長編 | ナノ
ずる、ずる。街頭の光を避けるよう、影の中をその異形はうごめく。あの日の閃から感じたものと似ているようで、それでいて確実に閃のそれよりも邪悪さをはらんだ感覚が背中を駆けずり回った。立て続けに起こる経験したこともない異常事態に、私の思考は焼ききれてしまっていた。音を立てないように潜めていた息に肺が悲鳴を上げ、ようやくのところで姿勢を保っていた足は限界を迎えていた。とうとうへたりと音を立ててその場に座り込む。すると、輪郭があるともないともわからない異形はのそりとこちらを振り向き、現れた瞳のようなものが、弧を描くように形を歪めた。
「っ……!」
その瞬間。吹き飛ばされそうな突風が巻き起こり、何かが視界の端に飛び込んだ。弾かれたように気配の方向を見上げる。月が目を焼き、逆光のなかシルエットとして浮かび上がったその体躯は、たしかに人の形をとっていた。しかし、目を引いたのは、ぎょろりと赤く光る瞳、指先から伸びた鋭く長い爪、そして、両耳から波打つ、ゆるやかなウェーブの髪。
その人は近くの街頭に足をかけ、勢いをつけて異形のもとに飛んだ。あまりのスピードに視認が追いつかず、次に異形のいた場所に目を向けたとき、さらさらと砂のように風に流されていく黒いなにかと、こちらに背を向け佇むその人だけが残っていた。暗がりで未だはっきりと顔は見えないその人を、わたしはよくよく知っている。
「せ、閃」
よく見ると方で大きく息をし、必死で呼吸を整えていた彼は、びくりとこちらを振り返る。伸びた爪はいつの間にか引っ込み、赤く見えた瞳も見慣れた猫のような眼に戻っていた。そのままフラフラと魂が抜けたようにこちらに歩み寄り、すとんと私の目の前に腰を下ろしたかと思うと、閃は力なく片手を私の肩にかけた。乱れた前髪が影を落とし、彼の表情を隠していた。怒っているのか呆れているのか、感情が読み取れず戸惑っている私をよそに、先に口を開いたのは閃だった。
「奏……」
「あ、っ、はい」
「怪我ねえか……?」
予想外の言葉に拍子抜けし、ただこくりと首を縦に振る。その様子を盗み見るように確認した閃の手には、強く力がこもった。気づけば、汗でぐっしょりと濡れた閃の胸元に引き寄せられ、体勢を崩した私はなすがままに体をもたげていた。
「ッ良かった……」
慈しむように閃の手が荒く背中をさする。あたたかく柔らかなその感触に、ようやく緊張がほどけ始め、喉元に熱い何かがこみ上げた。こらえきれず嗚咽を漏らし、閃の背中にすがりつく。ありがとう、迷惑かけてごめんなさい、どうして見つけてくれたの、あなたのさっきの姿は何、わたしに起こっていることは何。いろいろな感情は言葉にならず、ただ涙となって溢れ続けた。閃は一度「悪い」とつぶやいたが、しゃくりあげる私を見て、恐る恐る頭や背中を撫でたり、時たまぽんぽんとあやすように叩きはじめた。その手にこもったどうしようもないくらいの優しさに、余計に涙が止まらなくなった。
今までのフラストレーションをすべて吐き出すような途方も無い作業が落ち着く頃には、夜も深まり街はいっそう寝静まっていた。汗やら涙やらありったけの水分を使い果たし、お互い文字通りに干からびた私達は、先程の自分たちの様相にやや気まずさを感じながら沈黙する。何も言わずのろりと立ち上がり自販機に向かった閃は、程なくしてペットボトルの水を両手に持ってきた。飲めよ、と差し出されたそれに、思わず体が緊張する。水。やはり私の緊張に呼応するように、閃の手の中の容器に入った水が、ざわりと重力に逆らって波打った。
「話すから」
固まる私に目線を合わせ、閃が私をまっすぐ見据える。主語も目的語もない曖昧なその言葉でも、私の欲しかった言葉、欲しかった真実が語られると理解するには十分だった。安堵とともに水面は凪ぐ。息をついて容器を受け取り、半ば一気に飲み干した。心地よさが全身を支配する。一連の様子を眺めていた閃と再び視線がかち合うと、彼はゆっくり目を閉じた。猫の、親愛の瞬きみたいだ。あさっての方向へ行く思考を持て余しながらも、その仕草から目を離せずにいる。けれど、再び閃がゆっくりとまぶたを上げたとき、私は息を飲んだ。現れたのは、鮮やかな赤色と、べっ甲のような黄色に染まった美しい眸だったからだ。
2021/8/30
前話から半年くらい空いてしまいましたが、多分あと5話くらいで終わります。
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