美術部への退部届けを出し、本日水泳部への入部届けが受理された。美術部の皆にはかなり引き止められたが、私の長年の夢が叶うのだとわかると、優しく背中を押してくれた。ただ、いま取りかかっている定期展示用の作品は描きあげるように言われたので、今日は早速美術室ランチとなった。
そして迎えた、水泳部入部初日。
名前の姿は水泳部の部室前にあった。ドアをノックしてから中を覗くと、コウちゃんと3人の男子がいた。すぐに私に気づいてくれたのは、男子の中で一番背が高い人だった。
「あ、いらっしゃい! 部長の橘真琴だよ。これからよろしく、苗字さん」
「よろしくお願いします」
「今日は顧問が外出でいないから、俺が色々説明するね」
この人が部長か……。がたいがよくて、背も高いんだけどなんか優しげな雰囲気の彼を、巨神兵みたいだとしげしげと眺める。そしてその横で小さく手を振っているのは。
「まず、こっちが副部長の七瀬遥で、こっちが書記の葉月渚……苗字さん、聞いてる?」
「聞いてますよ」
「いや……コウちゃん、見てるよね」
手を振ったところ、思いがけずじっと名前に見つめられた江は、困ったように微笑みを返す。かわいい。これ以上見つめると気持ち悪がられそうなので、目を伏せて彼女がプールサイドに立っている様子を思い浮かべた。夏が待ち遠しくて堪らない。
「屋上でも思ったけど、面白い子だね〜」
「渚、苗字さんは2年生だからね……」
周りの雑音も気にせずに江という碇で、
思考の海に潜り込んでいく名前を止めたのは、碇そのものだった。
「名前先輩、緊張しなくても橘先輩は怖くないですよ!」
「え?」
「あ、あれ……俺怖かった?」
江は名前が俯いたことで、なにか勘違いしたらしい。人をよく見て、気遣いもできる女子か……素晴らしい。あと私のことを名前で呼んでくれてる。嬉しい。じーんと感動している名前をよそに、江は真琴の肩を叩いて耳打ちした。
「名前先輩は、男の人が苦手なんですよ」
「!? ……そうなの?」
「だって、水泳部に入りたいけど女子がいなくて断念してたんですよね?」
「う、うん。確か屋上ではそんなこと言ってたけど」
「私がいるって知ったとたんに入部を決心したくらいですから、男子ばかりの環境は嫌だって言うのは本心なんだと思います」
「……なるほど」
勘違いに拍車をかけてる2人。渚と呼ばれた少年は週刊マンガを開いてくつろいでいる。放置された名前と遥は、無言で立つ他なかった。会話をしようと思えばできるが、名前は特に遥には関心がないため、江を見つめることにする。すると、意外にも遥のほうから名前に声をかけてきた。
「水が好きなのか」
「水……まあ、水って言うか海とかプールが大好き」
「そうか」
「水嫌いな人ってなかなかいないんじゃない?」
当たり前のことを返すと、なぜか彼の雰囲気が柔らかくなった。そのまま会話は続くことなく、終了した。プールサイドで会ったときも感じたが、この人は不思議ちゃんなんだと思う。
彼の分析を終えた頃、肩がグイッと引っ張られた。足がもつれて、引かれた方へ倒れそうになる。すると、意外にも名前の腰は何かの上に落ち着いた。……部室のベンチだ。
「ねぇねぇ、名前ちゃん!」
「っ、なに?」
腕を引っ張ったのは、渚だった。驚きながら座り込んでいる横で、名前の服の袖を握っている。なんだ。かわいい。
「ここがね、赤いんだけど……名前ちゃんケガしてるの?」
「え?」
驚いて腕を捻って見ると、確かに袖の肘辺りがボタンほどの大きさで赤く染まっていた。きっと昼休みの作品製作中に付いてしまったのだろう。
「絵の具だよ」
「絵の具? 美術の時間って、いま絵の具使ってないよね?」
「私、美術部だったから。作成途中の作品を完成させないといけないんだ」
「……それって、水泳部に入るために辞めた、の?」
「うん。ずっと憧れてたし」
改めて口にすると恥ずかしくて、上手く笑えなかった。水泳部一同が名前を注目する。静まり返ってしまった部室に、名前は体を固くしたが、ヨロヨロと生まれたての小鹿のような足取りで近づいてくる江に気づいて、咄嗟に彼女の手をとった。
「先輩……」
「う、うん?」
瞳を濡らした江が、名前の手を両手でギュッと握りしめる。だいぶ寒いことを言った後だし、そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど……。
「私マネジャーとして、名前先輩が泳げるように精一杯サポートします!」
「え!? ……私泳がないよ」
「「「え?」」」
それまで漂っていた生暖かい青春の空気が、一瞬で消えた。目の前で名前を見つめていた江から微笑みがなくなり、彼女は驚愕の表情を浮かべていた。そして、大きく見開かれたその瞳に、同じような顔でいる名前が映っている。
「ていうか、コウちゃんマネジャーってことは……泳がないの?」
「は、はい!」
「嘘でしょ……」
名前は、自分の足元が音をたてて崩れていくのを感じた。周りの音が遠退いて、視界が揺れ始める。ああ、全てが無意味だった。これだったら、美術部で定期的に来るモデルさんで我慢した方がましだ。いますぐあの屋上ランチをした日に、時間を戻してくれ。
「え。名前先輩? 名前先輩!?」
「名前ちゃん、なんか意識飛ばしてない!?」
「コウちゃんそんなに激しく肩を揺らしちゃダメだよ!」
ガクガクと激しく揺さぶられる視界のなかで、名前は口を開いた。魂の抜けた彼女から放たれた言葉は、なぜかこの騒がしい部室内でもよく通った。
「私、水泳部辞める」
この呟きが、それまで部員の輪から離れて、壁にもたれて黙っていた遥の足を動かした。興奮した猪の猛進を思わせる勢いで、遥は名前に近づき、名前の頭を両手で挟むようにしながら掴んだ。名前だけでなく、手を繋いでいる江からも悲鳴が上がる。
「お前、海とかプールが大好きだったんじゃないのか」
「……ょ、……ぃが……だよ」
「なんだ、しっかり聞こえるようにいえ」
人の頭を掴みながら、偉そうに命令してくる遥に、名前は怒りを覚える。そして、遥の頭目掛けて勢いよく頭突きをかました。
ゴッ
固い音ともに、名前は額に熱さを感じながら、頭突きを受けて痛みに悶えている遥を見下ろす。そして、後先を考えなさすぎたと、後に後悔することになる暴露をするのだった。
「水着姿の女体が好きなんだよ!!!!」
140528 第三話 完
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