ポツリ、
「――あ」
泣いて熱く腫れぼったくなった瞼に手拭いをあてていた名前の耳を、軒先を打つ雨音が揺らした。
「どうした」
名前の呪術を調べるために、側でなにやら書き物をしていた宇髄が顔をあげる。釜戸の調子を見ていた炭治郎や里長の鉄地河原も、不思議そうな顔で名前を見ていた。
「桶で、水を溜めないと」
「雨水をですか?」
「……井戸水は、肌に冷たいので」
雨水を溜めるのは、ここ数日で始めた習慣だ。水なら井戸水があるが、キンキンに冷えていて扱いにくい。しかし、雨水ならそんなこともない。外に出しておけば、日光で殺菌もできる。
「俺、手伝います!桶、どのくらいいりますか」
「えっと、大体……5つほど」
「わかりました!」
元気よく手伝いを買って出た炭治郎の背を追い、ふらりと立ち上がる。ふとその時、そういえばと大切なことを思い出した。
「あ……お風呂用に、もう少しいるかも」
「え?風呂、ですか?」
「……ちょっと待て。まさかお前、」
雨水で身を清めついたのかと、言葉ではなく視線で問う宇髄。まさに図星の名前は言葉に詰まり、その視線から逃げるように俯き頷く。
名前にも、身なりを気にする常識はある。そして女として譲れない尊厳も……ある。だが、風呂場の場所はおろか、その湯の沸かし方も分からなければ――常識も尊厳も、守りようがなかった。
「ありえへん」
ずしりと、空気が重たくなる。その威圧感の源である鉄地河原は、ひょうたんの口から憤怒の息を吐いて立ち上がる。
「ちょお待っときや。鍛治の途中やからと思ぅとったが……一発、言うてくる」
鉄地河原は、こめかみに血管を浮かべながら――襖の向こう。鍛冶場へと消えていった。ただならぬ彼の雰囲気に、名前はそれをただ見送ることしかできなかった。
「あ、名前さん!この里、すごい温泉があるんですよ!今からそこに――」
「馬鹿か。この屋敷から出られねェんだろうが」
「あ」
「ったく……ちょっと待ってろ」
「え?あ、あの……」
立ち上がり出ていこうとする宇髄を、名前は思わず呼び止める。なにか迷惑をかけてしまうのではないかと言う不安と、思った以上にオオゴトになってしまった動揺。そんな名前の気持ちを知ってか知らずか、宇髄はニヤリと笑って見せる。
「女は色々と入り用だろ」
◇◇◇
「名前さん、湯加減は」
窓越しにかけられた問いに、湯船に手を差し入れて息をついていた名前は飛び起きた。
「は、はい!……大丈夫です、鉄穴森さん!」
「では、戻ってらしてください。湯の世話の仕方を教えますので」
宇髄が連れてきた、里の女性――鉄穴森鉛(えん)さんに連れられて屋敷の奥へ来てみれば、そこには板張りの風呂場があった。
どうやら彼女は、この家へたまに世話を焼きに来ることもあるようで。あとの案内は任せて大丈夫だと、宇髄や炭治郎に言うほどであった。2人もその物言いに信を置き、「また来る」と帰っていった。
知らない女性(しかも彼女もしっかりとアノひょっとこのお面をしている)と2人きりと言うのは、なんとも不安だったが――どの棚になにがあるのか、湯を沸かす方法なども、こうして丁寧に教えてくれている。
「――そう、熱すぎたら薪を間引いて」
「あつっ」
「慌てず、焦らず」
「っ、はい……」
「はい……はい……よろしいですよ」
どうやら、合格点をいただけたようだ。
お面でその顔は見えないが、柔らかい雰囲気に……微笑んでいるのだろうと、思えた。名前もそれにつられて笑い返すと「旦那様の言う通りでした」と言う呟きが返ってきた。
「鋼鐵塚殿が器量のいい嫁をとったと、旦那様が嬉しそうに話していたのです。また梅を作るときは、2人分を頼む、と」
「梅を……――あっ、」
脳裏に、味噌をくれた男性のひょっとこ顔が浮かぶ。では彼女は彼の奥さん……名前の命を繋ぎ止めた、梅干しの作り手。
「あの、その節は……ありがとう、ございましたっ……すごく、美味しかったです」
ひょっとこのお面の向こうから、優しく丸い笑い声がこぼれ聞こえてきた。そして、火をおこすために持っていた筒を置き、空いた手で名前の頬へ手を伸ばす。
「名前さんは、お里の外……それも都会からいらしたとか。心寂しかったことでしょう」
「…、……はい」
宇髄さんは、里長と話して決めた通りの筋書きで、さっそく身の上を伝えてくれたようだ。騙しているのは心苦しいが、仕方ない。
「では、湯につかりませんと」
「え?」
「冷えて震える心身を、温めねば」
さあさあ、と。背中を押され、気づけば脱衣所の戸を閉められていた。静かに遠ざかっていく足音に言葉をなくしていると、ふわりと温かい空気が名前の頬をかすめる。
鍵もかけられない、風呂場。見知らぬ相手の家で脱ぐのは、かなり度胸がいるが――名前には、現状を把握している理解者ができた。なにかあっても大丈夫だ。そしてなにより、温かな湯船につかるあの感覚を思い出して、震え……ボタンに手を伸ばした。
「っっっ……はぁぁぁ〜〜〜〜〜」
全身の緊張が、湯気と共に消えていく。
疲れが、ほぐれていく。
なんて、素晴らしい。
思わず「極楽」と口にしてしまうほどに。
「はぁぁ……」
湯船に体を預けて、しなだれる。これまであった色々なことが、まるで走馬燈のように浮かんでは消える。
あの仕事、どうなったんだろう。
私、行方不明になってるのかな。
お父さん、お母さん……心配してるかな。
「っだめだ、だめだ。どうするか、考えないと」
どうしても後ろを向いてしまう自分を、戒める。分からないことを考えても、どうしようもない。今のことを考えた方が、よっぽど未来に繋がる。
炭治郎たちと、風呂のおかげで随分と気力を取り戻した名前は、湯をすくい顔をすすいだ。涙はもう、ただの水滴になっていた。
「どうするか、考える。……やっぱり、定番なのだと……来た理由を全うしたら帰れる、だよね」
ここへ来た、理由。
――好き合う相手と身を固めたら、あの癇癪もよくなるだろうからと。ひとつ、良縁をお願いしたんや
「好き合う……」
それはつまり、相思相愛の仲に奴――鋼鐵塚とか言うあの男となると言うこと。
思わず頭を抱えたその時、なんの前触れもなく風呂場の戸がスパンと開いた。「え」とか「は」とか、声が出る。
「おい、薪はどこだ」
そこには、まさに今名前の頭を悩ます男。鋼鐵塚が仁王立ちで立っていた。名前を、見下ろして。
「ぎゃあ!?」
反射的に肩を寄せ、身を縮める。そんな大慌ての名前に構わず、鋼鐵塚は今一度同じ言葉を吐いた。
「薪はどこだ」
「は、はあ!?まき……!?」
「鍛冶場のが使い終わった。どこにある」
「……そ、外に」
「チッ」
舌打ちを吐き捨て、そのままきびすを返す。この間、数秒。ちゃぷん、と名前が頭から手を下ろしたことで湯が跳ねる。
「……ありえない」
あいつと好き合うだなんて、どう考えてもありえない。風呂場に乱入し、裸を見て、謝罪もなく。なんなら舌打ちをして消えた。そんな奴が、女と恋愛?
「ありえない、ありえないありえない……ぜっったい、ありえない……!」
と、なると……諦めるしかないのか。
否。命の選択で諦めるとはすなわち、死。
では、残す道は――
「……癇癪。癇癪しか、ない」
あの癇癪を、よくする。
それもまた里長が願ったひとつだ。
癇癪を直す。
「………………それこそ、どうやるのよ」
空しく心細い声が、風呂場に響く。もしかしたら、家の勝手も知っているほどに付き合いの長い鉛さんなら、わかるかもしれない。
彼女ならきっとまだいるはずだ。屋敷を出られたら霧で追いかけられない。名前は急いで湯船から上がり、……充分に人がいないことを確認してから脱衣所に入る。するとそこには旅館で目にする湯上がりの浴衣と、一筆書きが。
「――ゆ、う……げ……の準備は、して……お、きました。ゆっくり……休んで、また明日」
見事な草書体に四苦八苦しながら、なんとか読みきる。そこには、鉛さんがすでに屋敷を去ったことが書かれていた。
「……また、明日」
この言葉だけが、名前の救いだった。大切に紙を折り、見よう見まねで浴衣に袖を通してその懐に入れる。そして行きの道を辿りながら厨房へ。そこには、
「わぁ……」
味噌汁、小鉢のきんぴらごぼう、焼かれた白身魚と大根おろし。麦の混じったお米。数枚にカットされた、キュウリの浅漬け。
なんの変哲もない和食。だが、すさんだ名前の心にはキラキラと光る豪華な御膳に見えた。イライラとしていた奴への苛立ちも、今後への不安も掻き消えていく。料理で、こんなにも気持ちが変わるなんて。
「――あ、」
そうだ。料理だ。
奴も生き物だ。腹は減る。そして初めて接触した、あの時。食べることさえ忘れて刀を打ち、倒れていた姿を思い出す。そんな独り身の男だ……きっと、ホカホカと美味しいご飯はしばらく食べていないだろう。
……その胃袋を満たせば、もしかしたら。
「ううん、これしか……ない」
名前は、ここに来て初めて――いや。社会人として働き初めてから数年ぶりに、未来を指す光明を見つけられたような気がしていた。
201116
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