──これは、まだ本丸に一振しかいなかった頃の話。
桜が舞う庭を、目を細めながら眺める。やはり、春はいい。桜の咲き誇る様は何度見ても飽きないし、暖かい日差しは心に平穏を与える。だからこそ、縁側に出て短歌でもしたためようかと筆を取ったわけだが……。いくつか書き連ねてから、ふとJにかがこちらへ向かってくる足音に気がついた。まあ、自分以外には主しかいないわけだから、足音の主は主に違いないのだが。
「あ、いたいた。歌仙くん」
予感通り、縁側に現れたのは明日子であった。歌仙は自然と日差しの傾きを確認する。すると、ちょうど真上に日が昇っていた。
「昼餉かい?」
「さすが歌仙くんね」
感心した様子の明日子に、歌仙は「君が話しかけるのはそのくらいしかないだろう」という言葉を飲み込む。多忙な明日子が向き合う余裕が出るまでは、言う気はない。その代わり、そのときが来ればいろいろと言わせてもらうが。料理のこととか、普段の服装とか……。いや、ひとつだけ真意を問いたい事柄があった。
「主、ひとつ聞きたいんだが」
「なにかしら、歌仙くん」
「その……くん、はやめてくれないかな。どうも呼ばれなれていなくてね。ぜひ呼び捨てしてもらって構わないのだが」
明日子はキョトリと目を丸くする。ここ数日で初めて見た表情だ。一方で、歌仙はようやく言えたことで胸のひっかかりがすっきりと流れ落ちていくのを感じていた。
驚きを見せた明日子は、うーんと唸ってから「申し訳ないけど」と口を開いた。
「私がいた場所ではこれが普通なの。芸能歴が長い人には"さん"で呼ぶけれど。呼び捨てにするのは、なかなか」
「芸能か……」
歌仙のなかで芸能といえば、能楽などの文楽といった古代芸能を指す。そしてたしかに歌仙が打たれた時代の芸能界でも、いろいろと習わしがあったことを思い出す。それから時を経て、呼び名にも習わしが影響するようになったのか……。
「芸能の事情なら仕方ないね、わかったよ」
若干の勘違いを生みながら、こうして本丸の呼称は"くん"で貫くこととなったのだった。
151216
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