「……熱い」
ヤカンでも触っているのではないかと思うほどに熱を発するその額に、名前は再び布を置いた。そしておかしなお面と目を合わせないように、そっとお面を元の位置へ戻す。
絶対に、顔は見ない。見られたからには殺す、だなんて。B級映画の殺し屋の十八番をここで再現するわけにはいかないのだ。私はこれから、交渉をするのだから。
「そう、仕方ない……仕方ないんだ。話をするためなんだから。武器の刀だって、私が持ってるんだし」
言い訳なのか、言い聞かせているのか。名前は自分でも気づかないまま、この介抱の意義を大きな独り言としてこぼしていた。
……部屋に時計がないのであやふやだが、男が倒れておそらく数時間は経った。しかし、男はいっこうに目を覚ます気配がない。もしかして事切れたのかと何度か呼吸を確かめたほどだ。
そろそろ叩き起こすべきだろうか。
そんなことを考えながら、梅干しを食べる。
「そうだ、梅干し」
この男は私が来て4日、なにも食べていないはずだ。エネルギーが切れてしまったのかもしれない。物は試しと、壺から一粒取り出す。そして、再び目を合わせないようにお面をずらして口許へ。
「んっ、ぐ…………」
男の呻き声を聞きながら、梅を押し込む。果肉が、名前の指を濡らしながら、徐々に口の中へ入っていくのがわかった。そのまま一思いに、ぐっと男の口に押し込む。すると、ぬるりとした何かが指を撫でた。
温かく、肉厚な。
「―――!!」
その正体がすぐにわかり、名前は手を抜き取る。が、それより早く。男の手が名前の手首を捕まえた。
「ぎゃ!!」
「(もぐもぐもぐもぐ)」
「は、はな、離してっ……指を、舐め……いやああああっ!!」
あろうことか、男は梅を頬張りながら名前の指をしゃぶりつくした。わなわなと、腹の底から沸きだす怒りや羞恥。名前は問答無用に、男の頭に梅の壺を落とした。
ガシャァアン
「ぐっ」
「離して!変態!いい加減にしてよ!!」
「………………あ?」
梅の汁が男のタコのお面から滴る。血潮に見えなくもないそれを前にして、名前はより一層怒りを爆発させた。恐怖心が過ぎると、人は得てして怒るものである。
「あ、あんた本当になんなわけ!?あのね!?監禁して、バレないとでも思ってるの!?お面してたって、だって、指紋とかあるんだから!それであんたのことなんかすぐわかるんだからっ!」
「お前、誰だ」
「はあ!?誰ってあんたが私をここに誘拐して――」
一瞬の沈黙。
「…………は?」
「クソ……飯炊きか。また長がよこしたか」
「めし、た……き……?」
ガシガシと頭をかきながら、
横柄なその態度で男が更にのたもう。
「腹が減った。飯を出せ」
なにを、言っているのだろうか。この男は。名前は自分の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた気がした。
「なんで、私がそんなこと」
「……なんだと?」
「なんなのよ……あんた。誘拐犯のくせに……勝手にここまで連れてきた、くせに……なんなのよっ」
「はあ?……飯作りに来たの、お前だろ」
「作りに来てなんか……ない。仕事してたのに、気づいたらここにいたんだから」
「…………長の奴、拐かしてきたか」
男はぶつくさと「里の奴とは所帯もんと言えばこれか、くそ」「外からなんざ嫁取れるわけないと高ぁくくっていたが、まさか」などと言いながら悪態をつき始めた。
すると、
「だいたい状況はわかった。帰れ」
「……、……え?」
「嬶なんざ刀の磨きにもならないもんは、俺もいらん。とっとと村へ帰れ」
「む、ら……」
「出たとこの道まっすぐ行けば、どっかしらの村に出る。そっから先はなんとかしろ」
「道……」
思考が止まる。
道なんて、あっただろうか。
「嘘、言わないで」
「……なにがだ」
「道なんて……ないじゃない。霧と木ばっかりで、道なんてどこにもないじゃない……」
耐えきれず、名前は嗚咽を漏らした。この男、私が逃げられないからとぬか喜びさせたんだ。こんななにもないところで、逃げられるものかって。
「道がない、だと?」
男は眉を潜めて――実際にはお面で隠れて見えないが――立ち上がった。力強く畳を踏みしめながら、外界へ繋がる戸を勢いよく開けた。
そこから、カラリと晴れた木洩れ日が差し込む。初夏を迎えたばかりの空は随分と上機嫌だ。なかなか外へでない男……鋼鐵塚も驚いたくらいに。しかし、これであればあの女もキッチリ見えるだろう。
「見ろ、お天道様が照らしているだろ」
「――――!」
名前は目を見開き、そしてボロボロと涙をこぼした。それは決して感動の涙ではなかった。
名前の瞳は、戸の先を見ていた。
しかしそこには、道などない。あるのは鬱蒼と広がる不気味な森と、寒々と重たく立ち込める霧だけ。その頬は絶望の涙を落としながら、深々と冷えていくのだった。
200209
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