石橋さん 前半

指の先がちらつく。少しだけ長い袖を、僅かに肘が見えるまで折る。折り込んだ袖の中へと入り込む風。今の名前には、それが心地よく感じられた。

入学式から数ヶ月経ち、季節は春から夏へと変わろうとしていた。近年騒がれている異常気象のためか、夏服を着る人もちらほらと増えてきていた。特に、新入生達は真新しい制服に浮わつき、その殆んどが半袖に手を通している。名前も、昨日まではそうであった。暑さに耐えながら着ている理由、それは今まさにやろうとしていることに関係していた。

今一度、例の物を目視する。…変化がないことを確認して、すぐに木の影へと身を隠す。

「早く誰か早く誰か…」

呪文のように呟き、手に持つペットボトルを上下に振る。かれこれ1時間程、名前は立ち寄る人の少ないこの裏庭で、ある変化を待ち続けていた。日中は20℃を越す日も珍しくない、空の下……日を避けて木陰を選んだ名前だったが、地面に当たり反射した熱が襲う。

もう、帰ろうかな。振り続けて痛む手からゆっくりと力を抜く………その時、ついに変化が訪れた。


「ドッうぎゃ!?グハッ」

──かかった!!

蛙が潰れたようなこの声、間違いない。名前は早る気持ちを押し殺してその声の元へと急いだ。覗き込むそこには人が1人入れる程の大きさをした穴が空いていた。中には同じ海常の男子制服を着た男が鈍く唸り、収納されていた。

キタッ キターー!!!

「初めまして旦那様!」

穴の外へ投げ出されたままの手を取り、愛情を込めてそれを握る。骨張ってはいるが、白くて綺麗な手だ。女の私の手よりも…綺麗に見えてしまう。じっと観察していた手は、突然動き出し、名前の手を力強く握りしめた。なんて大胆な旦那様なのだろう。頬を赤く染め、旦那様と視線を合わせる。

「な、んっスか……アンタ……」

「…………………………黄瀬…涼太…」


黄瀬涼太
目の前で落とし穴にハマっていた人物。爽やかな甘いマスクと口元から覗く白い歯は、彼がモデルだという証だ。こんなにも近くで見るのは初めてだが、それなりに女子高生をやっている名前は彼のことを知っていた。友人と話す噂の定番は3つ。

バスケが強い
モデル
彼女更新が早い

そして今、最も注目すべき事項は3つ目の項目。高校一年生ながら、彼は既に波乱万丈な彼女履歴を記録していた。噂を全て信じている訳ではないが、火のないところに煙は立たない。そんな彼が、私の落とし穴へ落ちてしまった。……いや何かの間違いに違いない、そうに決まっている。

「さて、じゃあ次の仕掛けを…」

良いことに名前の長所は切り換えの早さだった。手を離し、この場からすぐにでも立ち去ろうとする。だが、それを未だ落とし穴にハマっている…黄瀬涼太が許すはずはなかった。

「いやいやいやいや待つっスよ」

「………なんでしょう」

「人を古典的な悪戯に嵌めておいて、それはないっスよ」

「悪戯じゃないです、おまじないです」

「いや更に意味がわからないっス」

大事な点だけを訂正するが、その答えでは彼は満足できなかったらしい。だがしかし、名前には女性にだらしないらしい彼にかまけていられる程暇ではなかった。面倒だし、恥ずかしくもあるが…口を開く。

「未来の旦那様を探すおまじないです」

「は?」

二人の頭上へと幕が下りるように落ちる沈黙。どこか居心地の悪さを感じた名前は、握られたままの手を横へと振りほどく。意外と簡単にほどけ、呆気にとられる。……どうやらただの落とし穴ではないことはキチンと理解できたらしい。

それはなによりだが、このご時世『おまじない』だなんて言ったところでバカにされるのが落ち。貶すような言葉がすぐ聞こえてくるに違いなかった。羞恥が、知らぬうちに名前の頬を染めあげていく。しかし、黄瀬涼太から飛び出してきた言葉は暴言以上のものだった。

「へぇ……そういう告白は、初めてっス」

思いもかけなかった「告白」という二文字。唖然としながらゆっくりと噛み砕き、咀嚼する。自然と視界に捉えた彼の目。それには、明らかな嫌悪の念が宿っていた。そして彼から放たれた言葉にも、それは露呈していた。

「悪いっスけど、今は恋愛とか全く興味ないんで。そもそもアンタには一生持てそうにないっスけどね」

露呈というよりも、隠す気が毛頭ないようだ。辛辣な言葉を浴びせながら、表情は笑顔を崩さない。この笑顔で何人の女の子を誘惑し、泣かせてきたのだろうか。末恐ろしい限りである。しかし、世の中には更に恐ろしいものがあるということを彼は知らなかった。

「ハハッ!私も新婚早々よそで種馬して来そうな旦那は願い下げなので気にしないで下さい…そして忘れろ下さいね」

その目から放たれる殺気と焦燥感は、発情期のカマキリのようだった──黄瀬涼太は後にそう語っている。

「………え?」

今だかつて耳に入ってきたことのない単語に、黄瀬の動きが止まる。頭だけは、忘れろ下さいという可笑しな日本語に反応していたが、名前の鬼気迫る様子を目の当たりにして、訂正を口にする気力は下降せざるを得ない。名前の猛追は更に続く。

「もし、万が一。まんまと私の落とし穴へ落ちた貴方が、おまじないの通り将来の旦那様だとしたら……地獄でしょ?新婚2ヶ月で他の女を孕ませて、認知を求められるに決まってるでしょ?認めない!!そんな昼ドラ展開!!」

「わ、わかったっス!わかったから落ち着いて…!」

裏庭には人があまりこないといっても、これ程までに大騒ぎすれば誰かが来てしまう。落とし穴にハマったまま救出を待つ黄瀬にとって、それだけは避けたかった。

「すみません…」

名前も、ここまで取り乱すつもりではなかった。素直に謝罪をすると、その後は大人しく口を閉じた。

(この状況が異常だということにも気がついてほしいっス)

だが、自分も落とし穴にハマり、しかもそれが過激な告白だと勘違いしたことを思い出し、正気を取り戻した。仕方がない…。穴の縁に肘を立て、名前を見上げる。彼の瞳には、嫌悪とは異なる色が宿っていた。

「あー人の恋愛事情とか、本当に興味ないっスけど……おまじないで旦那決めるとか、流石に…どうかと」

知り合いに似たような人物がいるが、流石に彼も、伴侶を……占いで決めるなんてことはないだろう。…ないっスよね?自問する度に自信がなくなっていくが、今はそれよりも彼女の返答を待つことにしよう。一方の名前はというと、落ち着きはしたが、未だに闘志は健在だった。

「40代まで枯れた人生をおくれって言うの?」

「は?い、いや別にそういう意味じゃ…つーか、なにを根拠に…」

その一言に、名前が無言で何かを差し出す。それは一枚の紙だった。赤や青、緑の線が横へ引かれ、山脈のようにも見える屈折を描いている。その山頂は100という数値を飛び越えているようだが、それ以降は垂直とも言える下降をしていた。

「…グラフ?」

自信なさげな視線を送れば、名前は頷く。その後、それまでポケットに入れていた手を出し、指先である場所を指した。

「この絶好調が16歳で、このメモリが週を示してるんだけど…」

トン、トン、指が叩く場所を目で追いながら、黄瀬は頭の端で面倒なことになったなとぼやいた。

「つまり、16歳の5月第一週が勝負。それ以降は見ての通りでしょ?」

「……」

同意を求められても。そもそもグラフまで作ってそこまで計算しておきながら、なぜ占いなんて非科学的なものを信用しているのか。

「人生がかかったおまじない中なの…わかった?」

名前の目力は更に増し、黄瀬の背中をひんやりとさせた。チャラチャラした男は邪魔なんです。大方そう思っているのだろう。

「……邪魔をする気はなかったっス」

「それはよかった」

「……」

なんだこいつ。
人のことを種馬と言ったり睨み付けたり…散々な態度である。正直な話、知らない女の子からこんなあからさまな悪口を言われたのは初めてだった。
種馬のことは、まぁ色々な噂があることは知っているが、こちらだって好きでこの落とし穴に落ちたわけではない。そんな苛立ちが沸き上がるが、すぐに呆れに変わる。こういった変人には慣れているのだ。

「とりあえず、引き上げてもらってもいいっスか?」

もう彼女と話すことはないだろう。そしていつものように、顔もすぐに忘れるのだ。自分の手を握り、穴から引き上げようとする彼女を眺める。
もう、興味は失せていた。


121222

思いついたままに書いたらこんなことに

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