その日は、朝から珍しい人物からの電話が入った。
「アテネ様、お電話が入っております」
「あ、はい…繋いでください」
「かしこまりました」
扉が閉まった音で、書類に埋もれた頭を勢いよく上げる。……しまった、誰からの電話なのか聞くのを忘れた。溜め息を吐き、肩を回す。疲れているのだろうか…いつもはしないミスに溜め息をこぼし、受話器を取る。なんだかいつも以上に、それが重たく感じた。
「はい…アテネ・ランベルティです」
『あっ、アテネお姉様…私です、ユーフェミアです』
「!?…ユーフェミアちゃん?わっ、電話だなんてどうしたの?」
聞こえてきた声が、眠気で霧まいて視界を嘘のように晴らせていく。興奮でわたわたとアテネが腕を振ると、机の上から書類が数枚床へと落ちた。
『えっとですね、えっと…お姉様の…来週の、ご予定がお聞きしたくて…!』
「?…来週、ちょっと待っててね」
首を傾げながら、予定を確認しようと受話器を置く。ごにょごにょと何か言っているのが聞こえたが、アテネの意識は手帳を掴み、机から落ちた書類へと吸い込まれてしまう。……いや、拾うのはあとあと!待たせてるしね!自分にそう言い聞かせながら手帳を開き、再び耳に受話器をあてた。
「──もしもし?来週は丁度1日空いてるみたい…どうかしたの?」
今の職に就いて以来、1日予定のない日は珍しかった。しかし、突然どうしたのだろうか。遊ぶにしても確かユーフェミアちゃんは、学校が…。
『学園祭!』
「……は?」
学園祭?
手から力が抜け、手帳の背が机に落ちる。
『来週、学園祭があるんです。お友達を呼んだりするものだと聞いて、それでお姉様にお電話を!』
なるほど。確かに、来週ともなれば手紙では間に合わないかもしれない。…いや、でもユーフェミアちゃんのことだから、手紙では我慢できなかっただけなのかもしれない。
「……学園祭かぁ」
懐かしい記憶が甦る。アテネという名でこの世に生を受ける前の思い出だ。アテネとなった今、アテネ・ランベルティは学校に通ったことがなかった。全てを家庭教師から教わり、学んできた。そんな彼女にとって、学校は、憧れの場所となっていた。したがって、この素敵なお誘いを断る理由など存在していないのである。
「うん、わかった。来週空けておくね」
その後は、ユーフェミアから何を催すのかやどこまで進んでいるかなどの話を聞いた。それらのどれもが、アテネには微笑ましく、羨ましかった。それではまた追って、という言葉を最後に電話は切れた。
ガチャン、
受話器に添えていた手が手帳に伸び、予定を書き加える。ハートでも書き込んでしまおうかと笑い、ふと思い出す。それを確かめようと、手帳をめくる。あるところまで時を遡り、アテネは確信した。やはり、ユーフェミアちゃんに会うこと自体が久しぶりのことらしかった。最近あったクロヴィスくんの総督就任式典へは、公務で行けなかったし……。それ以前ともなると…半年は会っていない。
「クロヴィスくんも…元気かな…」
沈黙している電話を見やる。彼とは、1年は会っていない。私こそ、クロヴィスくんに電話するべきなのかもしれない。…でも用事はこれと言ってないし。呆れられてしまうかも……。あ、それよりもこの書類が先か。
落ちた時のまま足元に広がっている書類。腰を折って数枚拾い、腕をまくる。部下が取りにくる前に終わらせて、電話をしてみよう。
「よーし!がんば、」
コンコンッ
そこで響いたのは、自分を鼓舞する台詞ではなく、部屋への入室を問うノック音だった。アテネは、瞬く間に顔を青ざめさせた。……扉のむこうにただならぬ気配を感じる。部下が書類を取りに来たのだろうか。噂をすればなんとやら。先駆者の名言は的を射ているなぁ、なんて。いや、それよりもどうにかしなくては。目の前に広がる手付かずの書類を見回すが、手渡された時と何一つ変わることのない状態でそこに重なりあっていた。……もう、いっそのこと机の下に隠れてやりすごすしかないのでは。
「アテネ様、お電話が……アテネ様?」
「え?! で、んわ…?」
扉を開けたのは、青筋を立てた上司でも部下でもなかった。先程アテネに電話を繋いでくれた使用人であった。アテネは椅子を引き、中腰のまま…とりあえずの会釈をする。恥ずかしい。
「あっ、相手は?」
羞恥心と闘いながら絞り出した声は、少しだけ掠れる。アテネの動揺が透けて見えるような声だった。
「クロヴィス殿下からでございます」
「………………えっ?」
──噂をすれば、なんとやら。
◇◇◇
『──もしもし』
久しぶりに聞いた声に、クロヴィスは眉尻を柔らかく下げた。変わりないようだ。たった1年だが、人は案外簡単に変わってしまうものである。その度にクロヴィスは、それをどこかよそよそしいと感じるのだった。
「ああ、アテネ…急にすまないね。驚かせてしまったかな?」
『はは…そうですね…』
どうやらアテネは本当に驚いたらしい。アテネに見えないことを良いことに、確信犯は愉快そうに肩を揺らす。
「ユーフェミアの学園祭に行くそうじゃないか」
『え、どうしてそれを…?』
「ふふ、ついさっきユーフェミアから電話で聞いてね」
『…ああ、なるほど』
数分前まで話していた彼女が、「アテネお姉様にお電話して良かったです!」と、言うものだから…クロヴィスも久しぶりに声を聞きたくなってしまったのだ。
「残念だけど私はパーティーがあって行けなくてね…」
『そっか…うーんでもクロヴィスくんが行ったりしたら、学校側も大変だろうしね』
「君だって、第一皇子の婚約者だろ?大して変わらないと思うな」
クロヴィスの返答に納得がいかないのか、アテネは不満そうな声を上げた。
『正式な婚約者じゃないし、私はただの貴族だよ』
一瞬、何を言っているのかと返そうと口を開き、閉口した。クロヴィスは今しがた至った結論に、切れ長な目を細める。10年前のあの日から今まで、まだ婚約の儀は行っていないのか。年を重ねるごとに話す機会がなくなり、その辺りのこともわからなくなっていた。しかし、そうか……。
「──私にも望みがある、ということだね」
『…………ん?』
クロヴィスの耳は、アテネの間の抜けた声を拾った。受話器の向こうでは、豆鉄砲を食らったような顔をしているのだろうと、容易に想像ができる。話し方はすっかり大人らしくなったように思えたが、こういった“思わぬ展開”への反応は変わっていない。
「私の婚約者にならないか、と言ったんだよ」
今度は絶対に聞こえるよう、そして勘違いを生まないよう。クロヴィスは受話器に語りかける。
『え、えーと…?』
アテネからの反応は、相変わらず曖昧な色を滲ませていた。
「相変わらず鈍いね…それとも、わざとかい?」
『い、いえ…その…』
ちょっとした悪戯心からカマをかけてみれば、今度は容易に動揺を見せる。敬語に戻っているのが、なによりも証拠である。
「ズルいなぁ」
『…〜〜っ!!』
ついにアテネから、音にならない声が漏れた。これはまた、面白い。もう少し、彼女を困らせてみたくなってきた。更に言えば、顔を見て……手の届く距離で、アテネと話がしたい。
──そんな思いに水を打ったのは、弱々しいノックの音だった。
「しっ、失礼致します殿下…!」
扉から現れた人物に、クロヴィスから思わずといったような溜め息がこぼれる。バトレーが自ら来たということは、例の件に関することで何かあったということだろう。
『ご、ごめん…』
クロヴィスの不機嫌な溜め息を自分へのものだと勘違いしたのか、アテネから謝罪が返ってきた。
「ああ、すまない……仕事が入ってしまってね」
『──そっか、総督って大変だね…。次は私から電話するよ』
「楽しみに待っているよ」
気を遣ったのか、アテネは早々に話題を終わらせて「またね」と電話を切った。
ガチャ、
クロヴィスは、沈黙した受話器を静かに置き、その背中をゆったりと撫でる。口惜しそうな仕草だった。そして、視線だけを未だ扉の前で直立している男へと投げる。
「なにかあったのか?バトレー…支度がある、手短にしろ」
「はい!例のアレについて…ご報告が、ございまして…」
やはりそうか…。脂汗を額に浮かべ、辺りを見回す様子からして何か不具合でもあったのだろう。クロヴィスの表情に、影が落ちる。
「……話せ」
受話器に触れていた指先は、そっと離れた。
121020 第一話/完
130512 修正
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