02

日本は、平和な国である。

法治国家で、自ら放棄しない限りは最低限の生活を営むことができる。たとえ無一文になったとしても、街には煌々と灯りもあるうえに保護施設だってあるのだ。

だから、名前はこんな経験をしたことがなかった。灯りもなく、食べ物もなく、ただあるのは刃を研ぐ音だけという経験を。


――ジャコ、ジャコ、ジャコ



4日……4日である。

この音を聞き続けて、今日で4日目。名前とて、なにもせずにこの部屋の隅で音を聞き続けていたわけではない。数時間は相手ので方を見ていたが、なにを言っても近づいても奴はただ刃を研ぐだけだった。

もしかしたら、目や耳が不自由なのかもしれない。であれば、なぜか一心不乱に刃を研いでいる今しか逃げ出すチャンスはない。

そう思い細心の注意を払って外へ出たが……そこは、とてつもなく霧の濃い森のなかであった。一寸先も見えない上に……ものすごく寒い。

名前の所持品といえば、オフィスカジュアルな服と携帯。携帯は何故か圏外だし、こんな状態で森をさ迷っては凍死遭難の未来しかないだろう。それでも数回外へ出て、しばらく歩いてみたがすぐに真っ白とした世界に包まれ、前後不覚に陥ってしまった。

それでも、それでもと。脚を進めたが……結局気付けは、元の家屋の前に戻ってきてしまうのだ。パンプスで慣れない山道を歩いたせいで、足の指先は血がにじんでいる。その痛みに、名前は鼻をすすった。

歩いて逃げられないならばと、軒先に立って行方不明者を探す捜索隊の足音でもしないものかと耳をそばたてもした。しかし……なにかが嘶く音や不気味に鳴く鳥の声しか聞こえず、更に物悲しくなってしまうだけだった。

……生き残る術はもう、刃を研ぐ奴に話をつける他ない。2日目に、名前はそう決心した。そして、刃が研ぎ終わる時が私の最後でなければと願いながら、家族や友人の顔を思い浮かべながら……ただひたすらに名前は待った。刃が研ぎ終わるのを、ひたすら。


4日……4日である。

名前は仁王立ちになりながら、男の背後をとる。そして肩を小突いた。しかしそれでもこの男は―――こいつは、刃を研ぐのをやめない。

たまに手を上げたかと思えば、なにかを叩いたり水につけたりして、また……ジャコ、ジャコ、ジャコ。

今度こそ、奴がこっちにくる……と身を固める度に肩すかし。そして4日目の今日、名前はようやく気づいたのだ。

こいつ、なにをしても気にならないくらい集中しているのだと。それならば、気を張っても無駄というもの。では今直面している問題はむしろ……

餓死、であると。


「鍋がある……なら、ここがキッチンか」

襖を開けて見つけたそこには、きょうび時代劇でしか見ない前時代的なキッチンがあった。名前は使われたことがあるのかわからないほど乾いたその鍋を、釜戸の上に見よう見まねで置いてみる。辺りを見回して、薪をくべた。あとは火と、食べ物と水が必要なのだが……。

「食べ物……」

名前が開けた襖から漏れる明かりが、うっすらと厨房を照らす。名前は猫になった気分で目を皿のようにして、隅々を見渡す。と、端に転がる壺を見つけた。

「これは、梅……?」

紙の封を開けて恐る恐る指を差し入れれば、指先は朱に染まり、その甘酸っぱい匂いはまさに梅であった。そうとわかった途端、名前は舌が痺れるほどの空腹を感じた。

「……っ!」

気づけば無我夢中でそれを口に入れ、その果肉を頬張っていた。じゅるっ、と染みだす甘酸っぱさ。耳のした辺り、唾が出るそこに痛みを感じるほどの。泣きたくなるほどの、味だった。

「おい、しい……」

なぜだか、不思議と涙が頬をつたった。その脳裏には、運動会の時に食べた母親のおにぎりがよぎっていた。

「うっ、うぅっ……おいしい……お母さん、お父さん…」

名前は、梅干しの種まで頬張り泣き続けた。そこにいない家族を恋しく思いながら。


「ぐすっ……」

久しぶりのエネルギーに、頭も冴えてきたことがわかる。名前は再び梅干しを口に入れて、立ち上がった。

次は水だ。

梅干しの塩っけで、喉の乾きを強制的に自覚した名前は、キョロキョロと厨房を見る。水道は……ない。ならばと、脚を動かす。

梅干しの壺を抱えながら、ズンズンと家の中を歩き回る。恐いなど言っていられない。ただただ、喉が乾いたのだと、男への恐怖心は梅雨と消えていた。

少し前まで、絶望を覚えた深い霧も、今の名前にして見れば行く手を阻む邪魔なモヤ。なにかないかと、探し回り……ついに、井戸を見つけた。

足元に転がる井戸桶を試しに放れば、数秒遅れて水音がした。水がある!ついている……!と、名前はその井戸桶を一心不乱に引き上げた。

「んっ……くぅっ……ぷはあっ!」

寒さも忘れて、井戸の水を浴びるように飲む。まさに、命の水だ。名前は腹が満たされるのを感じた。

井戸水を組むだなんてやったことなかったけど、けっこうできるものだな。と、縄で擦った手を眺める。じくりと血が滲んでいたが、もう鼻をすする気にはならなかった。






右手には梅干しの壺。左手には欠けた茶碗に入った井戸水。それを交互に口にしながら、名前は注意深く男を観察することにした。

胡座をかき見える脚と、刃を研ぐ手……ゴツゴツとしているし、男なのだろう。なぜか着物を着ているし、髪もかなり長い。それに刀を研いでいる。

「刀匠、なのかな」

だとしても、名前をここに連れ去る意図がわからないが。いったい誰なのだろう。そんな当たり前の疑問が、首をもたげてきた。もしかしたら知り合いかもしれない。誰の恨みを買ったか知らないが、交渉の余地はあるはずだ。

そうだ、まずは顔を見てみよう。


――ジャコ、ジャコ、ジャコ


途切れることなく続く音を聞きながら、膝を畳の上で滑らせる。黒くうねって揺れるその隙間から、顔が段々と見えてくる。その肌の先に、赤いなにかが見えたその瞬間。

「ついに!!」
「……!?」

「ついに出来たぞ!!!!」

男が初めて、声を発した。
男が初めて、体をのけ反った。
男が初めて……その(おもて)を見せた。

「た、こ……?」

いや、ひょっとこか。

そこには、気が抜けるようなお(めん)がおさまっていた。わけがわからない。なんだこの人。というか、これは人なんだろうか。

「何色に染まるであろうか、やはり赤か。青でもよいな……黒でなければなんでもよいッ!!」
「ひぃっ」
「さあ、次は―――――……!」

バタン!

急に騒いだと思えば、黙るのも急だった。ひょっとこのお面をした男は、刀を振り上げのけ反ったまま、後ろに倒れ込んでしまった。

驚いて距離をとるが、なんの反応もしない。声もかけたが、うんともすんとも。呻き声もしない。仕方なく、持っていた梅干しの壺を武器ににじりよると……。

「…………気絶、してる」


男は、お面のしたで泡を吹き昏倒していた。


200209
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