06 Missing
私はいつも勇のそばにいて温もりを分けてもらっていたから、今思えば向こうが暑かったのか寒かったのか気にする必要もなかった。こんなこと考えたところで、確かめに行くこともできやしないけれど。
泣こうと思えば多分泣けると思う。でも、どんな嫌なことや辛いことがあっても簡単に泣くわけにはいかなくなってしまった。本意不本意は別にしても、勇を頼りにしてばかりいると本当に私はダメ社会人になってしまいそうだと心のどこかで思っている。
生きていれば泣きたいほどの嫌なことの一つや二つそこら中にあるのだから、些細なことで挫けていてもしかたない。
「みょうじ! お前は何をやってたんだ!」
「すみません」
一つ目のミスは自分に非があった。私の書類作成ミス。そこそこ重要な会議での資料であったために、さすがにこの失態はまずかった。ぼんやり仕事していたつもりはないが、印刷の途中で他の資料が混ざってしまったらしく、数部ほど乱丁してしまっていた。でもそれは私の確認不足が引き起こしたことだからまだしかたない。
しかしそんな日に限って、一つ下の後輩のミスまでもが発覚。一緒に呼ばれた私は指導がなっていないと、先程の件も重なって熱の冷め切らない上司からの叱責。
極め付けは苦手な営業部の男性による揶揄い。上司に呼ばれた理由をどこからか聴きつけた男は、「こんなこともできないのかよ〜」という馬鹿にした発言。歯向かうこともできずに「すみません」と頭を下げるしかなかったわけで。
「……つかれた」
お弁当箱に付けていたアイスノンをハンカチで巻き、目元へ置いた。瞼に溜まる熱を吸収してくれる。化粧が崩れるとか気にしている場合ではない。悪いことは重なるし、この程度で済んだことをむしろ喜ぼう。
だって私は何も職を失ったわけでも、ましてや命を取られたわけじゃない。
「みょうじさん、お疲れだね」
「あ、ごめんなさい。みっともないところを」
やってきたのは隣のシステム開発部の課長だった。たまたまパソコンのシステムが上手く起動しなくなったところを助けてもらってからは、顔を見れば挨拶したり談笑する間柄。三十路前の男性。仕事ができて温和で整った顔をしていて、部下だけでなく他部署の人からも信頼も羨望もある。
ちなみにさっき上司に叱責されていたところを彼にはバッチリ見られていた。
「みょうじさんらしくないミスだったね。どうしたの?」
「別に。特に何かあったわけじゃないんです」
“何か”はたくさんあったけれど、人に説明できることは一つもない。異世界だか異次元だかにトリップしてちょっとそこの男の子と触れ合ったら、言葉にできない胸の震えがあっただけ。自分の世界では考えられない出来事に、憐憫と興味がそそられた。
普段はやる気なさそうに生きているというのに、命のやり取りへは真剣さを垣間見せた彼の姿は、映像で見ただけなのに目へ焼きつき、あの手の温もりは同時に命の尊さを思う。私はそんな彼の安心させるような鼓動を聴きながらいつもこちらへ戻ってきていたのだと今になって考えると、胸の中がなんとももどかしくてたまらない。
自分の世界では考えられないそれらに、私は興奮しただけ。生半可な気持ちの私がいるべき世界ではないことは明白で、また会いたいなんて気軽な気持ちを抱いてはいけない世界。
失恋したぐらいで彼に甘えていた私を今すぐだれか殴って欲しい。
「特に何かあった、って言ってるようなものだけどな。そう顔に書いてあるし」
「あはは、そこはそっとしといてくださいよ〜」
「こんなにいい子を放ってはおけないんだけどなぁ」
課長は手に顎を乗せ呆れたように片眉あげて笑う。いい子なんて子どもっぽい評価だけれど、優しさに笑みを返す。
「もし私が機器に詳しい人間だったら、課長の部下になりたかったな〜。今から勉強しましょうかね?」
「ばーか」
可笑しそうに表情を綻ばせた課長とその後も仕事の事や雑談をしながら昼食を食べ午後の始業を迎える。
午後も頑張ろうと気合を入れた時に、ふと気付くかさついた唇。ご飯を食べてからリップを塗り直してなかった。
急いでカバンを漁ると、昨日ドラッグストアで衝動買いした色付きリップクリームが出てくるではないか。開けてみれば思っていたより紅色。
「……キス、してるみたい」
呟いてしまった後に、バカみたいな考えだと思考を片隅へ追いやっても、心だけでなく唇まで潤してくれるのか、なんてくだらないことを想って笑ってしまう。
窓の外を見ればどんよりとした寒空が広がっていた。さすがに今日みたいな日はあの校舎裏でサボってはいないだろうなあ。温かいストーブの近くにいる勇の姿を思い浮かべながら、赤い唇を塗り合わせた。
『なまえはこんなにもいい女なのにもったいねーなー』
穏やかな彼の声は今でも耳に残っている。
いい女だって。まだ高校生の分際で何を言っているのよ。
けれど、ほんの少し素直になるなら、失恋後初めていいなと思える男だったことは認めよう。しかし彼は高校生で、ボーダーという組織で命かけて世界を守っているような男で。もう会わないと勝手に私が決めた。
「みょうじさん」
仕事に気持ちを傾けようと思っていた矢先にかかる声。呼んだ人を確認しようと振り向けば、先程の課長が出入口に立っていた。
「これ、さっき落としていった。そそっかしいの気を付けろよ」
「すみません。ありがとうございます」
爽やかな笑みをセットに手渡されたのはさっき目元へ当てていたハンカチ。受け取り彼を見送ってから気付いたことだが、手渡されたそれには付箋紙が一枚付いている。
付箋紙には『今度飲みに行こう』と綺麗な字で書かれていた。そういえば課長とは個人的に飲みに行ったことはなかったかもしれない。
「わっ、先輩これって開発部の課長さんからもらったんですか?あの人かっこよくてうちの部でも人気ですよね〜」
「……覗き良くない」
睨んだところでニヤけた顔を向ける後輩。きっと「そんなんじゃない」と否定したところで効果はないから、仕事に戻るよう促した。
付箋紙に再び視線をやると淡い色合いで胸が鳴る。
そうだな。もう泣くだけ泣いたし、人生はまだ長い。覚えておくとしても記憶に蓋をするためには……また恋とかしようかなー、なんてね。
◇◇◇
指先に乗る一センチ程度の黒い物体は、これでも機械。音が鳴るわけでもない光を放つわけでもない。攻撃性もなければ防御性もない。ちょっと手元が狂えば落として失くしてしまいそうなのに、俺はもうこれを三ヶ月は大事に肌身離さず持っている。
「当真、またあの人のことを想っているのか?」
「辛いだろうな。思い人が近界民だなんて」
「一回ヤった女を忘れられねーってことは、よっぽど良かったのか?」
「「カゲ、下世話」」
C組の奴らは呑気でイイネ。こっちはンな余裕ねえっつーのに。良かったか良くなかったでいえば、間違いなく良かっただけどな。言わない。
昼休み使ってそんなくだらねーこと話てんじゃねーやい。黙って飯食ってろ。
お気に入りのあの場所も今は寒くてとても居れたもんじゃない。だからお気に入りの場所が見える、化学室が今は俺たちの昼の居場所。今日は午後も授業があるらしく点けたままのストーブがありがたい。外へ繋がる窓を開ければ、「寒いだろ!」と神経質な男からの苦情。へいへい。
一歩踏み出した世界は薄曇りの空。雪は降らなくても外に出れば白い息が口から出て行く。
この場所はあの日と同じで何も変わっていない。だから、俺の胸へ額を預けていた女の姿も体温も泣き笑った表情も、まるで昨日の事のように思い描けてしまう。思い描けてしまうのに、それは白い息のように霧散してすぐに消えていく。
なまえがこちらへ来なくなって半年が過ぎる。
東さんと隊長が、いつの間にか小型GPSなるものを開発していて、次なまえが来た時はこっそり取りつけるように言われている。悪い意味っていうより、なまえの体質そのものに興味があるのだとかなんだかとか言っていた。危害を加えるって言うなら嫌だと一度は断った。
でも居場所がわかるっつーのは、魅力的で。それは、会えないって、思えば思うほど。