「ごめんなさいね、苗字さん。規則で少なくとも3ヵ月は部活に席をおかないといけないんですって」
「……3ヵ月、ですか」
「だから、その間にもう少し悩んでみたらどうかしら」
そう名前を諭すのは、水泳部の顧問を勤めている天方先生だ。この4月から赴任してきたばかりの、若い先生。眉を垂れさせて、名前の様子をうかがう様子は、小動物のように可愛らしい。しかし、告げられた言葉はまったく可愛らしくなかった。
……3ヵ月か。
職員室の外では、葉桜が風に揺れて、窓辺に木漏れ日を届けている。最近ようやく昼にブレザーを脱ぐことが増えてきたばかりで、梅雨の足音はまだ遠い。つまり、名前が部活を辞められるのは、夏休みが終わった頃になるということだ。女体のないプールなんて、天ぷらのない天丼。ただの白米を渡されて3ヵ月すごせるほど、名前は我慢強くなかった。
「天方先生は、水着になったり……」
「しません」
「……ですよね」
力なく職員室を去り、名前は重たい足取りで水泳部の部室を目指す。コウちゃんが水着になるだけで満足なのだが、名前のカミングアウト以降は目線を合わせてくれなくなってしまった。まあ、いつもそんなものなので別に驚きはしないが……悲しくないわけではない。プールを囲うフェンスが見えてきて、自然と名前の歩みは止まった。
「恋愛対象は、男子なんだけどな」
ただ、人が音楽を好きなるように、名前は女体を好きになっただけなのだ。
「そうなのか」
「わあ!?」
後ろからかけられた言葉に、肩が大きく震える。驚いて振り向いた先には、遥が立っていた。おそらく、名前と同じように部室へ行く途中なのだろう。
「お前は同性が好きなのかと思った」
「違うわよ。……七瀬には、わからないと思うけど」
「……いや、わかる」
「え」
「俺は水が好きだ」
海底を思わせる、深いブルーの瞳が名前を射抜く。驚いて固まる名前をよそに、遥は年中水着を着込んでいることや、プールがなかった頃は風呂場で水に浸かっていたことを淡々と語り始めた。
「だから、お前の気持ちはわかる」
自分のような人が、他にもいたなんて。いますぐこの感動を伝えたいが、言葉が出てこない。咄嗟に、名前は遥の掌を握った。名前よりも10p以上も背の高い遥は、体が前に倒れかけながら名前の握手を受ける。
「……どうした」
「初めて、同じ境遇の人に会って感動してる」
「……そうか」
「私は七瀬が水を好きなように、女体が好きなだけで……同姓愛者じゃないって、わかるでしょ。七瀬だって別に水と結婚しようとか思わないよね?」
「いや、俺の初恋は滝だ」
「わあ……なにそれ七瀬のほうがよっぽど末期じゃん」
自然と込み上げてきた笑いで、肩を揺らす。すると、繋いでいる手が軽く引っ張られた。名前が顔を上げると、相変わらず無表情な遥が名前を見つめていた。
「俺は、水が好きだから自分でプールも整備した。他のやつらも、水泳がしたいから行動した。お前は、しないのか」
「……行動、か」
浮かれていた気分が、一気に引き締まる。たしかにいままで私は願望を口にするだけで、自分で環境を変えようと行動したことはなかった。
考え込む名前の前に、遥は1枚の紙を差し出す。
「これって」
A3サイズの紙には、水泳部部員募集の文字が書かれていた。遥がなぜいまこのポスターを見せたのか、彼の意図に気がついた名前は、戸惑いながら視線を遥に投げる。
「……いいのかな」
遥はただ頷くだけで、きびすを返してしまう。足先はもちろん、部室に向いている。名前も急いで遥の背中を追いかけた。胸の奥がドキドキと高鳴っていた。
140529 第四話/完
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