シャワールームを出た兵太夫は濡れた髪のまま整備科兵舎の廊下を歩く。…今日のところは自室に戻って早めに寝てしまおう。というのも、明日の朝、大川空軍によるドクタケ第三軍事基地の攻撃が決行されることになっていたからだ。恐らく出撃前には多くの飛行兵の機体整備を行うことになるだろう。
(…あれは、)
しんと静まり返った薄暗い廊下に、一人の少年の姿があった。
──浦風藤内、十六歳。飛行兵である彼が、何故こんな夜遅い時間に整備科兵舎に。その疑問は、すぐに解決された。
「おぉ兵太夫、丁度お前を探してたところだったんだ!明日の朝、機体の整備をしてもらえないか?」
彼は未だに飛行服を身に纏い、ゴーグルを装着したままだった。
「いいですけど…その格好、浦風先輩こんな時間まで一体何してたんですか?」
「ん?あぁ、これか?これは明日の空戦の予習だよ!」
まあ、勝手に飛行機は乗れないからイメトレなんだけどさ、と藤内は笑う。
「じゃ、明日よろしく頼むよ」
そう言って一度は背を向けて歩き出した彼だったが、ふと何か思い出したかのように再び体を兵太夫の方に向ける。
「そうだ、お前団蔵と何かあったのか?」
「え?」
思いがけない彼の言葉に、兵太夫は戸惑う。心当たりは、何もなかった。
「いやぁ、団蔵の奴、なんだか元気なさそうだったからさ」
「そう、ですか…」
「じゃ、俺はもう戻るよ」
…元気がない?
…彼奴が?
兵太夫は今来た道を戻り、三治郎の部屋の戸を叩いた。
「あれっ、どうしたの兵太夫」
「三治郎、虎若になにか変わったことはない?」
その言葉に、三治郎は目を見開く。そして何処か気まずそうに視線を逸らし、小声で告げた。
「実は今日、虎若が怪我をしちゃって…」
「怪我を?」
「うん。それがどうも団蔵を庇って潮江先輩に手首を掴まれた時に痛めたらしいんだ」
「そっかぁ、だから団蔵が…」
…彼奴が怖いのは、空じゃない。仲間が傷つくのが何より怖い、そんな優しい臆病者なのだ。
「それに、鍛錬の最中に金吾が倒れたみたいなんだ」
へぇ、と相槌を打ちながら考える。…何が鍛錬だ、無茶苦茶じゃないか。兵太夫は、教官である文次郎を腹立たしく思った。
「明日は大事な空戦なのに…幾らなんでもやりすぎだよねぇ」
三治郎は眉を下げ、力無く笑う。いつもの眩しい笑顔は、其処になかった。
おやすみ、と一言声をかけて兵太夫は部屋を出る。本当は今すぐにでも、この足で彼のもとへ会いに行きたかった。落ち込んでいるであろう彼を励ましてやりたかった。けれど、整備兵が許可なく飛行兵舎へ立ち入るのは軍の規律で禁じられている。掟を前に無力な彼は、重い足取りで自室へと向かった。
『──彼女の両足の代わりに生えた蔦が、地に深く根を張って動けずにいたのです。何処にも行けない蕀姫、自由になれない蕀姫。彼女はいつも一人で泣いていました。』
**********
早朝、飛行場には多くの兵の姿があった。
庄左ヱ門は、しんべヱが機体の整備を終えるまでの間、無線の調子を確認していた。これが故障していては、空戦の最中に仲間と連絡を取ることが出来なくなってしまう。
「お早う、庄左ヱ門」
一人の少年が、背後からその背を叩く。庄左ヱ門は特に驚いた素振りも見せず、無線を胸ポケットにしまってからゆっくりと振り向いた。
「お早う、彦四郎」
──今福彦四郎、十三歳。庄左ヱ門と同じく飛行兵で、今日行われる空戦には彼も参加することになっていた。
「今日はドクタケ軍の小基地爆撃だもんね…どうせなら、邀撃任務の方が良かったんだけどなぁ」
彦四郎はそう愚痴を漏らして、苦笑する。邀撃戦ならば、自陣で戦うことができ、燃料を気にせず戦うことが出来るからだ。邀撃とは敵の迎撃、つまりは防戦のことである。
「だけど彦四郎、防戦は逃げられないよ」
庄左ヱ門は真っ直ぐな目で空を見上げ、己に言い聞かせるように呟いた。
「僕らが逃げれば、死ぬのはいつだって味方だからね」
風が彼の髪を揺らす。空へと誘うように。
「おーい彦四郎!機体の整備は済んだー?」
一人の少年が、彼らのもとに駆け寄る。
──上ノ島一平、十三歳。飛行兵である彼にも、彦四郎同様に出撃命令が出されていた。
「いや、まだだけど…」
「まだ…って、早くしないと集会が始まっちゃうじゃないか!」
「えっ、もうそんな時間!?」
一平は呆れたように溜め息を吐く。
「ほんと、彦四郎は頼れない小隊長なんだからぁ」
彦四郎は、三機編隊の小隊長を務めている。その列機を担うのが、左吉と一平だった。
「ご…ごめん、伝七に頼んでくる!」
彦四郎は、大慌てで整備士である伝七のもとへ向かった。
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「浦風先輩、整備終わりましたよー」
「おぉ、すまん!」
兵太夫の隣では、伝七が機体の整備を行っていた。
「伝七、お前それ一機にどれだけ時間かかってるの?」
「う…うるさい!」
伝七の工具を握る右手に力が込められる。…兵太夫、お前はいいさ、機械弄りが好きで此処にいるんだから。
「あーもういい、後は僕がやるから。お前はあっちで落下傘でも縫ってなよ」
落下傘というのは、所謂パラシュートのことだ。パイロットが機体から脱出する際に重要な、謂わば命綱のようなものだった。
「裁縫“だけ”は上手いんだからさぁ」
兵太夫の言葉に、伝七は何も言い返すことが出来なかった。…仕方ない、全部本当のことだ。伝七は黙って整備科兵舎に引き返す。
丁度その時、伝七に機体整備を頼みに彦四郎がやってきた。
「あっ、伝──…」
伝七は言葉もなく彦四郎の横を通り過ぎる。その横顔を、彦四郎は視界の端で捉えた。
(あれ、伝七…なんだか顔色が悪い…?)
「仕方ない、喜三太に頼んでみよう」
その様子を横目で見ながらも、兵太夫は既に機体整備を完璧に終えていた。
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…さて、そろそろ団蔵の機体整備をしようか。
兵太夫は飛行場を見渡す。
「三治郎、団蔵見なかった?」
兵太夫が無人の戦闘機に声をかけると、その機体の真下から三治郎がひょっこりと顔を覗かせる。
「団蔵?団蔵ならあっちにいるよ」
三治郎が指差すその先には、数人の飛行兵と談笑する団蔵の姿があった。一見いつもと変わりなく楽しそうに笑っている。…けれどあれは空回りに違いない。そういう奴なのだ、彼奴は。
「…ねぇ、三治郎」
「んー?」
三治郎は工具を動かしながら視線を手元に固定したまま、耳だけを彼の声に集中させた。
「きっと、今日の彼奴はたくさん敵を墜とすよ」
三治郎の右手が、ぴたりと動きを止めた。
「…どうして?」
三治郎の瞳に、兵太夫が映る。その顔は、笑っている筈なのに何処か悲しそうだった。
「逃げ道が、“そこ”にしかないから」
彼が指差すその先には、青い空が広がっていた。
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飛行場には、金吾の姿もあった。
「ねぇ金吾…やっぱり休んだ方がいいんじゃない?」
機体を整備しながら心配そうに訊ねる喜三太に、金吾は頑なに首を横に振る。
「いいや、休んでる暇なんかあるもんか」
その様子を、遠く離れた場所から眺めている少年がいた。
「金吾、大丈夫かなぁー…」
──時友四郎兵衛、十四歳。彼は、金吾よりも一年先輩の飛行兵であった。
「なーに、心配ない!きっと彼奴には彼奴のプライドというものがあるのだ」
「たっ…滝夜叉丸先輩!?」
突然の声に四郎兵衛が振り返ると、滝夜叉丸が指に引っかけたゴーグルを器用に回していた。
「それに…彼奴はきっと強くなる。あの七松先輩が“空に戻って”まで指導したいと仰っているのだから」
「そ…そうですよね」
表情を和らげた四郎兵衛に、滝夜叉丸も満足げに頷く。
「それに、七松先輩のいけどん鍛錬の力は相当のものだ!なにせこの平滝夜叉丸も…」
「そっ、そういや滝夜叉丸先輩!次屋先輩と神崎先輩を見ませんでしたか?」
四郎兵衛は慌てて長々と続きそうな昔話を遮る。滝夜叉丸は突然の質問に目を丸くして、いや、と首を横に振った。
「実はさっき富松先輩が飛行場でお二人を探していて…」
滝夜叉丸は口許に手を当て、少し考える。
「ふむ…まあ、点呼までには見つかるだろう」
その言葉に、四郎兵衛がいつものように穏やかに笑い、ぽつりと呟いた。
「…そうだと、いいんだけどなぁ」
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「しんべヱ、整備ありがとな!」
きり丸が、飛行機の翼を満足そうに撫でる。
「ううん、どういたしましてー!」
「乱太郎も、手当てありがとな!」
きり丸は頬に貼られた絆創膏を指差して悪戯っぽく笑う。
「どういたしまして!…あ、そろそろ集会が始まるみたい」
「お、ほんとだ!」
飛行場の中央には、人集りが出来始めていた。
「じゃ、俺も行──…」
「らんたろぉ〜」
三人は、声がする方を一斉に振り返る。一人の少年が、息を切らして彼らのもとに駆け寄った。
「どうしたの、伏木蔵」
──鶴町伏木蔵、十三歳。乱太郎と同じく、救護隊に所属している。
「伊作先輩が呼んでたよ〜…特別救護施設を手伝いにきてくれ、だって。あ、しんべヱも…富松先輩が整備してくれって」
「わかった!じゃあきりちゃん、私たち行くねー!」
「おう!」
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先輩から預かった伝言を無事に伝え終え、伏木蔵はほっと息を吐く。
「あれぇ」
救護施設に戻る途中、飛行場の隅で彼は足を止めた。
「平太と怪士丸、何してるの?」
「うん…機体整備が終わって暇だったから、ひかげぼっこー…」
──下坂部平太、十三歳。
──二ノ坪怪士丸、十三歳。二人とも、大川空軍所属の飛行訓練兵だ。
二人は機体の翼の真下にしゃがみこんだまま、じっと動かない。その暗い表情は、何処となく楽しそうにも見えた。
伏木蔵は、空を見上げて呟く。
「空戦かぁ…すごいスリルゥ〜!」
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駆け足で去っていく二人を見送り、一人残されたきり丸は退屈そうに頭を掻く。
「じゃ、俺もそろそろ集会に行…」
「おーいジュンコー!!」
突然の声に驚いたきり丸が振り返ると、其処には地面に這いつくばる迷彩服の少年の姿があった。
「い、伊賀崎先輩!?」
──伊賀崎孫兵、十五歳。現在陸軍第五部隊に所属する彼は、毒虫野郎として飛行兵の間でも有名だった。
「ちょ、ちょっと伊賀崎先輩、こんなところで何してるんすか!?」
そこで初めてきり丸の存在に気がついた孫兵が、顔をあげる。
「ああ、きり丸!大変なんだ、ジュンコがいなくなっちゃって…!」
ジュンコとは、日頃彼が大切にしている毒蛇の名前だった。
孫兵はキョロキョロと辺りを見回す。その様子を見て、きり丸は苦笑して言った。
「だけど伊賀崎先輩、蛇なんてそこら中にいるんすから、何もそこまで必死にジュンコちゃんを探さなくても…」
「馬鹿言え!!」
孫兵の怒鳴り声が、広い飛行基地にも響き渡る。
「誰かの代わりになる命なんて、あるわけないだろ!」
きり丸は、その言葉に返事を返さない。いや、返せなかった。
…だって、たくさんある命の中、俺一つ消えたところで、きっと誰も探さない。
孫兵はそのまま何処かへ走り去る。
きり丸は、胸ポケットにそっと手を入れる。取り出したのは、古びた黒いバッジ一つ。
(…これは、誰の物なんだ)
どういう訳か、彼は物心ついた頃からずっと、そのバッジを肌身離さず持っていた。
(…どうして、俺が持ってるんだ)
バッジを握るその手に力が込められる。確かな存在が、その拳の中にあった。
答えは、見つからない。