冷たいキスでいいから
最後の撮影はなんとウィーン。
一流指揮者になるため齢17にして音楽の聖地へ武者修業へ来たオレ(東城)を、追いかけてやってきた天才バイオリン奏者のあや(宮古)が、街中で運命的な再開をするシーン。それがこの映画の最後を飾る。
『東城くん!』
優雅な噴水の水音や売り込みの人の声が響く街中を焼きたてのパン片手にして歩いていた時。
そこで、数ヶ月前まで毎日のように聞いていた強情で意地っ張りな彼女の声が聞こえた。まさか、と思った。だって彼女とは日本で別れてきた。
オレはおそるおそる、身体ごと振り向く。
『あ……』
ゴトリ、とまだ温かさが残るパンが落ちて地面に散らばる。代わりに腕の中には、焦がしたキャラメル色が埋まった。
『私、やっぱり貴方の側にいたいの!』
『──っ』
ガバッ、と勢い良く頭を上げたあや。これは台本とは違っていた。本来ならここで、宮古はゆっくり顔を上げ微笑み、オレが再度強く抱き締める…はずだった。
これは台本と違う。監督からストップの声がかかるだろうと思いほんの少しだけ、あやを見つめたまま待つ。しかしカメラは回ったままだ。このまま続けろということか。
『オレもだよ…オレも、あんたの居ない生活がどれだけ辛かったか……』
アドリブで台詞を足しながらどうにか繋ぐ。オレを見上げるあやの目にだんだんと涙が溜まっていくのが見えた。
そうだよな。辛いよな。
オレたちはお互いに好きとか、伝えあったことはなかったけれど、確かにこの2ヶ月の間には切っても切れぬ絆ができた。はじめは社長によって仕組まれたことだったから乗り気じゃなかった。だけど今は違う。オレたちは自分の意志で、まだ隣に居たいと思ってるのだ。
たとえそれが叶わない事でも。
『だから、もう何処にも行かないでくれ宮古』
『…東城くん』
震えた声であやがオレの"役"の名を呼び、ぶわりと涙が溢れ頬を伝った。カメラマンが慌てたように撮る位置を変える。
"役"であるから言えることがある。それは実際に口に出してはいけない事。だって、オレたちの立場がそうさせてくれない。
『私たち、同じね』
涙でくしゃくしゃになった笑みであやが言った。宮古という役を通じて"オレ"に。
彼女の告白にどうにか答えようと、その震える唇を指でそっとなぞり、顎を持ち上げた。
『──ん』
身長差を埋めるため少し屈んだ。彼女が目を瞑ったのを確認してから、自分も同じようにする。ゼロ距離のあやの唇は塩っぱいピーチ味だった。よくレモン味に例えられるけど、普通にリップの味だ。
キスしていたのは、時間にしてどのくらいであったかは分からない。何分もそうしていたような感覚もあれば、ほんの一瞬だったようにも感じる。なんにせよ、監督の「カット」という言葉で我に返った。
「ご、こめん!」
ああ自分は何してるのだろう。あやは困った顔してオレを見てるし、監督たちは皆口を中途半端に上げてこちらを見つめてる。もうどうしたらいいか分からなくなって、オレはあやと数歩距離を取ったのち踵を反して勝手の分からないウィーンの街をひたすら走った。
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小一時間、街を歩き回ったオレが撮影場所に戻ると、みんないつも通り作業をしていた。さっきの出来事はまるで無かったかのように。あやも、会話どころか一度もオレと目を合わせることがなかった。
…なんていうクランクアップだ。
∴冷たいキスでいいから
彼女とオレの思い出が欲しかった
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