海底に錨のように沈んでいた意識が、浮上していく。閉じられたままの瞼を鈍く開ける。しばらくはシーツの上に投げられたままの自分の手を眺めて、ゆっくりと上半身を起こした。
今日は木曜日だ。
真っ先に名前が思ったこと。それは、今日が恋愛指南講座の初日だということだった。つまり、お嬢様が来る前に書斎を開ける準備をしなければならない。名前はシーツから抜け出した足を床の上へ下ろし、あれこれと準備の段取りを考えながら、Yシャツに袖を通した。そのまま適当に身支度を整えて部屋を飛び出す。
「うおっと、名前じゃないか」
部屋を出たところで、ちょうどダンテに出くわした。今日も日課の朝稽古をしていたに違いない。朝の挨拶を交わし、互いに笑顔を返す。ダンテっていつもスカッとした太陽みたいな笑顔だよね。頭を照らす朝日に合間って、眩しい。
「そうだ、探しておいてもらいたい書類があるんだが」
「いいよ。どの資料?」
眩しさに目を擦り、首をかしげる名前に、ダンテは苦笑する。まだ起きがけかと思ったに違いない。
「過去5年の貿易収支についてだ」
「ああ、それなら……」
「できれば今日中に受けとりたいのだが」
貿易の資料であれば、たしか2階の棚にあるはずだ。過去5年分であればさほど時間もかからない。名前は了承としてひとつ頷いた。
「わかった。それじゃあ、午後イチにでも書斎に来て」
「よろしく頼む」
そう言って、下っ端の私に頭を軽く下げるダンテ。そのときにまたしても頭がキラリと光り名前の目を射したが、それについてからかおうとは思わない。やはり目は擦ってしまうが。ダンテは義理に厚くて、とても好感が持てる。調べるときに見やすいように、書類を分類しておいてあげようとすら思う。
手を振ってダンテと別れたあとは誰とも会うことはなく、書斎に着いた。窓を開けて、まずは空気を通す。風が通り抜けていくのを感じてから、部屋の奥に片した箒を取りに行く。そのとき、ノック音が部屋に響いた。
「名前……」
「お嬢様!」
赤茶色の髪がドアのむこうで揺れている。こんなに早く来ていただけるなんて思わなかったというのと、朝からお嬢様に会えたというので名前のテンションはうなぎ登りに。しかし、ドアの影から現れたもうひとつの頭に、表情を凍らせた。
「よ、名前!」
お嬢様の隣で馴れ馴れしく話しかけてきたのは、リベルタくん。ただの能天気な少年に見えて、大アルカナを持っているから驚きだ。だが、書斎には年に数回来るだけで、あまり縁もないはずの彼が……なぜここにいるのだろうか。名前の怪訝そうな様子に気がついたリベルタ。慌てたように手を忙しなく動かして、口を開く。
「お嬢に、これから恋愛指南講座を受けるんだって聞いてさ、俺もダメかなって……」
「ダメではないけど」
そもそも自分は人に恋愛指南できる人間ではないから、なにかを期待されても困ってしまう。しかしこうして積極的に自分を変えようとする姿勢は、評価するべきだろうし。
「あまり効果は期待しないでほしい。それと、この講座に全面的に協力することが約束できるならいいわよ」
「まじで!するする、約束する!」
こいつなにも考えずに了承してるな……もっと自分の発言がどんな結果を生むのか考えて返事をするべきだと指摘したい気持ちを、ぐっと抑える。いまはこれを利用させてもらおう。
「じゃあまずは、食堂にでも行きましょうか」
◇◇◇
「まず、恋愛をする際に重要になってくるのは自分のことを好きになることです」
「お、おう」
「うん……」
食堂の長机に座っている2人から、問うような視線が集まっている。別に名前は食いっぱぐれた朝御飯をここで食べようとしているわけではない。単にここが今回の講義にぴったりの場所だったというだけだ。
「ではリベルタ」
「え!?」
「このお菓子を外見から褒めてみて」
リベルタの鼻先には、大福がある。ジャッポネの食文化にそこまで詳しくない2つの頭が傾く。名前が「早くしろ」と急くと、リベルタもついに口を開いた。
「甘くて、えー……腹がいっぱいになる」
「うんまあいいや。では次にお嬢様、食べてみてから褒めてください」
「わかった」
横で「なんだよそれ!」と騒ぐリベルタだが、名前がひと睨みするとすぐに黙った。お嬢様はその間にも可愛らしい口をもぐもぐと動かしている。ひたすらに可愛らしい。
「なかに、イチゴが入っててシュワッてして、モチモチ……?」
「さすがお嬢様!」
思わず手のひらを叩く。するとお嬢様は頬をほんのりと赤くした。これが面白くないのは、大福も賛辞ももらえなかったリベルタである。
「このように、なにかを褒めてひとに勧めるにはそれがどんなに良いものなのかを知らなければならないのです。つまり、自分のことを相手に売り込むにはまずは自分の良いところを知る必要がある」
ここまで言うと、生徒である2人が目を丸くさせた。どうすれば一番美味しく魅せられるのか。それを知ることが恋愛の基礎になっていく。
「スッゲェ!さすがだな、名前!俺今日きてよかった!」
大興奮のリベルタは「じゃあ俺は……」と言いながらニヤリと笑ってみせた。その笑いかたがどこかの女好きに似ていて、名前は顔をしかめた。
「言っておくけど、ありもしない長所を言ったところで、後で後悔することになるからね」
「んぐっ」
名前の刺した釘は、見事にリベルタの動きを止めた。やはり、こいつ自分を勇者リベルタみたいな好青年に仕立て上げるつもりだったらしい。お嬢様もどこか冷めた視線をしている。
「じゃ、じゃあ!名前の良いところってなんだよ!」
「私の?」
なぜここで先生の私自ら自分自慢を披露しないといけないんだ。これはリベルタが自分のことに集中していない証拠に違いない。
「名前は、優しくて、落ち着いてて、きれい」
「…………お嬢様!」
それまですさんでいた名前のなかに、暖かい春の風が吹き抜けた。なんて、なんて可愛いのお嬢様!それに私のことをそんな風に思って下さっていたなんて……。感激。
「お、お嬢……俺は?俺の良いところも教えてくれよ!」
「……えっと」
瞳を輝かせながらお嬢様に迫るリベルタ。期待に満ちたその瞳に、お嬢様もたじたじだ。名前は少し大きめに咳払いをして、2人の意識を自分に向けさせる。
「じゃあ、自分の長所を見つけてくることは、次までの宿題にします」
授業をしているこの食堂には、メイドたちが出入りし始めていた。そろそろ厨房でお昼の支度が始まっているのだろう。昼食のまえにダンテの資料を揃えておきたいし、このくらいの時間でちょうどいいだろう。
こうして、名前の恋愛指南講座初回は幕を閉じた。
140303 第四話/完
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