いつの日も。
どんな時だって憧れはあった。
そう、ただの憧れである。
「また作り直しか」
定時を過ぎた、誰もいない会社のフロアに名前の大きな独り言が転がる。ドサッと、机の上に数枚の書類を落とす。……ひと月もかけて作ったプレゼンの資料。それも、昼にあったとかいう上層部の話し合いで根底が覆ったとかなんとか。
――話し合い?喫煙所の井戸端会議でしょ
心のなかでそう吐き捨て、自席にその体を投げ出す。ふと仰ぎ見た天井からぶら下がる蛍光灯。無機質なその光りは、まるで自分みたいだなと名前は思った。
ボタンを押せば消えて、また押せば光る。注目もされなければ個性もない。たくさんあるうちの1つ。だから、そう。
「光らなくなったら棄てられるんだろうな」
だって代わりはいくらでもいる。
名前は、段々と目を開けていられなくなり瞼を閉じた。いまの彼女の状態は、まさに自暴自棄というやつである。仕事は疲れるし、それを癒す恋人もいない。しかもひと月の頑張りが、理不尽にも無に帰したのだ。その体は、虚しさに打ちひしがれている。
だから仕方ないのだと、手の甲で瞼を押さえる。泣いているのではない。ドライアイなのだと、誰とも知れぬなにかに言い訳をしながら。
ジャコ、ジャコ、ジャコ
ふと聞こえてきたその音で、名前の意識が浮上する。それはまるで水面から顔を出すような、海を漂うような心地だった。
――なんの音だろう
瞼に押し当てたままだった手の甲をどかし、瞳を開く。視線の先に見えたのは―――山。黒々とうねりを見せる山。その山が押したり引いたり、蠢いている。……否、それは山ではなかった。なぜならその山には、二本の手が生えていたのだ。
そう気づいた途端、名前は泡が弾けるようにして飛び起きた。咄嗟に突いた膝が、押し当てた板をミシリと鳴らす。呆然と眼球を転がせば、山は人の背中であるとすぐわかった。黒くうねった髪を持った、誰かであると。
――ジャコ、ジャコ、ジャコ
音に合わせて、手が動く。
誰だろう、この人。というか、ここは?会社はどこへ行ったのだ。名前は声に出したつもりだったが、口からはハクハクと空気が抜けるだけだ。ごくりと生唾を飲み込み、今一度開く。
「こ、ここは……」
――ジャコ、ジャコ、ジャコ
背を向ける誰かは、変わらずなにかをしている。声が小さくて聞こえていないのかもしれない。名前はもう少し近づいて、もう一度口を開き……。
「ひっ」
ギラリと光るそれに、息を呑んだ。刃物だ。刃物を……研いでいる。部屋の囲炉裏に照らされて、その焔の揺らめきに合わせてギラギラと切っ先が光る。その刃を研ぐ腕は逞しく、研ぐ刃で悠々と人の首を落とせるであろう。
なんなの、これ。
力なく床に座り込む。板張りの木の冷たさは、これが現実であると名前に伝えているようだった。
なんでこの人、刀なんて持ってるの。なんで研いでるの。なんで私、こんなところにいるの。もしかして―――
「私、殺される……の」
――ジャコ、ジャコ、ジャコ
名前の呟きも、意に返さず。刃を研ぐ音は、いつまでも途切れることがなかった。
そう、いつまでも。
200209
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