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花嫁は修業した
「かーずや」

カタカタと響くキーボードのタップ音。
ブラインドタッチってやつですか。
Fキーの使い方も、ショートカットキーも手慣れてますね。
随分と速いスピードで打ち込まれているけれど、この人数年前までは携帯さえまともに使いこなせないアナログ人間だったんですよ。

「なに」

疑問符も付かないその返事は、今は話しかけないでの合図。
帰ってきてから着替えもせず夕飯も食べずにずっとパソコンと向き合っているから、今更こちらへ視線は向くはずもない。
溜息吐きたくても、彼がこんな風に仕事してくれているから、私は家で働きもせずのんびりと暮らしていられるのだと思うとそれも呑み込んだ。



結婚する前までは、私も普通の会社員としてバリバリ働いていた。
同棲し始めた頃、たまの平日休みにご飯を作ってあげた時。

「…そういえば、人にご飯作ってもらったの久しぶりかも」

二人でご飯を食べながら、今頃そんなことを言う一也。
普段は外食がほとんどで、会うにしてもお互いご飯を済ませてからどちらかの家に泊まりに行き、次の日はブランチに出かけていた。
極稀に、インスタントラーメンにお湯を注いであげたこともないけど…。
だから手料理的なことは確かに今までしたことはなく、思えばこの日のご飯がおおよそ初めてに近い。
それに一也はすごく料理上手で、料理なんてほとんどしたことがないような私が適うはずもないから、無駄な挑戦はしなかった。

「そうなの?」

「うん。美味しい」

そういって笑った一也は本当に嬉しそうだったから、もっとたまにはご飯作ってあげようと素直に思った。
それに一也もそうして欲しかったみたいで、プロポーズの時に家庭に入って欲しいと一也のほうから懇願されたくらい。



一也と結婚してもうすぐ一年。
良い夫婦の日の結婚記念日よりも先に、明後日の金曜には一也の誕生日がやってくる。
欲しいもの聞きたかったのに、とてもそんな雰囲気じゃなく、それどころか、ここ最近ろくにまともな会話さえできたかどうか…。
触れあった記憶さえ曖昧で、これならまだ働いていたほうが気が紛れるような気がする。
やっぱり溜息は漏れた。

「ううん、ごめん。いつもお仕事頑張ってくれて、ありがとう。夕飯、ラップして置いておくから温めて食べてね」

返事の代わりにタップ音。
いつものこと、とか、しょうがない、って言葉で自分を誤魔化す。

「おやすみ、一也」

「ん」

リビングに彼を残して、寝室の扉を閉めた。

明日の朝ご飯は鮭を焼こう。
お弁当には一也の嫌いな甘い卵焼きを入れよう。
夕飯は野菜ばっかりの甘口カレーにしてやる。

うん、そう思えば少しだけすっきりとするような気がして、この涙も止まるような気がした。

「なんで泣いてんだろ…」

仕事に集中しているからきっとバレないとは思うけど、静かに涙を拭った。
マイナス思考に陥る前に寝てしまおうとダブルベッドの布団にもぐりこんで、一也がいつも寝る方に背を向けた。

「……」

でも、すぐに一也側を向いて、彼の枕に擦り寄るように目を閉じた。
洗濯したばかりの枕カバーだけど少しだけ一也の匂いがして安心するなぁ…もう。







−−−

ふと視線を上げれば、時計の針は日付を超えていた。
しまった…!
そう思った時にはすでに遅くて、リビングにもキッチンにもその姿はない。
寝室も電気が消えている。

「あ゛ー…なまえー…」

俺、帰ってからどんな反応したっけ?
覚えてないってことは、きっとろくな反応返してないよな…。

今週末までにはなんとか暇を作りたくて、月の初めぐらいからずっと急ぎ片付けている仕事の案件。
これが思ったようにはいかなくて、持ち帰ってまで残業。
集中力は並みじゃないとは思っていたけれど、大事な奥さんほったらかしにしてしまうほどとは、今頃気付く。

ダイニングテーブルの上には、夕飯に作られたサラダ、魚のソテー、小鉢に煮物が入って置かれているどころか、まさかの

“お味噌汁はお鍋に入っているから温めてね。お疲れ様”

とまで書かれたメモが置いてあった。
なまえが料理を始めてからもうすぐ一年になるけれど、本当に上達したと思う。
いつも美味しいし、健康を考えてくれてんのかヘルシーで彩が良いものばかりが食卓に並んでいる。

「お前と飯食いたくて結婚したのにな…」

本末転倒とはまさにこのこと。
漏れた溜息は後悔の音。


寝室の扉を静かに開けば、月明かりで薄らと見える彼女の寝顔。
肌蹴てる布団を直そうと近づけば、頬に涙の跡。
込み上げる罪悪感に心の中で何度も謝罪した。
しかもよく見れば、自分の枕からは降りて俺の枕に擦り寄って寝ている。

(はぁぁぁ…可愛すぎかよ)

思わずうなだれてしまってベッドが深く沈む。
癒しだな。
俺の奥さん癒しの存在。


「…ん……かずや?」


「あ、わりぃ起こした?」

重そうな瞼を瞬かせているが、そうか重いのは泣いたから瞼腫れてんのか。

「ごめんな、なまえ」

そう言うと、何が?とでも言いたげにきょとんとした顔をするから、指の背で涙の跡をなぞった。

「週末は二人で出かけような?」

返事の代わりに優しく笑って頷いてくれる。
出来が良すぎて困りもんだな。
怒って文句言ったって良いのに、黙って俺を見守ってくれている。
おやすみ、とおでこに一つキスを落として立ち上がれば、クイっとワイシャツの袖を引かれる。


「かずや……もっかい、して?」


恥ずかしそうに、少し口を尖らせたなまえ。
今そんなこと言っちゃうなんて、卑怯すぎる。

っちゅ、とリップ音を立ててその柔らかな唇にキスをする。

「一回で良いの?」

彼女の顔の近くに両手を突いて囲う。
ああ、本当は一回じゃ足りないのは俺の方。
だから返事なんて聞かずに、何度も啄んだ。
眠そうななまえに申し訳ねぇけど、やっべ…とまんねぇかも。
そう思った時には、すでに彼女の口内を舌で犯していて、口の端からこぼれた唾液を伝って首元に吸い付いた時だった。

「かっ、かずやぁ!」

慌てたなまえに掴まれ、胸のポケットに突っ込んでたネクタイが垂れ落ちる。
自分は仕事着のスーツのままで、なまえは可愛い寝巻き姿で。
そのギャップがまた駆り立てる、色々と。

覚醒して恥ずかしそうに視線を惑わすその顔が愛おしくて、頬を撫でた。


「ごめんな、なまえ。いつもありがとう」


たまらなく愛おしく、大切で、抱きしめたままこの腕の中に永遠に閉じ込めておきたいと強欲に思わせる。

「あー俺もこのまま寝ちゃおうかなー…」

ごろりと彼女の横に転がれば、伸びてきた手に眼鏡を奪われ抱きついて擦り寄られる。
冗談で言ったつもりなんですケド?
目を閉じたなまえはすぐに寝落ちるだろう。

「子守唄でも歌おうか?」

「いらない」

クスクス笑った彼女の背をポンポンとあやすように優しく叩けば、安定した寝息。

「おやすみ」

起こさないように、ゆっくりとベッドから抜け出た。
朝セットした前髪が顔にかかって鬱陶しくてかき上げる。
先に風呂入って、飯食って、俺も早く寝よう。
プロ野球の試合結果の確認は明日にまわして。
なまえを抱きしめて寝て、明日の朝は一緒に目玉焼きでも焼いて、それから一緒に朝飯食おう。




「っずや!一也!」

慌ただしく呼ぶ声で、途端に覚醒する。
え…さっき寝たよな、俺…?

「一也、遅刻するよ!」

遅刻?
薄っすら目を開ければ寝室の壁に掛かった時計が視界に入る。
七時四十五分。
いつも八時に家を出るために七時には起きるから、はっきり言って大寝坊。


「うっわ!まじ?!」


慌てて飛び起きれば、全てが整った状態。
今日着ていくシャツやスーツ、靴下まで用意され、お弁当におにぎりが添えられていた。
これなら十五分で充分に用意できる。

「ごめんね、ギリギリまで起こさなくて…。疲れてるかと思って」

次々とタイミングよく服を渡してくれるものだからすぐに着替え終わり、適当に髪を整え歯磨きをすれば五分は余裕があった。

「あのねー、なまえ…」

少し呆れを含んで、諭すように口を開く。

そんなできた妻じゃなくて良い?
わがまま言ってくれても良い?
もっと俺を求めてよ?

言いたかったことはなんだっただろう。
彼女が申し訳なさそうに、上目遣いでこちらを見ているもんだから、そんなの全部言えなくなって。



「あーもうー! 好き」



そう言って、抱きしめるしかできねーじゃん。
誕生日には目一杯のなまえをオネダリしよう。




2017/11/17 御幸B.D.


AofD short [ 花嫁は修業した ]