隣人物語02

引っ越しから1週間。

ようやく家具がそろい始め、自炊もできるようになった。大量にあった荷物はこの1週間でほとんど片づいて、あとは季節外れの衣服が入っている箱のみになった。

「んー、快適」

数日前についたベッドに体を投げ、伸びをする。カラカラと音をたてながら風を送る扇風機。もう少し横に向けばちょうどいいんだけどなぁ。

名前は投げ出していた足に力を入れて、なんとか扇風機を横に向けようとした。爪先が当たり、力強く蹴る。扇風機は荒々しく方向を変えたが、同時にその後ろに積まれていた荷物が落ちてしまった。

ドサドサッ

「……」

横着すると結局こうなるんだよな。名前は渋々といった様子で身を起こし、落ちた荷物を拾うことにする。落ちたのは蕎麦だった。

「…………あ!」

見覚えのあるパッケージに声をあげる。見覚えがあって当然だ。これは名前がうんうんと悩んで選んだ引っ越し蕎麦なのである。すっかり忘れていた。チラリと、部屋にある時計を見上げる。短針はちょうどてっぺんを指そうとしていた。お昼時ならいるかもしれないし、行ってみるか…。

そうと決まればと、名前はポケットからスマートフォンを取り出す。まだ馴染みのない自分の住所を入力し、周辺を検索する。とりあえず左隣に一軒の家があることが分かった。右隣も探そうと指をスライドさせるが、なかなか見つからない。

「まあ、一本道だから……辿っていけば着くか」

ちょうど今日はなにも予定がないし、外は曇っている。サイクリングするにはいいだろう。名前は引っ越し蕎麦を丁寧に包むと、先日届いたばかりの自転車を迎えに玄関を出た。

◇◇◇

随分と、ペダルを回した気がする。太ももに痛みが走り、額から汗が落ちる。曇っていた空はいつの間にか晴天になり、木々の合間から差し込んで、名前の肌をジリジリと焼く。

「ま、まだ着かない、の…!?」

名前はもうかれこれ30分自転車をこいでいた。これが平地であればまだ違っただろうが、森に入った途端に道が緩やかな坂になった。始めは立ちこぎしていた名前だったが、今はもうサドルから腰を下ろし、自転車を引きながら歩いている。

何回目かのカーブを曲がり、額にしたたる汗を拭う。うっすらと開けた瞳が、コテージのような家を見つける。森を抜けた先にある丘の上にポツリと立っていた。丘の坂は、それまでにないほどの高配だったが、目の前にゴールを捉えた名前は気力でなんとか登りきった。息を乱しながらも乗っていた自転車をコテージの横に停める。新品なそれと古くさい……ゲフンゲフン、趣のあるコテージはなんだかチグハグしていた。

「どなたかいますか?」

チャイムを鳴らして待つが、反応はない。もう一度鳴らしてみるが結果は変わらなかった。不在だろうか。

「ここまで来て、そんなバカなことがあってたまるか!」

意地でも引っ越し蕎麦を受け取ってもらうぞと、名前は鬼のような形相でノックをし始めた。

出ない。

「嘘でしょ……」

膝から力が抜けていく。慣れない運動を強いられた膝には、もう限界だった。だがこうして途方にくれていても事態は好転していかない。悔しいが、今日は無駄足だったことを認めて帰る、か。

ザァー……

雨だ。
雨が降っていた。

え、さっきまで晴れてたよね?
え??

見間違いであってほしいと、体を乗り出して軒下から空を見上げる。灰色の雲から大粒の雨が、名前の鼻の上に落ちた。慌てて先程停めた自転車を見ると、すっかりずぶ濡れになっていた。これでは帰ることもできない。名前は、ゆっくりと背中を倒し、コテージの軒下で大きな大きなため息をはいた。

今日は厄日だ。なんで引っ越し蕎麦なんて渡しに行こうとしたんだろう。しかも引っ越してから1週間経ってるんだし渡しに来る意味あったのか。いやない。なかった。帰りたい。頭を抱えて、うずくまる。

何回か呼吸を繰り返したのちに、突然、目の前が真っ白になった。顔をしかめ、辺りを見回す。2つの光が、名前を照らしていた。

「アッ!おんなのひとなのよさ!」

光源の方向から幼い女の子の声が聞こえる。誰だろうと思う頃には名前の目も慣れて、光の正体がわかった。車だ。車のヘッドライトが名前を正面から照らしていた。

「先生、患者ちゃんだよ」

ヘッドライトから光が落ち、車のドアが開く。右からは幼稚園生ほどの女の子が、跳ねるように出てきた。それに少し遅れて、左からも人が出てくる。真っ黒い外套に身を包んだ男性だった。雨のなかこちらに駆けてくる。黒づくめの男が近づくうちに、名前の目が見開かれていく。変わっているのは、どうやら身なりだけではないらしい。痛々しい針の抜い縫い跡と、白と黒の髪。そりゃあ最近はピンク色の髪にしてしまうような若者もいるが、それにしたってこんなファッションはないと思う。

「お前さん、なんの用だい。言っておくが、今日はもう店じまいだぜ」

「……あ、え…」

店?ここ店なんですか。

声には出さずに驚きながら、コテージを見上げる。コテージで営むといえばパン屋しか思い浮かばない私。パン屋さんなのかこの男。たしかにヘアースタイルはチョココロネみたいな配色してる気もしなくもない。というか、パン屋さんに蕎麦って、どうなんだろう。だめだもう帰りたい。でもこのまま帰ったらただの変質者だ。なんか話さないと。

「ひっ、引っ越しの挨拶に、き、きたんです」

「……引っ越し?」

首を傾げもせず、じっとこちらを伺う男に、名前の背筋が冷たくなる。蛇に睨まれたカエルの気分だ。逃げる隙はないかと辺りを見回す。だが、雨にも負けずに逃げ出してたとしても、車で追いかけられてパンを焼く釜にくべられてしまうだろう。自分の未来を悲観し、名前の視線が遠くなる。その意識を再び呼び寄せたのは、幼女の一言だった。

「あー!わかったのよさ!」

「わかったって、なにをだよ」

「ほや、丘の下にあゆおうち!」

「……ああ、なるほどな」

どうやら合点がついたらしい。よかった、あんなに離れてるから引っ越ししてきた認識すらないのではないかと思ったが。

「そうなんですー1週間くらい前に越してきたんですが、あの……なんですか?」

幼女が名前の周りをぐるぐると周る。値踏みするように、足先から頭まで見られている。戸惑いながらチョココロネの男を見ると、肩を怒らせて幼女の首根っこを捕まえた。

「なにをやってるんだ、お前は!」

「らって、どんなもんかなーって気になってたんらもん!」

賑やかな様子。どうやら、彼のお子さんのようだ。心温まる親子喧嘩だなぁ、と眺めていた名前。しかし、いつまで彼らの喧嘩を見ていればいいのだろうかと、途方にもくれたのだった。


140618 第二話/完

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