長編 | ナノ

 ……はて、私はこんなにも水族館がお気に入りだっただろうか。
足を踏み入れた途端、十分に整えられた空調も相まってかうだっていた体が一気に息を吹き返した。

「水を得た魚だな」
「魚じゃないけど」

さきほどの電車内での気まずさを上書きするかのように軽口を叩き合いながら、一面青の世界を闊歩する。汗はとっくに引き、身体がずっとここにいましょうと叫んでいるようだった。なんだろう、なんというか……常軌を逸した、全能感のような感覚さえ覚える。自分でももはや恐ろしさを覚えるほどの機嫌の良さを閃も感じ取ったのか、呆れたような、どこか安心したかのような表情を浮かべて私を盗み見ているのが分かった。ぶっきらぼうで口も悪いが、つくづく優しい人だ。幾度聞いても閃は語りこそしなかったが、私に過去を話させたことを気にしていたからこそ今日の機会があることを、私は知っている。

「ほら、お待ちかねだぞ」

カワウソの餌やりショー、と書いた案内を閃はクイと顎で指す。「やっぱりショーだ」と笑みを含みながら口に出すと、「はいはい、そうだな」とため息を吐かれた。

 小屋の前にはすでに人だかりが出来ていて、肝心の主役は簡単に拝めそうもなかった。閃も私も背が低いわけではないが、どうにも子連れの成人男性が多く、人と人の間のわずかな隙間からどうにか覗くことで精一杯だ。散々話題に挙げたものの、実際そこまでカワウソ好きというわけでもない。こうした状況の打破を試みてまで、何かにこだわるような性分でもないため、すでに諦めて人の少なそうな場所でのびのび歩こうじゃないか、と思考を切り替え始めていた、その時。

「奏」

肩にするりと細長い指が触れる。ぐいと引き寄せられて固定される体。真後ろ、というかもはや真上に閃の頭があることが見なくともわかる。前、と耳に届いた声に従い前を見れば、ちょうど人と人との隙間が大きく空いているのか視界の先を遮るものはなく、もくもくと餌を頬張るカワウソがよく見えた。うん、罪がない顔でご飯を食べていて可愛いね……しかし、正直言ってそれどころではない。ただでさえ行きの電車で変に意識してしまったせいもあって、密着してホールドされている体勢にまた汗が吹き出てしまった。閃自身も、自分でやっておきながら体が強張っているのが伝わる。一体こいつは何を考えているんだ、身を挺して私をからかっているのか?

「満足?」
「ぁえ?」
「見たかったんだろ」

一瞬、この閃との密着体勢について感想を問われているのかと思って素っ頓狂な声を上げる。すぐに問いかけの真意を察し、ろくに頭も働かないまま「あ、うん。そうだね。はやくあれになりたい」などと妙な返事をしてしまった。「……なんだそれ」とまた呆れる閃が、その顎を私の頭に軽く乗せた。勘弁してくれ。どちらともそれきり黙ってしまい、ただ餌を食べ続けるカワウソを見つめた。素知らぬ顔で首をかしげる愛らしい顔が、少し憎く感じた。

 結局、終始緊張し切ったまま餌やりショーは終了し、人がまばらに解散し始めた。閃も私から自然と身体を離し、ついぞ私の肩から離すことがなかったその手をゆっくりと下ろした。解放された身体に、浅くなっていた呼吸をひそやかに取り戻す。そっと閃を見遣ると、彼も同様に深呼吸をしていた。照れるならやらなきゃいいのに……彼の真意が全く読めず、私は短く息を吐くことしかできない。

 閃のことを、「そういう風」に見たことは一度もない。最初は疑念、次に嫌悪、今は共犯、そして不可侵。彼との関係性や感情に月並みな言葉を当てはめるとしたらこんな感じだった。そもそも、まともな友人関係すら薄っぺらいものしか築けない自分にとって、人間関係の究極系のような恋愛など到底縁遠いものである。過去の経験からも向いていないと判断した自分を思い返す。いつかまたそういったものに触れる日が来るのかもしれないが、それは今ではないし、ましてや相手がこの目の前の男だなんて想像だにしなかった。
その感情の輪郭を捉えてしまったときに、真っ先におぼえた感覚は絶望にも似たものだった。今の心地よい関係が壊れゆく恐怖。流行りのドラマや少女漫画のような甘やかでキラキラした幸福が、自分に訪れるはずがない。根拠もなく、もはや反射的にその思考に支配された。「望めば消えていく」いつだってわたしにはそういう縁が巡って来るのである。

「なにボーッとしてんだ。行くぞ」

 沈黙を破り、思考を引き戻したのは閃だった。そろそろ飯でも食うか、ピッと親指でカフェの方向を指す。先程の体勢により妙なものになってしまった雰囲気を打破したいのか、その振る舞いはいささか空元気のようにも思えた。黙ってうなずいて、順路に沿って歩き出す。頭上に現れた水槽は、頭を冷やしてくれるような気さえした。





2021/1/15
書ける勢いのあるうちに書きます。



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