長編 | ナノ
本格的な夏に突入し、ここ最近はますます暑さが増していた。
むき出しのアスファルトに囲まれた屋上がサウナのような熱気を帯びていることは容易く想像できたが、それでも何となく足を運んでしまっている俺がいる。外に出るのは流石に憚られて、階段の踊り場、屋上へと続くドアの前に座り込んだ。
お世辞にも冷房が効いているとはいい難い空間で、少しでも体温を下げようと鉄のドアに背を預ける。汗がじんわり滲んだワイシャツ越しに伝わる冷たい感触に目を細めながら、水槽の青い光に照らされた奏の横顔を思い出していた。ここ最近、彼女の本心について勘案することをやめられない。元来あまり心の内をさらけ出さず、表情にも出すことがない彼女のことだ。過去を掘り起こしたのは紛れもない自分であるものの、そのダメージが残っていないか、無理に隠してはいないかという思考だけが脳内を支配した。能力の練習も兼ねて彼女を読めばいいだけの話かもしれないが、それはきっと彼女の心を余計に踏み荒らすことになるだろう。転校初日に覗いた奏の恐怖心は、未だに感覚として俺の中に焼き付いていた。そういえば、あれ以来俺は校内で一度も一般人に読心を仕掛けていなかった。
「感覚が鋭敏なやつはたまにいるからなあ」
電話越しの細波さんの言葉を反芻する。能力を感づかれたのかと恐れる俺に、落ち着け、と言い放たれたのを思い出して歯がゆい気持ちがフラッシュバックしてしまった。ともかく、藍塚奏はただの一般人。どうしたって俺とは世界が交わることのない存在だ。それでも彼女との関係性は心地よく、綻びるのは嫌だった。
「あれ、閃」
踊り場に響いた声に顔を上げると、運動部男子のような大きな水のペットボトルを手に奏がこちらを見ていた。「やっぱここだよねー。他にサボりやすい場所ないし」背に腹はかえられない。クーラーの効いた教室で授業を真面目に受けるより、多少の暑さを我慢してでもサボることを選ぶ気持ちはよく分かる。こう暑くとも決して裾が上がることのないスカートを一瞥し、そういえば私服でさえ足を出さないパンツスタイルだったことを思い出した。鉄のドアにもたれると涼しいぞ、そういう意味合いを込めて自分の隣に空いたスペースをとんとんと指先で叩いたくと、彼女は少し思案した後、俺とは真向かいの位置に腰を下ろす。いや距離感!声を上げようとしたが、必死こいて隣に座らせようとしていると思われても癪なので沈黙を貫いた。物理的にも心理的にも、自発的に必要以上に距離を詰めることをしないのがこの女であることを再認識した。
あの水族館の一日を経て、俺達の距離感は心なしか縮まった……なんてことは全くないのであった。どちらかというと、むしろあの日の妙な雰囲気を振りはらうかのように、過剰なほど「今まで通り」を続けている。奏が俺に対してどのような心情を持っているかは知り得ないが、兎にも角にもお互い不可侵の関係性を保とうという不文律が俺たちの間には横たわっていた。
「でけぇ水だな」
「もうなんか最近、これくらい水飲まないと死にそうで」
「夏毎年そんなんなるのか?」
「どうだっけ……」
汗を拭いながらペットボトルの中身を飲み下す。透明な液体は喜んで彼女の喉に吸い込まれていった。
さすがに長時間冷房の効いていない空間にとどまるのが辛くなって、教室に戻ろうと重い腰をあげる。「仲良く2人で教室に戻ってまた女子に目をつけられたくない」呼び出しの一件以来頑としてそのスタンスを崩さない奏であったが、空になったペットボトルを虚しく握りしめ明らかに溶けかけていたので、腕を引っ掴んで無理やり立たせた。
「先行けよ。ちょい時間空けて俺も戻る」
ありがと、へらりと笑う彼女に「もう一本ぐらいそれ飲んどけよ」と付け足した。
宣言通りしばらく時間をおいてから、教室に続く廊下を歩く。ふとたむろしていた女子生徒たちが目に入った。細波さんのことを思い出したのもあってか、久々に読心の練習でもしておこうか……という考えが一瞬首をもたげたが、記憶のなかで長めのスカートがひらりとひるがえり、すぐにかき消される。墨村や雪村のような空間を統べる能力者でもない奏が、こうも離れた位置で俺から他人への読心に感づくことはありえない。よくよく考えればわかるものの、ただ何となく、彼女の居る場では能力を使いたくないと思った。
2021/1/16
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