―――奥さん
それは往々にして、男性と人生を連れ添う配偶者をさす言葉。しかしここで問題なのは……いったい誰のことを言っているか、ということだ。名前は先程からぐるぐると、何度も何度もそればかりを考えていた。
「……刀を折るだけで飽きたらず、今度は鍛冶の邪魔までしに来たということか」
「えっ」
名前が思考の袋小路に入っている間に、会話の雲行きは冬場の山のようにますます怪しくなっていく。
「そうなんだな」
「ち、違いますよ!今日は謝罪に……でも、そうやって刀を大切にしろって言うなら、貴方もそうすべきだ!」
「してるだろうが」
「俺が――……俺は、貴方の刀に何度も助けられた。だからこそ、大切に扱うべきだといつも思ってる。でも……それは彼女だって同じだ!貴方を助ける大切な存在のはず、大切にすると誓いあったはずだ!」
「……」
「(誓いあった?あったかな。いや、連れてこられて放置されただけな気が)……あ、あの?」
「…………言いたいことは、それだけか」
「え!?あ、えっと……その………………。刀、本当にすみません、でした……それで、魚を持ってきました」
「帰れ」
ギラッ、と刀の切っ先が鋭い光を放ったように見えた。その光だけで、少年と名前の肩は大袈裟なほどに震え上がった。そして瞬く間に、ひょっとこの男は大股で襖までやってきて……勢いよく、乾いた音をたてながら襖を閉じたのだった。
「うう……すみません、お力になれず」
玄関先で、少年は大きな桐箱を背追い上げてから、申し訳なさそうにそう言った。「いえ……こちらこそです」と名前も返しながらも、乾いた笑いを浮かべる。
「そうだ!せめてこれだけは伝えておきますね。竈で火を扱うコツ!詫びとは言えせっかくの魚、おいしく食べていただきたいので」
「は、はいっ!」
「コホン……ずばり!竈のコツは、火吹き竹の角度です!」
「竹……あの、息を吹き込む筒のこと?角度って、真っ直ぐじゃないんですか?」
「はい!横笛、とまでは言いませんが。筒は斜めに構えて息を吹き掛けるんです」
「横に……でもそれだと、」
「見ててください」
少年は火吹き竹と呼んだそれを竈の横から探しだし、構えて見せる。そして顔にたいして斜めに構え、息を吐く。
ゴォォッ!
「この音……!」
「竹の中で息が渦巻く音です。こうやって斜めに吹き掛けると、竹の壁にぶつかり合って勢いが増すんですよ」
竹を手渡され、名前も見よう見まねでやってみる。すると、たしかに今まで聞いたことのない音で竹先から息が出ていく。
「わぁ!」
名前は久しぶりに、気持ちが明るく高ぶるのを感じた。初めて逆上がりができた時のような、そんな感覚。
「本当はもっと詳しく竈の使い方、お伝えしたかったんですが……これ以上ここにいたら、ご迷惑になってしまいそうなので」
「そんなことは……」
「うう。すみません、俺が余計なあれこれ言ったせいで……謝りに来たのに、ますます怒らせてしまって」
たしかに謝りに来たと言っていたが、あの剣幕では謝りようもないだろう。それになにより、名前のためにといろいろ言葉にしてくれたせいなのだ。
「こちらこそ、ごめんなさい」
「……。あの、奥さん……つらくなったら。いえ、つらくなる前に、誰かに言った方がいいですよ。俺も、また来ますから」
「……」
名前は、なんと返したものかと唇を噛む。どうやら彼とひょっとこは知り合いながら関係はさほど良好ではないらしいことはわかった。
……いやむしろ、あそこまで言い合ってくれたのだ。もしかするとこの監禁状態から救い出してくれる存在なのかもしれない。この気づきは、震えるばかりであった名前の心に光を灯して唇を開かせた。
「……奥さんなんかじゃないです」
「そう言いたくなるほど……」
「違う……本当に、違うんです……」
どちらともなく、ごくりと唾を飲み込む。嫌な静寂が訪れるなか、名前はそれでもと彼の見開いた目を見つめ返した。
「そ、れは……えっと、つまり……どういう」
「……実は、―――」
名前は、すべてを話した。気づいたらここにいたこと、霧がひどく帰れもしないこと。早く家に帰りたいことを。
少年は「えっ!ええ!?」と何度も動揺を口にしていたが、話を聞き終わる頃には神妙な顔で黙り混んでしまった。そして顎に手を添えて「妙ですね」とこぼした。
「外は寒く、霧がひどい……そう言いましたよね」
「は、はい」
「……気づいたら、ここにいたと」
頷いて見せるが、少年は床をじっと見ている。「ケッキジュツのなにかか、あるいは」……そんな独り言を時おり口にしながら。なにか考えをまとめているのかもしれない。そう思い、様子を伺っていると……。
ゴトゴト
「!」
少年が背負っていた箱が、ひとりでに動いた。すると思考の海に沈んでいた少年はハッとした顔をしてこちらを見る。
「あの、数日……いえ、明日まで待ってもらえますか!俺、心当たりがあるかもしれません」
「え?」
「柱の……って、今は柱じゃないんだった。と、とにかく!そういう術とかに詳しい知り合いがいるので!ちょっと話してみます」
「じゅつ……」
「では!」
勢いよくお辞儀をしたかと思うと。ガラッとこれまた勢いよく戸を開けて、少年は霧の中へ走り去ってしまった。名前はそれを呆然と見送る。
「じゅつって……手術ってこと?」
まさか医者を連れてくるつもりなのか。
……頭の。
記憶障害と思われたのかもしれない。というか、本当にそうなのではないだろうか。気づいたら知らない場所にいただなんて話より、よっぽどそっちの方が現実味がある。病と分かれば対処法もあるはずだ。なにより、そうともなれば家族に連絡が行ってここから離れられるかもしれない!
名前は明るい未来の予感に、拳を握りしめた。「明日まで待って」と少年は言った。それならば、このわけのわからない状況も今日限り。名前は握りしめていた火吹き竹を手に、火種のある鍛冶場へ戻ることにした。
そう、最後の晩餐の準備に取りかかることにしたのだ。先ほどの剣幕が恐ろしくて顔も見たくないとも思うが、それも今日限り。名前は部屋に入り、ささっとヤツの横を通りすぎて火のついた薪を頂戴すれる。ほら、これであとは戻れば―――
「あいつは帰ったか」
「ひっ!!……は、はい」
……まさか、声をかけられるとは。ひょっとこ男は何を考えているのかわからない声の調子で「ふん」とだけ返すと、また刀を打ち始めた。
驚いたまま一目散に厨房に戻った名前は、早速教えてもらった通りに火種に向けて息を吹き掛けた。恐ろしい気持ちを吹き飛ばすかのように、勢いよく。すると……。
「火だ……!」
何度やってもすぐ消えてしまった火が、煌々と竈の中で燃えていた。カチカチカチ、と鍋も鳴り始める。加熱できている証拠だ。
名前は嬉しい気持ちに満ちていた。だって、まるで神様が「何事もうまく行く」と言っているみたいではないか。名前は煌々と燃え盛る火を眺め、再び自分を奮い立たせる。大丈夫、何事もうまく行く!
そして――――
「やる気、出しすぎた」
目の前には、消し炭と見間違えるほどに真っ黒な魚が横たわっていた。その横に置いてある茶碗には、トップリと揺れる水面に、これまた雪のように白い炭の粉が浮いている。名前をつけるならこれは、スープのなりそこない……である。
「……せっかくの魚が」
あの少年に申し訳ない。
そしてなにより……。
「あの……夕飯、を……」
「……」
これを見たヤツの反応が、恐ろしい。名前はこれまでの通り皿を鍛冶場の入り口に置いて部屋を出る。……殴り込みに来たらどうしよう。「これが飯なわけあるか!」そう叫びながら、襖が開かれるかもしれない。
……というか、名前ならそうする。自分の分と取り分けた魚を口にして、その苦々しさに早々に頭痛がしたのだから。
どのくらい経っただろうか。竈の火も消えて、外から差し込む細々とした日も消えた頃。襖がガラリと音をたてて開いた。
「あ、……」
ひょっとこはこちらを一瞥もせず、どこかへ歩いていく。呆然とその背中を見送り、襖の中を見ると……そこには、空になった皿が置かれていた。間違いなくそれは、名前が先ほど差し出した皿だ。
「うそ……」
食べたの?あれを?
信じられない。自分でさえ食べられたものでないと残しているのに。なぜ。名前は気づくと、廊下を歩いていったその背中を追いかけていた。
「あの……!」
ひょっとこは、少し行った先の部屋の戸を開けようとしているところだった。「なんだお前」と、不満そうな声で振り返ったその面に、言葉をぶつける。
「食べたの、あの魚」
「だからなんだ」
「だって、その、ほとんど焦げてて……」
「だからなんだ」
「なんだ、って……」
「お前が飯だって言ったんだろ。だから食った」
「……!」
名前は言葉がでなかった。
罵声を浴びせるわけでもなく、文句を言うわけでもないなんて。それどころか、名前が作ったのだから残さなかった、だなんて……。
実は自分は彼のことを誤解していたのかもしれない。そう思い、ひょっとこの面を見つめ返す。顔が見えないだけで、今ももしかしたら穏やかな顔をしているのかも――
「お前の里は、あれが飯なのだろう」
「え?」
「……とんだ悪食文化だな」
「は?」
あくじき……?
言葉が右の耳から左の耳へと出ていくような感覚。あくじき、あくじきってなんだっけ。魚の名前だっけ。
「食ったそばから出るものでもないぞ」
「なにを、言って……」
混乱したままの名前がただそこで呆然と立ちすくんでいると、ひょっとこは戸を開け放って見せた。そこには、昔なつしの……ぼっとん……。
「〜〜!!」
名前はすべてを理解した。顔に一気にブワッと火がついたような熱さがともり、転がるようにして厨房へ走り戻る。
あそこ、トイレだったんだ。
名前は冷静でない頭で、妙に冷静にそんなことを考えていた。そして先ほどの会話を思い出す。あくじき……悪食?つまり、ゲテモノ文化と言いたいのか。
自慢ではないが、名前も社会人である。コンビニ弁当で済ますこともあるが、それなりに自炊もしてきた。
たしかに、あの魚とスープはひどかった。しかしもっとひどいのは、この台所である。時代錯誤も甚だしい調理器具ばかりでなければ、それなりのものが作れるはずだ。いや、作れる。意地でも作ってやる。
「あいつ……」
怒りに震えながら、食べあぐねていた魚を口に放る。バリバリと焦げが口のなかで鳴りながら、その苦々しい味を味わったのだった。
200215
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