07

――ジャコ、ジャコ、ジャコ

聞きなれた音に鼓膜が揺れ、目が覚める。

瞼を開けてすぐ、目の前が白む。思わずギュッと眉間に力を入れながら、先程よりもゆっくりと瞳を開く。まさか、明かりをつけたままだったか。電気代もバカにならないと、照明のリモコンを掴むため手を伸ばし……。

「痛っ」

骨と骨が軋むような痛みに、動きを止める。痛みの正体を確かめるため、ようやく名前の頭が動き出す。そして目に入ったのは、うっすらと埃の舞う板張りと……茶碗。

……そうだ。

名前はその瞬間、昨晩の怒りを思い出した。ここは住み慣れた自宅でもなければ、ベッドの上でもない。拐われ連れてこられた家の、床で寝ていたのだ。そしてこの茶碗は、ひょっとこに悪食と言われ……怒りのあまり、放置していた洗い物だ。

――ジャコ、ジャコ、ジャコ

そして襖の向こうから聞こえてくるこの音は、怒りの根元たる誘拐犯。……どうせまた、昼夜問わず刀造りに勤しんでいるのだろう。いい大人が、子どものように。

「ったたぁ……」

悪態をつきながら、床で寝たせいで傷む体をなんとか起こし、名前はため息を吐く。6日目の朝も、目覚めは最悪だ。しかしこのままにしていても、気持ちが落ち込むばかりだ……落ち込んでも、腹が満たされるわけでもあるまいに。

名前は嫌と言うほど現実を突きつけてくる空腹の腹をさすり、身支度と食事の準備にと井戸を目指す。

相変わらず辺りは霧が立ち込めていたが、昨日ある程度場所を覚えていたため、なんなく井戸まで辿り着けた。

「昨日……そういえば昨日、あの子言ってたっけ。詳しい人、連れてくるって」

助けの手が、来る。

その希望は、井戸桶を引き上げる名前の手に、力を与える。いつ来るのか、本当に助けの手となるのか……なにもわからない。

しかし、なにが起こるかわからないこれまでの不安に比べれば……言わずもがな、雲泥の差である。組んだ桶の水で顔を洗えば、眠気も不安も拭い去れたような気さえした。

「よし、次は畑!」

今度こそ、美味しいもの……
せめて食べられる物を作ってやるのだ。





コンコンコン、

野菜を切り終え、湯も沸かし。あとはどう味付けすべきか。そう悩む名前の耳に、ノック音が届いた。……確かに今、名前の目と鼻の先にあるその勝手口から。

コンコンコン、

「! は、はい!」

きっと昨日の少年だ!

喜びから高鳴る胸をおさえ、急いで勝手口の戸に手を添える。そして開け放った戸から覗いたのは――

「あ、鋼鐵塚さん起きて……って、あれ!?お、おなご!?なんでおなごが!?」
「ひょっ、とこ……!」

大きな目、太い眉。
赤く染められた固い肌……いや、面。

名前の目の前には、ひょっとこの面を被った誰かが立っていた。驚きのあまり、息を飲み……一歩、後ろへ後ずさる。

「えぇっと……見ない顔ですね、あんた!というか面もしてないし……おかしいな、ここ鋼鐵塚さんの家、ですよね……?」
「……」

誘拐犯のくせに、見ない顔とは。見え透いた嘘を。言い返してやりたい……が、逆上されでもしたら抵抗もできない。……と、名前は生唾を呑み込み、睨むように相手の出方を窺うしかなかった。

「ひえ!そう怖い顔しないでください!あの、私は怪しい者じゃなくて、ただ届け物を……そう!味噌をね、うちの嬶に持ってけって言われて!」
「……味噌?」

しかし、まさに手負いの獣がごとく名前の警戒は『味噌』という、そのたった一言でもろくも崩れた。名前の呆けた表情で、相手もホッと焦りを拭う。

「よかった!鋼鐵塚さんに聞いてたんですね。私、鉄穴森です。前に持ってきた梅干し、ダメにしたって聞いたもんで顔を出しまして」
「梅、干し……あの壺の?」
「そうです、そうです!……って、あれ?壺のこと知ってると言うことは……もしかして、お食べに?どうでしたかね、味。あれもうちの嬶がこさえたもんでして」

あのしょっぱさは、忘れもしない。

まさに名前の命を救った梅干しの送り主は、彼だったのだ。ともすれば、彼は命の恩人ということになるだろう。

「お……美味しかった、です……」
「そいつはよかったです!いやはや、てっきりまた鋼鐵塚さんが癇癪でダメにしたとばかり……」

それで昨日怒っちまったのかな、と鉄穴森と名乗った男は独り言をこぼしているが……名前にはその真意が分からず、なんと返すべきかと口ごもる。

「独り身だからって、ひと月は持つと思ってたけど……まさか、いや、そりゃ食いぶちが増えりゃ減りも早いか。味噌も足りないだろうから、また持ってきますよ」
「い、いえ、そんなっ」

差し出された小振りの味噌を、抱えて受け取る。ずっしりとした重さと、ほのかに味噌の麹の香りが鼻をくすぐった。

……まだ、ここがどこかはわからない。彼だって、本当に信用できるかまだわからない。しかし、これだけは伝えなければ。名前はその思いのまま、こうべを垂れた。

「本当に、ありがとうございます。お味噌、大切に使わせていただきます」
「そんな……大層なことしたわけでも。同じ里同士ですし、えっと……へへっ、じゃあ長居するのもあれですので、これで!」

真正面からの感謝に、すっかり照れ上がってしまった鉄穴森は、そそくさと居住まいを正す。そして深々とお辞儀をしたままの名前にペコペコと会釈をしながら勝手口の戸を閉めた。

「……うーん、器量もよければ心根も涼やか。まさかあんな奥さんを娶るとは、鋼鐵塚さんも隅に置けない」

きっと長がついに、嫁取りを成功させたのだろう。でなければ、この隠れ里に見慣れぬ顔が生活できるはずもない。里で騒がないことを前提にとか、そんな奴の条件を飲んで……人知れず娶ったのだろう。

これは早速、嬶にいい土産話ができたと、鉄穴森は行きよりも軽い足取りで自宅までの道を歩き帰るのだった。


――――……一方、戸のむこうに立ち尽くす名前は、それはもう大変な心持ちでいた。なぜなら、そう。今その胸には貴重な栄養源が抱かれているのだ。

味噌、味噌だ。これがあればなんだって作れる!味噌汁だって、野菜炒めだって。……なんでもだ!

早速、壺を蓋する紙をめくり、指でひと掬い。行儀が悪いと分かっていながらも、堪らず名前はその指を口に含んだ。

「おい、ひぃ……」

甘くしょっぱく、ザラザラとした豆の粒を舌で堪能する。早く、味噌汁がたべたい。名前はワクワクと弾む鼓動の言うがままに、釜の中へ味噌をいれる。

そして昨日余らせていた魚の切り身にも味噌をまぶし、急いでネギを刻む。味噌汁が煮立った頃合いを見て、汁を昨日まで梅の汁が入っていた壺の中へと注ぐ。割ってしまったことで、すぐに溢れてしまったが、その分は茶碗によけて……残ったのは名前の胃袋へ。

もちろん、出汁もいれていないので合わせ味噌のような味わいはないが……煮込んだ野菜の旨味が溶けだし、それが名前の舌を優しく刺激した。

「……!」

たかが味噌、されど味噌。

今度は空いた釜に刻んだネギと味噌をまぶした魚を入れる。水気は味噌汁から頂戴し、これまた煮込む。魚の味噌煮込み。……かなり地味な料理だし、少し前ならここまでのトキメキを覚えなかっただろう。

名前は、完全に浮かれていた。

「でき、た……」

ほかほかと湯気が立ち上る御膳は、まるでクリスマスの豪華なディナーのようにも見えた。さてどこで食べようか、そう名前が周りに意識を戻すと――

「……」
「……」

にっくき、ひょっとこ男が名前の真後ろに立っていたのだった。……そう。鋼鐵塚と言う名の、刀鍛冶である。

「ひっ!な、な、な!?なんで無言で、そんな、いつからそこに!?」
「俺は何度も声かけた。無視を決め込んだのはお前だろう」
「え?」
「……飯炊きごときで、いっぱしの刀鍛冶みたいな背中見せやがって」
「な、なにそれ、あんたと……一緒なんて……こっちは命が、懸かってるのに」

「あ?……聞き捨てならねぇな。お前、刀鍛冶は命懸けてないとでも言う気か」

名前の脳裏に、4日間刀を打ち続けたその背中がよぎる。あれはまさに、命を懸けた背中だった。見るこちらを畏怖させふほどの、鬼気迫った背中。

「こんな気持ち、なの……?」
「……俺はもっとすごい」

……こんな思い、いつからしてこなかっただろうか。それこそ子どもの頃は、花の色ひとつでしていた気もする。しかし気づけば、替えのきく蛍光灯に成り下がっていた…。

――どうして、なんで?

――なんで今、こいつに。

ひょっとこ顔のふざけた奴に。
そんなこと、思い出させられてるの。

なんで、こんな奴に――……


「これ、食べてください」

気づけば名前は、自分のためにとよそっていたそれを、鋼鐵塚に差し出していた。梃子でも動かないと、言わんばかりに。

「いらん。厠に行く」

だと、言うのに。
この……ひょっとこは……!


「そう、ですか……わかりました」

俯き、ギュッと拳を握る。

「――つまり、あなたの命懸けた刀の価値ってそんなものなんですね。いらないと、厠以下だと蔑まれるべきものだと」
「……なんだと?」

「誰がなんと言おうと、これは私が意地と、命を懸けて作った料理です。あなたが言うところの、いっぱしの刀鍛冶みたいな背中で作った」
「……」
「それを足蹴にするってことは、刀鍛冶の背中なんてそんなものだって……そうやって作った刀の価値だって、そんなものだってこと、ですよね……」
「……」

部屋には、興奮で息切れをする名前の乱れた息だけが、響く。わけがわからなかった。名前が1番、混乱していた。

なぜここまで、自分はムキになっているのだろう。そうですかと、そのまま引き下がればいいのに。あの時の、上司の一言でなくなってしまったプレゼンの資料のように捨ててしまえばいいのに。

……あの時、上司にぶつけられなかった思いを彼にぶつけても、意味はないと言うのに。

「……わかった」
「え、」
「これだな」

気づけば、料理は男の手に渡り……豪快に開いたその口の中へ、ひと瞬きのうちに消えていった。


――バリ、ボリ、ボリ、


……骨もろとも。

「食ったぞ、これでいいな」
「え、あ、……味、味は……?」

悪食の汚名を雪がんと、尋ねるも――

「知るか。味なんて関係ないだろ」
「……いや、悪食って言ったその口でなにを言ってるんですか」
「お前は自分を悪食だと思うのか」
「お、……思うわけないです。だからこうやって、認めさせようとあなたに――」
「なら、それでいいだろう」
「は!?」

「…………怒るくらいなら、良し悪しを他人に委ねるな。初めから」
「委ねるなって……で、でも、せっかく作ったのに。作ったなら、慶んでもらいたいですよ、普通……」

鼻で笑う、声がした。

「ずいぶん貧しい普通だな。他人の尺度に合わせるなんざ」
「……、っ」

「テメェ以上に、テメェがいいと思うもんが作れるわけないだろうが」

「……!」
「おい、今度こそ厠に行くからな」

呆れた声色でひょっとこのお面を戻し、鋼鐵塚は廊下をノシノシと歩いていった。名前はまたしてもその背中を黙って見送るのだった。


200216
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