じぁあまたね、という別れの言葉と共に首筋に付けられた紅い花。私はそれの上から、厚く白粉を塗った。どうせまた花は増えるのだろうけど、だからといって次の男の前で平然と見せていいものではない。


「準備できた?次のお客さん通すよ」
「ああ、さつき姉さんちょっと待って下さいな」


すーっと襖を開けて入ってきたさつき姉さん。彼女は部屋の散乱している布団や御簾を整えてくれた。その間に私は崩れた着物と髪を直した。
もらった簪は…なんだかかわいらしかったので髪にさした。


「準備、できました」
「じゃあ読んでくるね」


また襖がすーっと静かに閉められた。残ったのは、ザアザアとうるさい雨音だけだった。



 :



「入るぞ」
「どうぞ」


本当は、この部屋に入るために許可なんていらない。私はただ、受け入れることしか許されない身なのだから。


「……なにかお飲みになりますか灰崎様」
「焼酎を」
「へえ」


相変わらず止まない雨の中、灰崎様は蔀(しとみ)を開けてそこに肘をついた。私はその近くに盃を置き、酒を注いだ。


「今日はどうですか?」
「ああ?…ちっとも見えやしねえよこの雨じゃあ」
「それは、残念ですね」


愛しい花魁のおわす屋敷が見えなくて。
灰崎様は忌々しそうに真っ暗な天を仰ぎ、酒を口に含んだ。
今日もこれだけで終わりなのだろうか。それならば灰崎の旦那は本当に変り者だ。だって高い金を払ってせっかく遊廓に来ているというのに、一向に抱く気配がない。別に抱いて欲しいわけではないが。


「どうして、あなた様はあそこを目指すのです?」
「手に入れたいからに決まってんだろ」


他人のものが、手に入らないと許せないらしい。財も地位も権力も、すべて奪い尽くさないと気が済まないのだとか。


「………ふふっ」


笑っちゃいますね、まったく。
身分で全てが決まるこの御時世に、そんな事が叶うはずが無いのに。灰崎という男はなんて傲慢で身の程知らずなのでしょうか。ふふっ、ふふふ。


「なにが可笑しい」
「だって、無理ですよぅ灰崎様。ふふふ…」
「なんだと!?」


だん!と私の体が畳に打ち付けられた。灰崎様は仰向けの私に馬乗りになり、首に手をかけた。まだ力は入っていないが。しかし白粉で真っ白な首に青い花が咲くのもそう遠くないだろう。


「わっちのような女の部屋に上がるのでさえ月に一度がやっとの貴方様が、この吉原最高峰の花魁を手に入れる?寝言は寝てから言ってくなんし」
「だまれよ」


灰崎様が忌まわしいそうに私を見下ろしている。まだ手に力は入ってない。たが不思議と恐ろしいとは思わなかった。白を保つことも黒に染まることもできない灰色の旦那が、酷く惨めに感じた。
簪をくれた、さっきの人の方がよっぽど怖い。


「うちの花魁は絶対おちやせん。今まで多くの旗本や御家人が彼女から手をひいていきはりました。そんな女を、貴方が?」
「うるせえ」
「否定はしないのですね。まあいいです。ならばまずわっちを寝取ってみはったらどうです」


ねえ?と、旦那の苦しさで歪んだ顔に手を添えた。ねえ旦那、あなた様には私くらいの下女がお似合いさね。


「いい度胸じゃねえか、女。オマエなんか一晩で落としてやらあ」


灰崎様が鼻で笑った。どこか吹っ切れたような表情だった。
そして私と旦那の影は重なり、首には紅い花が舞った。




錆びた鳥かごは
酷く脆い

あなた様が買えるのは私くらい

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