長編 | ナノ
どれくらいの時間が経ったのか分からない。日はつい先程に沈んだ。疲れ果てた身体を起こし、頬にて固まっている涙を乱暴に拭う。
"先程の悪寒は何も影宮くんがやったものと確定した訳ではないし、そもそも悪寒等気のせいであったかもしれないじゃないか。"
私の十八番である。深く深く呼吸をして、力むようにその言葉を頭に刷り込んでいく。無意識のうちに口は「落ち着け」と繰り返す。
辛いとき、楽になりたいとき、私はいつもこうやって無心になることを心得ていた。考えたくないことを考えたくないようにする、どこまでも怠惰なずるい私の常套手段。
なんとか言い聞かせて、もはや物理的に痛んでいるとしか思えない程きりきりと悲鳴をあげる胸を手の平で擦って教室を出た。
「ただいま……」
「お帰り、奏」
返って来ないと思っていた返事は意外にも返ってきた。
「お母さん」
「あらなにアンタ、その顔。
ひどいわよ」
「あ、これ……、帰りに映画観てきた、泣けるやつ」
我ながら酷い嘘だと思う。でもお母さんは問い詰める事なく静かに目を伏せて、そうなの、と笑った。きっと、この人にはお見通しなのであろう。
やつれ気味のその口元には深く皺が刻まれていて、今まで私を守ってきたその小さな背中は、私の胸を締め付けた。ただでさえ疲れているお母さんに、これ以上心配事を増やしてはならない。
「大丈夫だよ、大丈夫」
それは、誰に向けて呟いた言葉だろう。母親か、自分か。答えは出なかったけれど言える事は、どちらに向けた言葉であったとしても、全く説得力がないというこだ。重たい身体を揺らし自室に向かった。
影宮閃。色々と引っ掛かる人間だ。
異質なまでの人当たりの良さと、裏表を感じるほほえみ。
一瞬あの悪寒を思い出したが、あれは違うそうじゃないと自身を一喝して頭を振る。また心臓が痛んだ。
夕食を食べ、風呂に入った頃には私の心で揺れる波は静かに高度を下げていた。また仕事に出掛ける母親を見送って、ベッドに腰掛け頬をなでる風に目を細める。5月の空気は涼しくもあり、暑くもあり。
ふと視界の隅に捉えた黄色い月は灰色の雲に隠れて身を隠していた。その姿は、なんだかあいつに似ている気がした。
私が呟いた「おやすみ」に、返事をする者はもういない。
2010/11/24
2013/05/13 修正
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