10万打企画 | ナノ
愛しい人との一時を



「そうだ、映画を見に行こう」
「前回もソレだったよね」


違うとこにしよう。と黄瀬君は危なっかしい手つきでトマトを切る。ああ今にも左の手がさくっといってトマトよりも鮮やかな赤がまな板に広がりそうだ。やっぱり代わってやればよかったかな。私はシチューをゆっくりかき混ぜながら思った。


「いいじゃない、別に」


ちょうど見たい映画あるしさ。けど黄瀬君は首を縦には振ってくれなかった。
そもそも、来週は久しぶりのデート。黄瀬君はバスケ部、私はテニス部で毎日忙しなく過ごしていて休日なんてめったにやってこないが、今月は互いの部休日が奇跡的に1日だけ重なった。せっかくだから映画を見に行こうと言ったのに。黄瀬君も、私となら何度も見に行きたいって言ってたじゃない。


「誤魔化したって無駄っスよ」


黄瀬君は困ったように呟いた。「オレにばれないようにこっそり、雑誌の遊園地が特集されてるページを折り込んでチェックしてるのバレバレなんスよ」って。
そして黄瀬君はやっと切り終えたトマトをレタスの上にのせながらため息ついた。
切る作業から解放されたからか、緊張がとけてそれはそれは大きなため息だった。


「知ってたの!?」
「もちろん。名前のことならなーんでも」


手を洗いタオルで水気を拭った黄瀬君が、シチューの中に沈めたお玉を動かしている私の背後に立った。あ、ついでだから黄瀬君にも味見してもらおうかしら。ちょっと手を伸ばして小皿を取った。私が一回使っちゃったけど黄瀬君は気にしないよね、たぶん…


「ちょっ、黄瀬君!」


あっつあつなクリームが注がれた小皿を持って振り向こうとしたその時、太くてたくましい腕がするっと腰に巻き付いた。小皿が鍋に入るという事態は防げたが、カランと渇いた音を立てて床にクリーム色が広がった。


「我慢はダメっスよ?」
「べつに我慢なんか……っ!」


してないわよ。と、言葉の続きを紡がせてはくれなかった。
インドアスポーツをする彼の手が、黒く焼けた私の顎を掴み自由を奪う。私なんて毎日念入りに日焼け止めを塗ってるが外で活動するのにどうしても黒く焼ける。女子より白いその腕が羨ましく思った。


「行こうよ、遊園地」
「…………んっ」


ぐい、と顎を上に向けられ、同時に黄瀬君も少しだけ腰を折って互いの唇を重ねた。彼のお気に入りでいつも噛んでるオレンジミントからいい香りが漂う。
暫くそうしていたが、私が彼の背中をとんとんと叩いたのでチュッとリップ音を鳴らして離してくれた。


「おいしいシチューっスね」
「なっ……」


黄瀬君は、ペロリとわざとらしく口まわりを舐めた。
その行為を間近で見る私の顔がどんどん火照っていくのが分かった。コトコトと沸騰してる鍋。しかし今はソレを構ってる余裕が私には無かった。


「だって、黄瀬君…芸能人だから……」


やっと喋り出せたのがこれだった。空気はいくらでも吸えるのに、いざ吐こうとするとどっかに詰まっちゃってるみたいにせき止められる。黄瀬君の余裕綽々な顔が、私の心臓を一層高鳴らせた。
シチューを背に、向き合う私たち。黄瀬君の手が再び腰にかかった。それ以上は先へは進まず、微笑みながら私の言葉を待っている。


「人混みに行けば、二人きりになれない、じゃない…」


確かに遊園地は楽しい。ジェットコースターの記念写真で変顔したりコーヒーカップを目一杯回したり、クレープ食べながら歩いてみたりもしたいけどさ、でも黄瀬君はモデルでしょ。
街で一歩歩けば瞬く間にファンの子が黄色い声と共に集まっていく。黄瀬君は優しいからその子達を無下に扱ったりしない。やんわり、彼女らを傷つけないように断るのだ。


「女の子に囲まれる黄瀬君見てるの、辛い…」


私はいつもそれをひとり離れた所で見てるしかないから寂しい。そう言うと彼はがクスリと笑った。
グツグツ、グツグツと鳴るシチュー。黄瀬君は手を腰からそっと離して、パチっと鍋の火を消した。厳密に言えば、ウチはオール電化だからガスじゃないけど…それはどうでもいいか。


「名前」
「な、なに?」


黄瀬君が、私の名前を呼んで、その優しい腕で体を寄せた。肩口に置かれた彼の頭から流れるさらさらした髪が首筋をくすぐる。
オレンジミントとシチューが交ざりあったなんとも形容しがたい匂いが香る。
案外、変な匂いではなかった。


「そーいう顔も、たまには見たいんスよ」


ささやくように、こっそりと耳元で黄瀬君の声がする。
火を消したはずの鍋がまだコトコトいってるようだった。



愛しい人との一時を


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