03 Introduction
「お、カゲいい趣味してるね〜」
「そりゃ荒船から借りたやつだ」
「当真、また昼飯食べないのか?」
又貸しされたエロ本を広げて目を通している俺へ、鋼が唐揚げを差し出してくるのに対し首を横へ振る。低燃費な俺からしたらお前ら食いすぎだから。穂刈なんて焼きそばパン食う前に特大の弁当食ってたよな? どこに消えてんだ?
荒船から借りたというエロ本は表紙を数枚捲ると『先輩が指導してあ・げ・る』という謳い文句で、やたらと丈の短いスカートを履いたスーツ姿の女が男へと跨っている。思わず目に留まった。
約ひと月前に味わったこれと似たような状況、今思えばもっと堪能するべきだったじゃねーか。でも誰だって突然寝込みを襲われ、まさか本当にそのまま食われることになるなんて思わねえだろ。酔った表情で、スカートの裾を持ち上げた女に「触って?」とまで言われた童貞の出来ることなんてたかが知れてる。
「あ、そうだ。俺、童貞卒業したわ。悪ぃなカゲ。賭けは俺の勝ちっつーことで」
「「「は?!」」」
鋼、せめて口の中のものがなくなってからにしろ。米粒が飛んできたじゃねーかよ。
どっちが先に童貞とおさらばするかと賭けたのは一年ぐらい前。お互いにこの成りのせいで未だまともな彼女さえできたことがないから、突然の童貞卒業発表はそりゃ面食らうよなー。俺もびっくりしたんだわ。マジで。
「お、おま!? いつの間に女ができたんだよ!!」
「紹介してもらってないな、俺たち」
「俺たちも知ってる人か? どんな人なんだ?」
三人それぞれが質問を浴びせてくるが、答えられもしなければ紹介もできない。適当なこと言ってんじゃねぇぞと胸倉掴むカゲに困ったなと空を仰ぎ見た。ぽたりと落ちてくる滴が頬へあたる。
「あ? 雨か?」
「てめ、気逸らそうとしてんじゃねえぞ。吐くまで……」
雨は唸るカゲの上へも落ちてきた。さすがに二人で視線を上げると、そこには驚くほど見慣れたものが。
カゲは瞬時に俺から距離を取り、恐らくズボンのポケットへ手を突っ込む。なのに俺はどうしてかこの雨の正体へ手を伸ばした。空中にふわりと現れ、重力など感じさせない速度で俺のもとへ落ちてくる。
「ありゃ、まーた来ちゃったの?」
「っへ、あれ……い、さっ……!?」
どういうタイミングなのか途端に重力を得た女の体。受け止めきれずに後ろへ倒れ込んで、こうして俺は毎度潰されてんのかと身をもって体感する。
前回のパジャマ姿とは違い、最初に会った時のように今日も小洒落たスーツを着こなしてはいるが、エロ本さながらのスカート丈ではないのが残念。
「と、当真ッ?!」
「あー、大丈夫。この人がさっき言ってた人」
とは紹介できても、両手で顔を押えているからすぐには泣き止めないのだろう。泣き止めたところで、化粧は崩れて酷い顔をしているに違いない。てか三回のうち二回は泣いてる顔見てんだけど。何をそんなに泣くことがあるんだ?
せめて三人の警戒だけは解いてもらうべく、女を脚の上へ乗せたまま起き上がった。
「まって、まって……いさみ、おねがい、ちょっとだけ」
目元を擦り手に持っていたハンカチで鼻をかむ。必死に自分を落ち着かせようとしているらしい。
「待ってやりてーけどよ、今、命の危機かもよ?」
「へ……!?」
俺の視線を追い、対峙した警戒状態でトリガーを握っているカゲたちをチラリと見ると、何を思ったのか女は再び涙を拭ったあと俺を庇うようにして前で両手を広げた。
「や、やめなさい! イジメなんてカッコ悪いわよ!」
え。
俺イジメられてんの?
一瞬ポカンとした空気が流れ、途端にカゲたちが吹き出し「なに言ってんだこいつ」と笑う。
……マジ勘弁してくれよ。なんのギャグかましてんのこの人。一人わかってない様子で「え?」とあちらとこちらを交互に見やる。
「カゲ、この人は大丈夫そうだぞ」
「わかんねーだろ」
「本気で披露できる人いないぞ、これだけの渾身のボケ」
「やっべなんか俺まで恥ずかしーじゃねーかよー!」
頭を抱えた俺を見て「どういう状況!?」と今さら確認するとか遅えから。いや、そのボケである意味助かったよーなもんだけどよ。
トリガー起動されてたら間違いなくカゲのマンティスがその身を……って生身だから気絶するだけか。
未だ混乱するなまえの前に穂刈が覗き込む。
「落ちてきたぞ、ゲートから。近界民なのか?」
「やっぱりそう思う? でも、どっちかつーと実態のある幽霊って感じなんだけどな」
カゲの何言ってんだこいつという視線はSEでなくても刺さる。今までは気付かなかったが、なまえが落ちてくる瞬間、近界民がこちらへ来る時に開く黒いワープゲートが見えた。しかし、近界のゲートであればボーダーによる座標誘導が行われるはずなのに、それを掻い潜ってきているっつーわけで。
よくわかんねーが、本人にも敵意がないし初めて会った時には換装体へも驚いているように思えた。俺が怪しいと警戒しない理由はあるが、ボーダーからしたら怪しさ満載だよな。
「……ね、い、ばー?」
普通の人間です怪しくないです、と主張したところで怪しさしかねーもんだから、必然的に説明しろという視線は俺へ向く。説明するのは……色々面倒くさい。
「この人は、ある日突然降ってくるようになった幽霊で、酔っぱらって俺の童貞掻っ攫っちまった人」
「勇!? 語弊!! それ語弊しかないから!!」
間違ったことは言ってねーじゃん。
すっかり困惑状態のカゲたちに年上のなまえが半泣きで、自分はなぜか時々俺のところへ飛ばされて突然帰っているだけなのだと懇切説明してる姿はなんとも滑稽で面白い。説明したところで鋼の頭にハテナしか浮かんでねえし、カゲも穂刈も頭を抱えている。
「つまり当真は童貞を捧げたということだ、近界民に」
「ねいばーってなに?」
「近界民なのに知らないのか?」
鋼と穂刈から近界と玄界についての説明を受けているが、なまえの頭へもハテナが浮かんでいる。トリオンもトリガーもトリオン兵もこの女には全く馴染みのない言葉らしい。
鋼たちの話は混乱するなまえを置いてけぼりにし、玉狛へ連れて行くか忍田さんに相談するかという話にまで飛躍している。
不安そうに見上げてくる女の顔はやはり赤く腫れた目元の化粧が崩れていた。なんとも情けねー顔してやんの。
「んなに焦んなくても、なまえはそのうちまた勝手に元の世界へ戻るから死にゃしねーよ。それよかお前ら早く授業行けよ」
「でもまた大規模侵攻のようなことになったら」
「おー。そうならねえように俺が見張っとくわ」
真面目な鋼がカゲと穂刈を引っ張って渋々「また後で来る」と教室へ戻ってくれて助かったわ。
「ごめん」
「珍しくしおらしーじゃないのー」
日陰ではあっても朗らかな気温と少し冷えた風が心地がいい。なまえには肌寒いのか、俺の隣で壁に背をつけスカートごと膝を抱える。
眉間に皺寄せた女はしばらく黙っていたくせに、やたらと真面目くさった声で「私のこと警察とか、その、ぼーだーとかいうところに連れてくの?」とか「殺されちゃうの?」とか、わっけのわかんねーことを言い始めるからもう一度俺の脚の間に収まるよう引き寄せた。
「殺されても良い覚悟があんなら、俺ともう一回シようぜ」
額に、耳に、鼻に、涙の痕が残る頬に唇を寄せる。てっきりまた「バカ」といって抵抗してくるのかと思ったのに、その頬にまた涙が降り始める。顔を歪めるどころか瞬きもせず遠くを見つめたまま。
「ハァ……頼むから泣くなよ」
鬱陶しいとかそういうのじゃない。この女が何をそんなにも想って泣いているのか気になった。
柔らかな髪に指を通して頭を引き寄せると、またも抵抗なく人の胸へ頭を預けて、ぽつりと語り始めるちっぽけな恋愛劇。長く付き合ってマンネリ化したところで浮気されて、テレビドラマでよく見るよーな話。街中で仲睦まじいフラれた彼氏と浮気相手の女の姿を見てしまったのには同情するけどよ。さっさと忘れてしまえば良いのに、泣くほど未だにクソ男を思ってるなんて、自分の中でイマイチ実感の湧かない話だった。
浮気されて悔しいのかと思えば、
「あんな風にあいつが笑ったのを見たことがなかった。私といても本当はずっとつまらなかったのかもね」
と自分の反省さえ始めてしまっている。
バカだなぁ。相手の男はそこまで考えてないよきっと。どうであっても浮気は浮気なんだから相手の女の前で一発殴ってやりゃーいいのに。しねーよなー。多分俺もそんな面倒なことしない。
「なまえはこんなにもいい女なのにもったいねーなー」
二人分の体温で熱くなった体をコンクリートの壁に凭れることで、熱は逃げていく。
「ん、ありがとう、勇」
なまえは柔らかに笑った。話したことで多少はスッキリしたのだろう。
俺はこの女のことをなんにも知らない。この女も俺のことを知らない。ありえない出会い方だったのに、おかしな話だが、俺はすでにこの女の存在が心地良くも感じる。きっと女もそう思っているから、心を許すみたいに俺へ凭れているのだろう。
……体を許すと心も許しちゃうなんて、童貞だった男の心理ってコワイ。
まだぼんやりとしている女の後頭部の髪へ指で梳く。
「勇、今さらだけど授業は?」
「高校生に慰められてるダメな社会人が突然正論持ち出すなよ……。今日は怪しい幽霊の見張り」
吹き出すように笑ったその表情は恐らく素のやつ。なまえの元カレっつー男は、逆にこいつのこんな顔を見たことがあるんだろうか。
ぎゅっと胸へ圧迫を感じたかと思えば、なまえに抱きしめられている状況。
「次来るときはお財布くらい持ってくるね。ダメ社会人は優しい高校生にご飯くらい奢るから」
「別にいらねーよ」
そんなのはいらないから、もっと俺を満たしてくれるもんちょうだいよ。体温の高いダメ社会人を抱きしめ返しながら、何をねだろうか思案する。
「そうだひとまず膝枕……って、いねーし」
空っぽになってしまった腕の中。引き寄せたところですでに空を抱きしめるだけ。