長編 | ナノ
海辺を歩いていた。
踏み込む足はさらついた細やかな砂に沈み込む。キラキラと光る水面の反射から目をそらすと、目の前に父の背中。おいでと差し伸べられた手を取った。
「奏」
どこかに向かって父はまっすぐ歩いていく。潮っぽい匂いがする風が父と私の髪を踊らせた。黙って手を引かれただひたすらに歩く。永遠のような光の中、父の手は確かに暖かかった。
「……お父さん」
薄ら開いた視界に写っていたのは見慣れた自室の天井だった。なにか夢を見ていた、ような気がする。さっきまで鮮明だった景色が途端に蜃気楼のように遠のいていった。思い出そうにもぐんぐんと遠ざかっていく情景に、諦めた私はため息をついた。朦朧とする頭でベッドサイドの時計を見遣る。時刻は昼過ぎ。……昼過ぎ?
がばりと身を起こした途端背中が鈍く軋んだ。鮮明に思い起こるのは、昨夜のこと。夢か現か。一瞬自分の記憶を訝しんだが、こちらはいやというほど鮮明に、湧いて出るように思い出された。そのなかでも、あの赤と黄色の美しいビー玉の瞳は、一晩たった今も爛々と、記憶の中で変わらずに煌めく。それどころか、一層に輝きを増しているように思えた。
「さっきお前が視たもの。ああいうのが、俺にも混じってる」
あの夜。私にその瞳を見せたまま、最初に彼はこう紡いだ。嘘だ、あんな恐ろしさを放つものと?一瞬疑問が首をもたげたが、人間のそれとはかけ離れた閃の瞳が何よりもそれが真実だと物語っていた。しかし、あの異形に感じた恐怖は、嘘のようになりを潜めていた。むしろ宝石のようなそれに引き込まれ、目が離せない。まさか、私も閃と同じ?彼の瞳の中に微かに映る自分の姿に目を凝らす。それを知ってか知らずか、閃は続けた。
「お前は、俺とは種類が違う。でも、異能者……簡単に言うと、”俺ら側”だ」
そうして閃は、ひとつひとつ、私が噛み砕けるよう、言葉を丁寧に選びながら話を続けた。異能とは何か。私が対峙した存在は何か。異能を持つものがどうやって暮らしているか。閃がここにやってきた目的。つい先日まで、閃すらその目的を知らされていなかったこと……。フィクションのような内容も、今の私にとってはすべての答え合わせのように感じられた。
息をついて閃は自分のペットボトルを一口のんだ。ぼうっと眺める私を見て、「怖いか?水」と首をかしげ、私の返事を待たずに「いや、今の俺の方が怖いか」と自嘲をはらんだ笑みを漏らした。とっさに首をぶんぶんと横にふる。だって、心の底から美しいと思った。
「……助かる。お前に軽蔑されたらかなり凹んでた」
人間は、理解できないもの、自分と違うものをこぞって忌み嫌う。語りこそしない。無理に聞こうとも思わない。ただ、その一言は、彼がその力ゆえに受けてきた境遇を想像させるには十分だった。
「軽蔑なんて、しないよ」
滑り落ちるように口をついて出た本心からの言葉に自分でも驚く。少し目を見開いて、閃は困ったように眉を下げた。
「……あんなにビビらせたのに?」
それはきっと、閃が私にもたらした、あのざらついた嫌悪感のこと。わだかまりの核心に、再び迫る。答えあぐねて視線を落とすと、閃は静かにぐ、と息を飲んで、それからまた話を始めた。
「俺は、”探る”のに長けてる」
言葉を並べる閃の手のひらが、ぎゅうと固く握られているのが見えた。
「力の量とか質とか、流れとか。……あと、何を考えてるか、とか」
読心。異能には明るくないが、フィクションに触れないわけではない私の頭にすぐにその2文字が浮かんだ。いちど私の反応を伺った様子の閃と、再び視線がかち合う。光を放つべっ甲が不安げに揺らめいた。
「今も、わかるの?」
「いや!垂れ流しってわけじゃない。こっちから能動的に行かねーとだし、取ってこられるのも、顕在化してる部分のごく表層だけだ。だから……」
だから、と言いかけてまたバツが悪そうに閃はうつむいた。なおさら、能動的に読もうとしたことは事実だという自覚があったのだろう。内蔵を直接掴まれるあの感覚は、ほかでもない閃の「探り」。
転校初日は単なる練習台、つい先日は、様子のおかしい私にサポートを入れるための糸口を探すためだったと、震える声で閃は続けた。眉根に固く皺を寄せ、握った手は鬱血を始めていた。
それは、きっと彼がどうしようもなく隠したい真実。自分がその力を持っていたらどうしていただろうと思案する。……きっと、誰も何も信じず、何があっても、誰にも話さなかっただろう。私の過去と同様、彼のやわらかく、弱い場所。
「土足で自分の感情に踏み込まれた」とは、不思議と思わなかった。探る力。きっとそれと向き合ってきたからこそ、今の、どうしようもなく不器用で、でも人の心の機微に敏感な閃がかたちづくられたのだろう。そして、何よりも。
「でも、だから、ここが分かったの?」
文字通り、私のもとに飛んできた姿が記憶に新しい。大きく目を見開いたあと、閃は「いいのか、そんな都合よく解釈して」お前が一番嫌がりそうなことしたんだぞ、俺。とでも言いたげに下唇を噛んだ。うつむいた顔を覗き込む。汗で張り付いた金の前髪を払うと、悪いことをして怒られた猫のような表情。考えるより、言葉を選ぶよりも先にこぼれた言葉は。
「ありがとう」
2021/8/31
title by 惑星
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