長編 | ナノ
「お父さん、中々帰ってこないね」
時計を見つめながら呟いた母の言葉が耳に入っても、私は黙ったままでいた。
あんな奴、待たなくてもいいのに。
そんな感情が頭の中を支配する。空腹もあってか胃が気持ち悪かったのを覚えている。
「ねぇ、お母さん、もう」
「もう食べようよ」、そう言いかけた時に、荒々しくドアが開く音がした。
「今帰ったぞてめーらァー」
呂律が回っていない口調であいつが帰ってきた。いつもと様子が違うのは一目見てわかった。
「んだよおめぇら、親父が帰ってきたってのに出迎えもなしかよ!」
どん、と鈍い音が響く。何が起こっているのか分からなかった。お母さんが床に倒れている。あいつが眉を吊り上げて拳を固めたままでいる。視覚的には情報は入って来ていたが、理解できなかった。否、脳が理解するのを拒んでいた。
あいつが、お母さんを、殴った。
漸く状況を把握しても尚私は固まったままでいた。
なんで?なんでお母さんが殴られなきゃいけないの?お母さん、何か悪いことしたの?
「誰がお前らに食わしてやってると思ってんだよ!」今度は机を蹴っ飛ばす。お母さんがわざわざあいつの為にと作ったあいつの好物が、吹っ飛んでべちゃりと床に落ちた。
帰って来るなり暴力を振るう。散々暴れたあとに満足した様子でまた家を出ていく。
勝手な事を言って勝手に去るあいつに怯える日々が、その日から始まった。
本性を表した、とでも言おうか。
あいつは、わざと他人からは見えないような場所ばかりを狙って殴ったり蹴ったりを繰り返した。
だから誰かが気付くわけも無かったし、学校では普通に振る舞った。下手に言ったらもっと酷い仕打ちが待っているだろうから。
痛い。怖い。憎い。
抵抗も出来ずにうずくまりながら何度も思う。睨んだり、口答えしたりすると余計に酷い目に遭うと分かっていたので、私はただ黙って目を瞑り時が過ぎるのを待った。
お母さんは、そんな私をいつも庇うものだから、私の倍は痛い思いをしただろう。「奏だけは」と必死に懇願する母を前に何も出来なかった自分に歯痒さを覚えていた。昔も、今も。
あいつが去ると、二人してボロボロのまま泣いた。私はお母さんにすがりながら泣き、お母さんは私を宥めながら泣いた。大丈夫だよと私の背中を撫でる母の手は、一体どれ程の痛みから私を守り、どれ程の想いを積み上げて来たのか。
その時の私にはまだ、わからなかった。
2011/5/5
暗いなぁ。暗いなぁ。
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