偽物の恋がはじまった
「黄瀬君、ちょっと…」
そうマネージャーに言われてやってきたのはオレの所属事務所の社長室。そこには真剣な顔の社長が待ち構えていた。
「あの……なんスか?」
ここに呼び出されるような失敗もスキャンダルも今のところは無いはず。たしかに、最近は地区大会に向けてバスケの方に集中してたから仕事はあんまりしてなかったけど……それも社長は了承済みだった。
何だろう。社長の真剣な表情がただ恐かった。
「あたに仕事が入ったわ。映画の主演だそうよ」
そこに座る彼女とね。と、社長は客人用のソファーを指差した。
「…どうも」
急に視線が彼女…橘川あやという先輩モデルに集まった。橘川先輩は暫くオレを見つめていた後にペコリと会釈した。
頭の動きにあわせて、彼女の腰まで届きそうな長いブロンドの髪が揺れた。
「主演2人がうちの事務所からなんて、そんな千載一遇なチャンスはもうこれっきりだと思うわ!」
そこで!と机を強く叩いて社長は言った。かなり興奮してる。
「映画を成功させるために、貴方たちには撮影が終わるまで恋人同士になってもらいます」
「え………ええぇえぇ!!?」
「………」
え、今なんて?何言いだすんだ社長。映画の話のどこがどうなってそうなったのか全く分からない。
「社長、言葉足らずなのは相変わらずですね。黄瀬君が困ってます」
「困ってるっスよもちろん!むしろなんで先輩がそんなに落ち着いてるのかわかんないっス!」
「まあまあ」
橘川さんは特に驚いた様子もなく淡々とお茶をすする。
そして飲み干した湯飲みをテーブルに置いて、和菓子の包み紙をいじりながらオレに詳しく説明してくれた。
「その映画が恋愛モノでね、面識ゼロの私たちがいきなり大役をやるのはいくらなんでも無理だから、もっとお互いを知ったらいいじゃない。って言うのが社長の考え、だと…思う。多分」
社長なんかよりずっと分かりやすい説明をしてくれた先輩は、次はきんつばに手を付けはじめた。
この人はカロリーとか気にしないタイプなのだろうか。
「でも、急に付き合えっていうのは……どうなんスかね?」
「そこかしこでイチャイチャしろとは言ってないわ。ただ"恋人"って言ったほうが直ぐに仲良くなれそうだからよ」
「………はあ、」
妙案を思いついたと胸を張る社長。もう呆れてモノも言えない。
「橘川先輩は…いいんスか?」
先程から茶菓子を食べる手が止まらない彼女に、話をふってみた。彼女はどう思っているのか。
「別に…仕事だから」
「ほら、あやちゃんも言ってるんだからよろしくね黄瀬君!」
それからは社長に何を言っても受け流され、聞く耳を持たなかった。
「そういう事だから、1ヶ月よろしく」
彼女は特に表情を変えることなく、部屋を出ていった。
∴偽物の恋がはじまった
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