立たぬというように、真実であったことを痛感する。

「二人のどちらかが、わたしと……するの?」

 思わず、よぎった言葉が口を突いて出た。覚悟を決めなきゃという焦りと、恥ずかしさが混ざって、声が上擦る。しかし、黒尾さんは表情を変えないまま、静かに首を振った。

「いや、同時にとは書いてあるけど、細かな指定はねえし、不幸中の幸いで、この場には三人いる。女子にこういうのはなんだけど……俺と木兎が抜いて、タイミングを合わせれば、」
「おい黒尾!」
「ハイハイ今度はなんですか」

 言いにくそうに言葉を選んで話してくれていた黒尾さんを、あくまでもマイペースな木兎さんが遠慮なく遮る。やけくそのように言葉を返す黒尾さんと一緒に木兎さんのほうを見れば、彼は扉のほうを指す。

「さっき、あんなのあった?」
「あんなの?」

 言葉を復唱した黒尾さんに倣って、わたしも木兎さんが指すほうを見上げる。さっき、木兎さんがノブがないかを調べていたところの、すぐ脇。ずっと続く真っ白な壁の一部だったそこには、看板に書かれたものと同じような書体で、何かが書かれていた。怪訝な表情を浮かべる黒尾さんがそこまで歩み寄り、読み上げる。

「注釈だ。【※必ず男女でまぐわうこと】【※同時なのは男性二名であること】……」
「はあ!?」

 絶句するように言葉を失う黒尾さんと、背筋をピンと立てて素っ頓狂な声を挙げる木兎さんに続き、わたしも思わず頭を抱える。そうだ、これも聞いたことがある。抽象的な目的に対しては、後々追加事項が入ると。
 これで、黒尾さんが考えていた案を実行するのは難しくなった。それどころか、これ、わたし、二人を同時に相手にするってこと……?ただでさえ、恋人でもない人とそういう行為をしなければいけないという事態に、言い様のない感覚に陥っているというのに、イレギュラーが重なるのは、さすがに許容できる自信がない。

「あー……そういう、感じらしいですケド、ミョウジサン」
「……聞いていました……」
「……ダイジョブそ?」
「大丈夫じゃないです……」
「だよね……」

 黒尾さんが気を遣ってくれているのはヒシヒシ伝わるけど、ここで嘘を吐いたって仕方がないし、何よりそんな余裕は毛頭ない。かといって、回避できる術もない。どうしようと考えたところで、選択肢はひとつなのに、頭は理解することさえ拒否していて、思う通りになってくれない。

「よし!じゃあ、ナマエちゃん!ほいっ!」

 それまで静かに唸っていた木兎さんが、パンッと両手を叩いてから、手のひらをわたしのほうへと向けてくる。その姿は、何だかお手を待つ犬のようで、少しだけ可愛く見える。

「スキンシップしとこ!」
「あー、なるほどな。一理ある」

 困惑しているわたしを置き去りに、木兎さんの言わんとすることを瞬時に理解した黒尾さんはわたしたちの元へ戻ってきて、腰を下ろす。

「どっちにしても、ヤらなきゃいけなくなっちゃったわけだろ!」
「(言い方……)」
「なら、時間はたくさんあるわけだし、とりあえずナマエちゃんは俺たちに慣れるところから始めようぜ!」

 ニカッと太陽のように笑う木兎さんが、そう言ってくれる。そんな木兎さんに倣うように、黒尾さんも片手を差し出してくれる。
 ゴツゴツとした二人の骨ばった手のひらは、どちらも大きい。練習量が凄まじいことを物語るまめの痕があったりして、純粋に尊敬の念が生まれる。そっと、手のひらの上を滑るように指先から置いていくと、木兎さんはそれを待たず、がっしりと両手で掴んでくる。対して、黒尾さんはわたしが置いた以上の距離を詰めることもなく、そっと長い指を折って、わたしの手を包み込む。

「ナマエちゃんの手、ちっちゃ!!!」
「そ、そうかな……?」
「つーか……指、ほっそ。折れそう」
「折るなよ黒尾!」
「おまえにだけは言われたくない」

 試合風景を思い返すと、確かに、折る可能性があるとすれば、パワーの強い木兎さんのほうだろうか。音駒はレシーブがしっかりしたイメージが強くて、サーブやスパイクの印象があんまり残っていないけど、手の大きさだけで言えば、どっちもどっちだ。

「折らないでね、木兎さん」
「えっ!だ、大丈夫だって!」

 黒尾さんに便乗して、木兎さんをからかえば、思ったよりいい反応が返ってきて、声を出して笑う。その様子を見ていた黒尾さんがふっと笑った気配がした。

「というか、ナマエチャン、俺らと同い年なのに、さん付けなの?」
「あ、つい」
「呼び捨てでドーゾ?」

 添えられているだけだった指先に、少しだけ力が加わる。次いで、手の甲を親指でするっと撫でられ、その優しい手付きに、少しドキッとする。

「……黒尾くんと、木兎くんで許してほしい」
「ハハッ。ま、今はそれでいいか。リョーカイ」

 今は、というワードが気になったけど、それについて言及する前に、黒尾くんが口を開く。

「んじゃ、次の段階にいきましょうカ」
「次?」

 両手の中に閉じ込めているわたしの手のひらをまじまじと観察していた木兎くんが、黒尾くんの言葉を復唱する。

「はい、ハグタイムに移りマース」

 わたしの手をゆっくりと離した黒尾くんはそのまま両手を広げて、まさに胸に飛び込んでおいでスタイルを取った。本当に順を追ってくれるんだ、優しいな、と思っていると、まだ手が掴んだままの木兎くんに強く腕を引かれた。

「あ……っわ!」
「ヘイヘーイ!俺のハグタイムスタートだ〜!」

 手を繋ぐときは待っていてくれたけど、どういった基準なのか、ハグは強引なものだった。体が大きい人という印象はあったけど、それは間違いではなかったようで、引き込まれた木兎くんの腕の中は広かった。折るなよという釘を刺されたことが利いているのか、力は思ったよりも強くない。まるでぬいぐるみを抱きしめる子どものように、わたしを抱きしめたまま、ゆらゆらと揺れる木兎くんが何だか可愛く感じて、頭を厚い胸板に預けてみる。トクトクと、なだらかな心臓の音が聞こえた。

「木兎……黒尾サンのこの行き場のない手、どうしてくれるんですカー?」
「ん?閉じとけばいいじゃん」
「そういうことじゃねえんだわ」

 腕組みをして呆れたようにため息を吐く黒尾くんは、そのまま木兎くんの腕の中におさまるわたしに声をかける。

「木兎クンのハグはどうデスカ?ナマエチャン。ドキドキしちゃう?」

 ニヤニヤしながら黒尾くんに尋ねられて、ふっとすぐ頭上にいる木兎くんを見上げると、さっきよりもご機嫌な様子の彼と目が合う。ドキドキ、というよりは今のところ可愛いという印象が強いので、どちらかというと。

「……キュンキュンする」
「なぬ!?」
「へぇ〜。よかったな、木兎」

 想定外の回答だったのか、耳元で聞こえてきた木兎くんの心臓が徐々に早くなっていくのが分かる。別の意図で伝わってしまっている感が否めないけど、否定するのも違う気がして、言葉に迷う。

「んじゃ、次は俺。はい、ドーゾ」

 抱きしめられたときとは打って変わり、なぜかぎこちない動きの木兎くんから離れると、今度は黒尾くんが改めてといった様子で腕を広げて待っていた。自分で飛び込んでいくスタイルなのは少し恥ずかしいけど、さっきの木兎くんの様子を見ていたのもあって、もしかしたらわたしのタイミングを待ってくれているのかと一瞬考える。何を考えているか分からないと思っていたけど、順を追っていけば、案外、黒尾くんは分かりやすい人なのかもしれない。
 黒尾くんに倣ってわたしも腕を広げた状態で少しずつ距離を縮めていく。もう腕を折りたたまれてしまえばわたしはすっかり囚われの身という距離にまで来たけど、黒尾くんはまだその腕を動かさない。どこまでいくのが正解なのか分からず、腕を回しづらかった背中ではなく、首に縋るように腕を回すと、ため息と共にゆるく腕を回された。

「ナマエチャン……これ、ハグなの?」
「せ、っ背中に手を回しづらくて……!」
「こんな無防備に来てくれちゃうと、いろいろすっ飛ばしちゃいますよー?例えば……ほら」
「ん……ッ!」

 わたしの背中に回っていた黒尾くんの手が、薄いTシャツの裾の隙間を縫ってするりと腰からおなかを撫でられる。くすぐったいような、気持ちいいような、曖昧な感覚に、喉からはひきつったような声が漏れる。

「くすぐったい?それとも、感じちゃった?」
「ち、違……」
「否定しなくてもいいよ。これからもっとぐずぐずになるのに」

 囁くような声で言われ、顔に熱が集中するのが分かる。確かに、これからもっとすごいことをするのに、こんなことで恥ずかしがっていたら、永遠にここから出られない。覚悟を決めたつもりだったのに、と思っていると、わたしの肩口に顔を埋めた黒尾さんがふるふると震えていることに気付く。声をかける前に、堪えきれなくなったといった様子で、黒尾くんはぶふっと吹き出した。

「ごめ……そんな、神妙な顔すると思わなくて……ぶ、っくく……ちょ、ちょっと待って……」

 笑っている、それも割と本気で。からかわれたんだとわかるまでに少し時間を要した。グーで黒尾くんの背中を力の限り叩き、本人も痛いとは言うけど笑いがおさまる気配はない。
 肩を震わせながらわたしを解放した黒尾くんに、木兎くんは不思議そうに首を傾げている。

「はぁーっ……笑った。やべえわ。俺、始まったら、止まんなくなるかも」
「そんなに笑うところあったか?」
「あったデショ。ナマエチャン、すげえいい反応する……痛っ!ごめ、それはまじで痛い!」

 知られてしまったものは仕方ないけど、敢えて公言する必要はないだろうと、脛に向かってグーパンチを繰り出すと、黒尾くんは本気で止めに入ってきた。よく分からないといった様子の木兎くんも楽しそうといって参戦してくれる。いいぞ、もっとやれ。

「よし、じゃあ最後の段階に入りますカ」

 最終的に正座をして脛を死守した黒尾くんは、一息置いてからそう言い放った。

「……と、その前に。ナマエちゃんにいくつか確認したいことがありマス」

 ここまで来て今さら?と思わなくはなかったが、ここは黙ってひとつ首肯する。

「セクハラじゃないから許してネ。キスはしたことありマスカ?」

 なるべく事務的に聞こうと思っているのだろう、黒尾くんの話し方がいつになく棒読みだ。

「あります」
「今、彼氏はいますカ?」
「い、いません」
「最後。セックスは経験済デスカ」
「…………ハイ」

 二人しかいないとはいえ、何だかものすごく拷問を受けている気持ちだ。最後の質問に至ってはものすごく声が小さくなってしまった。
 事務的とも言える質問にすべて答えると、黒尾くんは空気を仕切り直すように「よし」と言って、少し安心したような表情をする。なぜか、隣にいる木兎くんも納得したように何度も頷いているから、思わず首を捻るとその視線に気付いた彼は口を開く。

「もし、キスもセックスも初めてだったら、それが記憶に残るわけだろ?どうするかなぁって考えてたわけよ」

 ま、初めてじゃないからいいってことないけどさ。
 続け様にそう紡ぐ木兎くんの言葉がストンと体の中心に落ちる。キスもセックスも初めてだったら、一口にまぐわうといっても簡単なことではない。そして、二人は強引にでも押し進めることだってできたのに、わたしのことを考えて、手を繋いだり、抱きしめたりすることで、コミュニケーションを取ると共に、スキンシップを図って緊張感をほぐしてくれた。
 優しいなぁ、という感想が、胸を熱くする。まだ何も始まっていないけど、見ず知らずのわたしのことをこんなにも大切に扱ってもらえて、喜ばない女の子は、きっといないだろう。

「で、次はキスをしようと思いますが、問題がありマス」
「問題?」

 真剣な顔付きでいう黒尾くんに、わたしが言葉を復唱すると、木兎くんも思い当たる節がないといった様子で、同じように首を傾げる。

「キスは……ひとりずつしか出来ない。よって、俺と木兎、どちらかをナマエチャンに選んでもらう必要がある!」
「な、なるほど……!」

 衝撃的と言わんばかりのリアクションをする木兎くんとは裏腹に、わたしは呆然とした表情で二人を見つめる。

「ま、待って!?わたしが選ぶの!?」
「うん、選んでもらおうかと思ってマス」
「何で!?」
「何か、楽しいジャン」

 しれっという黒尾くんに楽しいじゃんじゃないんですよと毒づく。確かに、この空間に入る前とは二人の印象はずいぶん変わったけど、それでもまだ表面的な部分でしかない。どちらかがいいと言えるほど二人のことを知らないし、むしろどちらかが良いも悪いもない。
 どうやって断ろうか悩んでいると、ハッと隣で息を飲んだ木兎くんがまるで授業中に発言する小学生のごとく、高々と手をあげた。ちなみにこの挙手は梟谷との試合のタイムアウトの時も見受けられたので、意見を言うときは手を挙げましょう、と誰かが木兎くんに言い付けたのだろう。他の選手は手を挙げてなかったから、たぶん木兎くん限定のルール。

「黒尾先生!俺は大変なことに気付いてしまった……!」
「ハイ、何でしょう木兎クン」
「選ばれなかったほうはとっても傷付くんじゃないでしょうか!」

 まさにわたしが考えていたことを言葉にしてくれた木兎くんだけど、心のどこかで何を当たり前のことをと思っているのも事実。まるで名案みたいな顔をしている木兎くんにうっすらと冷ややかな視線を送っていると、その言葉に黒尾くんはこう返した。

「た、確かに……!」

 ピシャーン、と雷にでも打たれたかのような衝撃を受ける黒尾くんにも、流れ作業で冷ややかな視線を送る。幸か不幸か、二人ともわたしがまるでチベットスナギヅネのような表情をしていることに、まったく気が付いていない。
 なんだ?二人はおバカなの?それとも戯れなの?
 最終的に公平にじゃんけんで決めようとなったらしく、最初はグー!という野太い雄叫びが聞こえる。そういえば高校三年って中身はまだまだ小学生だって誰かが言ってたなぁ、なんて考えているうちに、勝敗が決した。どうやら、木兎くんが勝ったらしい。

「ナマエちゃん!俺が!勝った!じゃんけんに!」

 俺が先にキスをしますという意味ではなく、あくまでじゃんけんに勝った報告をしてくれる木兎くんに、この人はきっと根っからまっすぐなんだろうなぁと考える。天然でもあり、でもただただ純粋。嬉しそうにるんるんで話しかけてくれる空気がおかしくて、思わず口元が綻ぶ。

「うん、よかったね」

 わたしの言葉で、また一段と輝く笑顔を見せてくれる木兎くんを眩しく感じる。
 一方、じゃんけんに負けた黒尾くんは思いの外落ち込んでいて、わたしの背後に回り込むとそのまま腕を回して抱きついてきた。頭が背中に押し付けられる感覚に、さながらこっちも子どものようだと思った。

「何だよ黒尾!ちゃっかり抱きつくなって!」
「黙っておまえとナマエちゃんがキスしてるの見てろって?そんなことは願い下げですぅー。俺のことはお気になさらず、チューしちゃってください」

 そんなに最初がよかったのかな。ぐりぐりと頭を押し付けてくる黒尾くんの腕をトントンと叩けば、するりと指先を掬われて、ゆっくりと握られる。黒尾くんは結構大人びて見えていたけど、案外こうやって拗ねることもあるんだ。意外と可愛いところもある。
 ふふっと笑えば、ふと、視界に大きな手のひらが入ってくる。それが木兎くんのものであると気付いたときには、その瞳は至近距離にまで迫っていた。そうだ、わたし、今からキスするんだ。そしてきっと、それが、始まりの合図。早くなってきた鼓動と浅くなってきた呼吸に気が付いたのか、木兎くんが声をかけてくる。

「緊張してる?」
「う、うん……」
「だよなぁー!俺も!」
「……え?」

 空いている手を取られ、木兎くんはそのまま自分の胸にわたしの手を当てる。さっき聞いたなだらかな鼓動とは打って変わり、それは、わたしと同じくらいの速さになっていた。

「ナマエちゃんは彼女じゃないけど、何かこう、うまく言えねえけど、大切に扱ってあげたいんだよな!痛くないようにしたいし、傷付けないようにしたい!だから、何か緊張する!」

 照れなど一切ないまっすぐな言葉なのに、緊張するという一点に於いてはプライドのようなものがあるのか、でもそういったものがあるということを包み隠さず打ち明けてくれる木兎くんに、じんわりと胸が温かくなる。
 取られた手はそのまま自然に繋ぐ形になった。緊張で速くなっていたはずの鼓動は、いつの間にか理由を変えて、やはり速くなる。

「ありがとう……」
「まだ何にも始まってませんケドー?」

 木兎くんが形成した空気を壊すように茶々を入れる黒尾くんの言葉に、静かに首を振る。

「ここに、一緒に入ったのが……二人で、よかった」

 これは、心からの言葉。例え、このあと酷くされたって、きっとわたしは、間違いなくそう思える。そんな気がした。

「……ミョウジサン、さっきからご自分の発言が俺らを煽ってるってことに気付いてませんネ?」
「え!あ、煽ってるかな!?」
「少なくとも俺は優しくしてあげられる自信がありまセン」
「じゃあ俺がめちゃくちゃ優しくしてやる!」
「おー、ヨロシク〜」
「え……え!?ちょ、ちょっと待って……煽ってる!?」
「よし!ナマエちゃん!ちゅーするぞ!」
「みゃ、脈絡のなさ……!」

 背中で盛大なため息をついた黒尾くんと、煽るという言葉を微塵にも感じていなさそうな木兎くんが相反しすぎてどちらを信じていいか分からない。またもや別の意味でドキドキしてきた鼓動を落ち着かせようと深呼吸すると、なぜかおなかに回る黒尾くんの腕がぐっとそこを締め付ける。
 一呼吸置いたのを見計らって、手を繋いでいないほうの木兎くんの指先がわたしの耳元を滑る。豪快なイメージがあるけど、わたしの前髪を耳にかけてくれるその所作は、とっても繊細で、優しい。

「嫌だったりしたら、手、強く握れよ」
「う、うん……」

 ゆっくりと、木兎くんが近付いてくるのに比例して、思わず体を引いてしまったけど、それを邪魔するかのように背後には黒尾くんがいる。まさか、ここまで計算していたのではと思ったけど、そんなことを考えている余裕もなくなる。頬の輪郭をなぞるように添えられた指先に少しだけ顔を上げられ、そこで、わたしはそっと瞼を閉ざした。

(220804/To be continued.)



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