五話 鬼教官

「バカタレ!!」

怒鳴り声と共に、小さな身体が勢いよく地面に叩きつけられる。うつ伏せに倒れて咳き込んでいるのは、一破の飛行兵、加藤団蔵だった。

「…す、すみ…、ませ……っ」

彼は全身から汗を流し、苦しそうに肩で息をする。

「どうした、もうくたばりやがったのかぁ?このヘタレが!」

「……っく、ぅ」

それでも立ち上がろうと腕に力をこめる団蔵を冷たく見下すのは、鬼教官こと潮江文次郎だった。

「…っ団蔵!」

見かねた虎若が団蔵のもとに駆け寄り、手を差し伸べる。

潮江はその手首を掴み、容赦なく捻り上げた。

「い゛っ…!!」

「手を貸すんじゃねぇ」

団蔵は慌てて項垂れていた頭を持ち上げる。

「…大丈夫虎若…っ俺、まだやれるよ……!」

文次郎の鍛錬は余りに過酷なものだった。腕立て伏せ千回、腹筋背筋千回、挙げ句飛行場を百周。筋肉も骨も成長しきっていない未成熟な十三歳の身体は、当然の如く悲鳴をあげた。

「この程度でへばりやがって…団蔵、お前すぐ死ぬぞ」

──死。

文次郎の言葉に、団蔵の目の色が変わる。

「……潮江先輩…僕は、死に…っ、ません……!!」

その腕に力が込められる。血管が浮き上がり、地面に食い込んだ爪は血が滲んでいた。腰を浮かし、鉛のように重く感じる身体を持ち上げる。膝ががくがくと笑った、弱い自分を馬鹿にするように。

「………」

まるで生まれたての子馬のようだ、と文次郎は目を細める。
…そうだ、それでいい。ヒトの子は、他人の助けなしに生きていけない。子馬が生まれてすぐに立ち上がるのは、弱肉強食の非情な世界で生き延びる為だ。自分の足で立つことに意味がある。


「…俺はっ、死にません!!」


よろめきながらも、遂に団蔵は二本の足で再び地面に立った。

「なら、続けろ」

「っはい!!」

団蔵は声を張り上げ、またふらふらと駆け出す。文次郎は小さな背中を見送り、飛行場を見回す。その片隅には、異様な人集りができていた。

「おい、どうした」

文次郎が訓練生を掻き分けて輪に入る。中央には一人の少年が倒れていた。

「…皆本金吾か」

文次郎は軽く舌打ちをして、無線を取り出す。

「仙蔵、至急救護隊の伊作に繋いでくれ」

ぐったりと地に投げ出されたその手足は、時折痙攣している。…概ね、脱水症状といったところか。
「問題ない、鍛錬を再開しろ!」
彼の一声に、訓練生達は蜘蛛の子を散らしたように一斉に駆け出した。

…どいつもこいつもだらしねぇ、と文次郎は溜め息を吐く。

その時、背後に何者かの気配を感じた文次郎は、一歩後ろに退いて振り返る。

「ははっ、さすがだな文次郎」

気配は消したつもりだったんだけど、とその男はからからと笑う。
──七松小平太、十八歳。彼は、“暴君”と呼ばれる陸軍最強の兵士だった。

「小平太、なんでお前が此処に…」

「もう一度、空を飛ぼうかと思ってな。なあ、そいつ私が貰っていいか?」

彼が指差す先には、金吾の姿があった。

「かまわん、好きにしろ」

「ああ、そうさせてもらう!じゃあな文次郎!」

言うが早いか、救護隊の到着も待たずに彼はひょいと金吾を肩に担いで歩き出す。

「あっ、おい、伊作のとこには連れていけよ!」

「わかってる、任せておけ!」

去り際、小平太は立ち止まって呟いた。

「…なあ、長次」

彼の隣に立つ長身の男は、黙ってその横顔を見つめる。

──中在家長次、十八歳。幼い頃より、小平太と行動を共にしてきた、無口で仏教面の男。

「何故かはわからんが、こいつらを見ていると…五年前の私達を思い出す」

その言葉に、長次は小さく頷いた。

「…ったく、小平太の野郎、一体何考えてやがる」


沈む夕陽が、飛行場を照らした。

**********


──“あの日”も、いつものようにあの子と裏山で遊んでいたんだ。日が沈むまで夢中で赤トンボを追いかけて、帰り道が解らなくなって、迷ってるうちに辺りは真っ暗になっちゃって。そして、気づけば一面火の海で…。熱くて怖くて、何が起きているのか解らなくて。逃げ惑う人の波に飲まれてしまわないように、二人でしっかり手を繋いでた。そうしたら黒いバッジをつけた軍服の男がやって来て、僕の手を引いて言うんだ。君は此方に来なさい、って。
「いやだ、離せっ、離せー!!」
「行かないで金吾、金吾ー!!」
その男は、僕を脇に抱えて走り出す。繋ぐ手が離れて、とうとう僕とあの子は離ればなれになった。遠ざかるその姿に僕は、声を限りにその名を叫んだ───。



「………っ!!」

目が覚めると其処には、真っ白な天井が広がっていた。

「金吾!気がついてよかったぁ…!」

乱太郎はベッドに横たわる金吾の顔を覗き込み、安堵の息を吐く。
「乱太郎、此処は…?」

「特別救護施設の病室だよ」

身体を起こすと、額に乗せられていたタオルがぱさりと布団の上に落ちた。


「やあ、目が覚めたかい?」

開いた扉の先には、柔らかい笑みを浮かべた一人の男が立っていた。

「あなたは…」

──善法寺伊作、十八歳。救護隊長である彼は、ここ特別救護施設で医療活動を行っている。

「具合はどうだい?大分魘されていたようだけど…」

「え…あっ、はい!お陰さまでよくなりました」

そうは言ったものの、確かに身体はある程度回復したが、あの夢がもやもやと心に蟠りを残していた。


(…あれは、“あの日”の)


「それは良かった、君はもう少し休んでいくといい。乱太郎、後は任せたよ!」

「はいっ!」

伊作はにっこりと微笑み、何かを思い出したようにあっ、と声を漏らす。

「そうだ、お腹が好いただろう!そろそろ左近がお粥を運んでくると思うから…」

丁度その時、部屋の扉が開く。

「伊作先輩お粥できまし…たああぁー!?」

床に落ちていた包帯に足を滑らせ、彼の身体が後ろに傾く。咄嗟に乱太郎がその背中を支えた。

「す…すまん乱太郎!」

──川西左近、十四歳。彼は特別救護施設とあちこちに設けられた簡易救護施設を行ったりきたりしている。簡易救護施設は、ドクタケ軍基地周辺ほど、塹壕に麻の布を敷いただけの不衛生なものであった。

「じゃあ僕は文次郎のところに行ってき……わああぁっ!!?」

外へ一歩踏み出した伊作の姿が消える。

「いっ…伊作先輩!?」

慌てて乱太郎達が駆け寄ると、なんと彼は落とし穴にすっぽりとハマっていた。

泥塗れになった伊作はわなわなと震える。

「きっ…きはちろぉぉー!!」

彼の叫び声に、ひょっこりと一人の少年が壁の向こうから顔を覗かせた。

「はいー?」

見事に穴に落ちている伊作を見て、彼は嬉しそうにVサインをする。

「だぁいせいこう〜」

──綾部喜八郎、十六歳。陸軍が誇る天才トラパーである彼は、戦場に落とし穴や地雷、様々な罠を仕掛けるのを主な仕事としている。

「大成功じゃない!大川軍事基地付近には穴を掘るなって何度も言ってるだろう!?」

伊作は乱太郎達の手を借りてなんとか穴から這い上がり、泥を払う。

「じゃあ改めて!僕は文次郎のところに行ってき……わああぁっ!!?」

運悪くも彼は、一歩踏み出した瞬間、また別の落とし穴に落ちていった。


「おやまぁ」


**********


鍛錬を終えた後が、本当の地獄だった。

「いいか、とにかく食え」

テーブルに所狭しと並べられた食事を前に、訓練生達は動けずにいた。

「どうしたお前ら、さっさと食え!」

散々限界まで走り込んだ後に、食欲などある筈もない。この食事の時間こそ、彼らにとってはこの上ない苦痛だったのだ。──尤も、大川軍に食料が充分にあった頃の話だが。

「頂きます」

きり丸が目の前の肉を手に取り、かじりつく。それを見た飛行兵達も、次々に料理を食べ始めた。

団蔵は近くにあったお握りを一つ手に取るも、一口かじって飲み込むのが精一杯だった。胃は容赦なく食べ物を拒絶する。それでも、力をつける為には食べねばならない。込み上げるものを飲み込み、また新たに胃に押し込む。これも、立派な鍛錬だった。

「………っ!」

団蔵の隣に座っていた庄左ヱ門が突然立ち上がる。

「…っ潮江先輩、便所に行かせて貰えませんか…!」

庄左ヱ門は口元を手で押さえている。元々、彼は少食だった。

「駄目だ、死んでも吐くな」

その要求さえ、文次郎は聞き入れない。それどころか彼は、吐くくらいなら死んでいい、と真面目な顔で言い切った。

「俺たちは通信や整備の連中の分まで食わせてもらってんだ、有り難いと思え。食い物を無駄にする奴は、生きる価値もねぇ」


大川軍は整備救護通信隊員の食料を削り、陸海空軍に回していた。戦闘に携わる兵士に充分な栄養と体力をつけさせる為だ。

(整備…)

文次郎の言葉に団蔵は、兵太夫の手袋から覗く細い腕、体に余る軍服を思い出す。

(ごめんな兵太夫…ありがとう)

団蔵はお握りを両手に掴み、無我夢中で頬張った。

「きり丸…よくそんなに食べられるなぁ」

次々と皿を空にするきり丸の隣で、虎若は目を丸くする。

「まぁ、兵の飯はタダだからな」
「はは、ドケチなお前らしいや」

虎若は苦笑して、何の動物かもわからない肉をまた一口かじる。

(…生きる価値、か)

きり丸はごくりと喉を鳴らし、考える。その言葉だけがどうにも飲み込めず、いつまでも喉奥につかえたままで。


**********


食事の後も追加で走り込みが行われた。全てを終える頃には、辺りはすっかり真っ暗になっていた。

「本日の鍛錬を終了する」

「「ありがとうございました」」

訓練生は次々と地面に倒れ込む。満身創痍、もう限界だった。

「虎若、兵舎に戻…」

そう言いかけた団蔵は、虎若の様子が何処かおかしいことに気づく。

「…虎若?」

彼は、顔を歪めて右手首を押さえていた。

「お前っ、まさかあの時…!」

「…はは、これくらい大丈夫だって!」

「大丈夫じゃない!早く医務室に行こう」

大川軍は、特別救護施設とは別に、飛行場の傍に飛行兵専用の医務室を設けていた。


**********


「手首を痛めたって?」

夜遅い時間だったが、幸いにも医務室には一人の少年がいた。

──三反田数馬、十五歳。彼も左近同様幾つもの救護施設を移動する救護隊員だった。現在は此処、飛行兵専用の医務室に配属されている。

「どれ、見せてみろ」

数馬は虎若の手首を掴み、唸る。
「うーん、とりあえず冷やそう。骨に異常はないみたいだし、大丈夫だろう。念のため、後で伊作先輩にも診て貰うといい」

「はい、すみません」

失礼しました、と声を揃えて虎若と団蔵は医務室を出た。

飛行兵舎へ戻る道の途中、二人の間に会話はなかった。兵舎に辿り着き、それぞれの部屋へ続く廊下で別れる。

…俺のせいだ。きっとあの時、手を貸すなと潮江先輩に強く手首を掴まれた時に、虎若は。

風呂に入る気力も無く、団蔵はそのまま布団に倒れ込む。

…もっと俺が強かったら。
…もっと力があったら。

「駄目だなぁ…俺……」

それでも眠気はやってくる。薄れゆく意識の中、痛々しく赤く腫れた彼の腕だけが、鮮明に脳裏に浮かんだ。


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