隣人物語01

名前には、ずっと憧れてきたことがあった。

一人暮らし

成人した者にとっては、極ありふれた願いのひとつだろう。自分の趣味のままに家具を選んでみたかったし、段ボールを前にして、なかなか減らないなと嘆いてみたかった。引っ越しそばを持って挨拶回りもしたかった。しかしそれはただの憧れであるべきだったのだと、名前は引っ越しの初日から痛感することとなった。部屋いっぱいに置かれた段ボールは、名前の寝る場所までも占拠しているし、その箱のどれに引っ越しそばを入れていたのかも忘れてしまった。探す気力もない。

知らなかった。引っ越しってこんなにも疲れるものなんだ…。疲労感が足元からじわじわと上がってくる。名前は深くため息を吐く。同時に、腹が空腹を訴えるように鳴いた。窓を見上げて外を見れば、既に太陽は山際に顔を隠そうとしていた。

「ごはん、買いに行かないと…」

泣きそうになりながら、立ち上がり、財布を探す。しかし、財布を入れてある鞄が見当たらない。荷物を中途半端にひっくり返したために、どこかへ埋まってしまったらしい。

「死んじゃう」

根気強く探せば財布も見つかるだろうが、そうこうしている間に夕飯時はすぎてしまうに違いなかった。そもそも、この部屋からスーパーやコンビニのある場所までは自転車で10分はかかることを、不動産屋さんから聞いていた。住みにくそうな条件だが、一軒家まるごと貸してくれると聞き、じゃあ見るだけ見るかと来てみたらすっかり気に入ってしまったのだ。……冷静になって考えればよかったと、少し後悔する。ちなみに頼みの綱の自転車は、明明後日届くことになっている。

つまり、夕飯を食べる頃には日を越している可能性があるのだ。そこまで考えいたると、すっかり財布を探す気がなくなってしまった。とりあえず今日は夕飯なしにして、荷物を整理しよう。名前は散乱したままの荷物をかき集めて、黙々と作業を始めた。

◇◇◇◇

名前の下宿先から随分と丘を登った先に、ひとつの家があった。鉄筋コンクリート造りの家が増えた現代には珍しい、コテージのような家だ。その一軒家の窓から、室内の光とともに話し声が漏れてくる。

「先生、ごはんらよ」

家主であるブラックジャックは、外套を脱ぎながら、卓上に用意された食事に鼻を寄せた。スパイシーな香りが刺激され、喉が鳴る。

「今日はカレーか」

お気に入りの料理を目の前にして、落ち着かない様子で席につく。早速、とスプーンに手を伸ばすが、その右手は空を切った。目をまたたかせ、スプーンの行方を追うと、食事を用意した少女の右手に握られていた。

「ピノコ…」

「まだ手洗ってないえしょ!」

「しかしだな、」

「だーめー!」

家主は私だぞ、と納得がいかない気持ちだが、このままではいつまでも埒が明かないので手を洗いに立つ。ピノコはそれを見て満足すると、ご褒美にとっておいた目玉焼きをカレーの頭にかぶせた。

「あ、そーゆえばね。さっき明かいがちゅいてたのよさ」

手短に手を洗い、戻るとフライパンを流しに戻しているピノコの背中が見えた。そしてブラックジャックはそのあまりにぼんやりとした話題に首をかしげ、質問を投げた。

「明かりだって?いったいどこの」

「ここかやずーっと下にあゆアパートの明かい」

確かに、この丘の下……森を越えた先には一軒のアパートがある。しかしあそこは随分と前から空き家だったはずだ。

「誰か越してきたのかもしれないな」

「しょしたらお隣さんよね!ピノコお隣さんはじめてなのよさ!」

お隣さん、か?まあ、この家から伸びる道をたどる間にまず現れるのはあの一軒家ではある。理論的にはお隣さんになるが、あそこまでは車で10分はかかる。

「ご挨拶いかないとなのよ」

「バカいうな。あそこまではそれなりに距離があるんだぞ?もしあいさつするにしたって、普通はあちらさんからするもんさ」

「えーちゅまんない」

「まともなヤツだったらそのうちくるさ」

そう言い終わるなりスプーンでカレーを掻き込み、口許を拭う。ピノコもそれを見て手を動かし、話題はよそへと変わっていった。


130722 第一話/完

←メインへ
×
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -