06 揶揄うオールドオーキッド
雲行きは怪しかった。が、まさか雨が降りだすなんて思いもしなかったから傘なんて持ってきてもいない。走らなければ全身はびしょ濡れだし、走れば靴が水没して気持ち悪かった。仕事中の母親から頼まれた至急の郵便物を出しにきたはいいが、雷でも鳴り始めたら大事だと足を急かした。
熱を出して寝込んでいる妹を一人置いて出られなくてどうしようかと悩んでいたら、偶然にも『今から会えねえ?』ときた出水からの連絡。休日に誘いの連絡なんて珍しいと驚いている余裕はなく、これ幸いと事情を話して急ぎ家へ来てもらった。ちなみに男を家へ連れ込んだのは初めてで一瞬は戸惑ったけれど、“出水なら”と思ってしまったあたり、恋人としての見込ないのでは? とも思う。
「おねえちゃんでなきゃいやだー」と泣き叫ぶ風邪引きの妹と、事情を把握しきれず戸惑ったままの出水という初会い同士の二人を残して家を出たのは二十分前。あと十分も歩いて走れば家へ着くだろう。二人の心配もまあまあしているが、なにより体が冷えて私まで風邪を引く前に、早くお風呂へ入りたい。
空を見上げれば黒い暗雲は未だに光を通さない。
「おかえり」
「……あ、ただいま」
「あちゃー。すげー濡れてんじゃん」
「雨に降られちゃった」
自分の家なのに、出水に「おかえり」と言われるのは可笑しかった。妹は泣き疲れて眠ってしまったらしい。あやすためにボーダーの話や写真を見せたのだと出水の話を聞きながら、苦労をかけたなと心の中で深く謝罪する。すぐそこのお風呂場からバスタオルを取ってもらい、ひとまず体を拭きながら部屋へ入った。
「なまえを見送ったあと思ったんだけど、おれが行けばよかったよな」
「ううん。わざわざ来てくれた出水を雨に濡らすことにならなくて良かったよ」
それでなくても聞けば夜勤明けだったというのに。今日はまた夕方にはボーダーへ戻るらしい。週末だからってずっとフリーなわけではない彼らを可哀想だなぁと思う。それならせめて夕方までは家でのんびり休めばいいのに、わざわざ私を誘うなんて。
そういえばなんの用があって私を誘ったのだろうか? 未だ用件らしい用件は聞いてないし、家に来てもらった時もろくに話もせず慌てて飛び出たことを思いだす。
「今日はどうしたの?」
「シュークリーム買ってきてさ。勝手に冷蔵庫入れといた」
「え? ありがとう?」
「柚宇さんが――えっと、一個上の、ボーダーで同じ隊の先輩が、どうしても食べたいからって任務のあと荷物持ちとして付き合わされたんだよ」
「そうなんだ。恩恵に預かれて嬉しいけど、いいの?」
「……なまえが好きだから、付いてったんだよ」
小さくなる語尾に沿って頬を染める。そんなに照れるなら言わなきゃいいのに。そんな風にわざわざ好きと伝えてくれる出水のことを不思議と面倒くさいとは思わない自分がいる。どちらかといえば、可愛いなと思っちゃう程度。
シュークリームを買いに行って私を思い起こしてくれたのに、泣きわめく子どもと留守番させられるなんて出水にとっては災難だったに違いない。留守番してくれて助かったよありがとうと笑うと、もう少し居るから風呂に入って着替えろと赤い顔で促されたからありがたくそうさせてもらった。
シャワーを長めに浴びて髪もしっかり乾かしてからリビングへ戻ると、出水はソファーに座ったまま眠ってしまっているではないか。夜勤明けと言っていたから、疲れていて当然。自室から毛布を持ってきてそっと体へかけておく。
せっかく彼女の家へ来たというのに、眠ってしまえば何もできないから出水としては本末転倒だろうに。それともそこまで狡猾な人間ではないのかもしれない。短い付き合いではあるけれど、なんとなく出水公平とはそういう人間な気がする。――そうであって欲しい、と出水の寝顔を見ながら思う。
ここで二人きりだからと押し倒されでもしたらあっという間に終わりは来る。そんな展開を私は望んでいない。
……終わってもいいのに?
自分の中にふと浮かぶ矛盾。彼氏なんて終わりに向かう関係だと冷めた感情で思っている私と、出水との微温湯の様な関係が心地いいと思っている私。
そもそも付き合うこと自体、私にとっては友達の女子に対する体裁にすぎない。本音は彼氏なんてものに興味ない。感情のないキスと痛みに耐えるだけのセックスと嘘くさい言葉のやり取りと。そんなことにいつまでも我慢できないし、少しだけ付き合ったらさっさと縁を切るほうがいい。彼氏なんてその程度の存在。
そんな風にしか考えられない私と“付き合っている”出水はかわいそうだね。
「無害そう」
出水の顔を見ながらぽつりとそんなことを呟いていた。無防備すぎる寝顔。本当にボーダーのA級一位なのだろうか。口がちょっと開いているし、睫毛は長いし、肌も綺麗だし。普通こういうのって男側が堪能するもんじゃないの?
静まり返った家の中。妹もぐっすり眠っている。しんと静まり返った部屋で、呑気に口開けて寝ている“彼氏”の顔をじっくり見て、笑いが込み上げていた。
「いーずみ。寝てる?」
かけた声に返事はない。単調な呼吸にも変化はない。
「キスしたいんだけどなぁ」
キスをした後と同じくらい近い距離でじっと反応を待って見ても、起きる気配も動き出す様子もない。開かない瞼を見て、私はどう思っているのだろう。
出水の唇が柔らかいことを私は知っている。少しだけ開いた距離が視線を結んで、出水は恥ずかしそうに笑うから私も笑みを返す。もう一度触れるだけのキスをして、溢れんばかりの思いで抱きしめてくれる。出水はよっぽど私のこと好きなんだろうなぁって、キスされるたびに思う。
私も好きになれたらいいのにね。
「なーんてね」
二時間くらいして「うわ、やべっ!」と慌てた声がソファーから聞こえた。座っていたはずが、気が付けば横になって眠っていた。勢いよく体勢を起こし周囲を確認している様子がキッチンから見える。
「起こしたほうが良かった? 夕方って言ってたからまだ時間大丈夫かと思って」
「え、あ、ああ。そっちはべつに遅れてもいいんだけど」
時計の針は十六時を指している。そろそろ起こそうかとは思っていたが、気持ちよく眠っている出水を無理矢理起こすのは忍びなかったのだもの。
手櫛で髪を整えながらこちらへやってきて「せっかくなまえんちに来たのに……」と口を尖らせている。
「まだ時間ある?」
「まあ大丈夫だけど。どうかしたか? また用事?」
「妹見ててくれたのとシュークリームのお礼に、大したものじゃないけどお味噌汁とおにぎり作っておいたの。良かったら食べて行かないかなぁと思って」
「食べる! マジか!」
本当に大したものではないし、そんなことで瞳を輝かせて喜んでくれる出水は哀れなほど良いやつ。良いやつ過ぎて私の胸が痛みはじめてくる。心の中では何度だってごめんねと呟いて、どうか傷つかないでと酷い願いを神様に祈った。
―ごちそうさまのあと―
「なまえの部屋って妹と一緒なんだな」
「うん。母さんが夜いない日は、妹が一人で寝るの怖がるから」
「でも二人部屋ってしんどくね?」
「ううん。妹はいい子だし、普段はリビングで過ごすことのほうが多いし」
「へぇー」
「ふふ、出水みたいに部屋でやましいことしないから」
「ち、ちげぇよ! やましいことなんてっ……!」
「いずみのえっち〜」
―本部にて眠れる太刀川を起こす―
「はぁ!? みょうじんち行って寝てきた!?」
「ッバ! この、槍バカ声でけぇよ!! 太刀川さん起きんだろ!!」
「オレとの約束すっぽかしてみょうじんちに半日いたんだろ?」
「いた」
「都合よく親はいなくて、妹も風邪で寝込んでて」
「おう」
「みょうじはラフな普段着で」
「お、おう」
「お前は寝てたと」
「うっせーなぁ! 夜勤明けだったんだよ!」
「いやー引くわー……オレ夜勤明けでも三回はシて寝る自信あるわ」
「お前と一緒にすんな!」
「……おい、出水うるせーぞ」