パッチン
摘花していた鋏が、大きく横に逸れる。おや、と意識を向けた時には、手のひらに重みを感じていた。白い花片が数枚切り落ちたようだ。
「その話、確かなのかい?」
男の碧い双眼が、手に落ちた花片を捉える。優麗なその動作に、使用人達は感嘆の吐息を溢した。その中の1人、シワの深い使用人が一歩前に立ち、男に寄り添っている。
「はい」
「…驚いたな」
花片を受け取ろうと使用人が前に出る。しかし男は右手で制し、指先でそれを撫でた。
「兄上が、婚約…」
しかも相手が、公爵家の長女とは。…直接対面したことはないが、類い稀なる才女だという話は聞いたことがある。
「しかし、急だね」
今は特に政治的な危機もない。
なぜ今、第一皇子の婚約が…。
「詳しくはわかりませんが…陛下の決めた縁談だという噂でございます」
「ほう」
政略にあまり興味を示さない父上の決めた婚約。何かあるのか…?公爵令嬢に会って確かめることは難しい。婚約の式まで、異性との接触はできない決まりがある。なにより心配なのは…
「…兄上」
花片を指で掴み、そっと薔薇の茂みへ落とす。色は紛れ、すぐに見失った。それは不穏な未来を暗示しているように思えた。
「殿下…どうかなさいましたか」
「いや……兄上に祝言を差し上げたいと思ってね」
剪定鋏を使用人に渡し、庭園を眺める。そして目的の物を見つけると、彼は使用人に振り返った。
「カノンを呼んでくれないか、頼みたいことがある」
主人の後に続こうとしていた使用人達は、互いに顔を見合わせる。一方、傍に着いていた老いた使用人は深々と頭を下げ、踵を返した。不服そうにしていた使用人も、それに続き庭を後にする。庭園から充分離れた廊下に、使用人の言葉が響く。足音は4つ。そのうちの3つは、並んで歩いていた。
「なぜシュナイゼル様はカノンばかりをお呼びになるのかしら」
隣で歩く使用人も、それに同意するように頷く。睨み付ける先には、殿下お気に入りの使用人が歩いている。
「きっとこの男にオデュッセウス様の婚約への祝言をお申し付けになるんだわ」
「皇帝陛下の命じられた婚約への祝言だもの…そんな責任ある仕事を…」
「…早く辞めてしまえばいいのに、あんたなんて」
段々と熱の入っていく会話を止めたのは、前を歩く…カノンだった。冷たい視線を向けられ、使用人は動きを止める。
「いい加減、私語は慎め」
ピシャリと投げつけられた叱責。使用人はなにかを言い返そうとしたが、その気迫を受けて、堪らず口を閉じた。
「よくもまぁ、主人の情報をこんな所で。誰かに聞かれていたらどうするつもりなのかしら」
つい数日、権力争いの為に皇子が亡くなったばかりなのだ。皇子の使用人というものはお世話だけではない。護衛、守秘の義務がある。第二皇子の使用人ともなればそれは更に重要になる。
「いつまでも見習い気分で使えない使用人……殿下も、これを知れば大層残念がるでしょうね」
カノンの口元は弧を描き、笑みを浮かべた。二人の使用人の肩が、言い返せない事実と脅しのような台詞に大きく跳ねる。カノンの気もそれで削がれる。時間の無駄だ。
「もう良いわ、他の仕事に戻りなさい」
使用人たちは、パタパタと足音をたててその場を離れていく。青ざめた顔を見たカノンはふっと鼻で笑い、庭園へと向かう。音や人影が消えた廊下。
───コツリ
静寂は、1つの靴音で破られた。音の主は、今しがた耳にした話題に眉を潜める。憂いたように細められたその金色の瞳に影が落ちる。表情には、憤りが滲む。
「オデュッセウスが…婚約だと…?」
そんな話、聞かされていない。おかしい。しかも、先程の使用人はこう言っていた。
──皇帝陛下の命じられた婚約、だと
ということは確実にあの女…マリアンヌと、あの計画が関係している。壁に寄り掛けていた肩を離す。緑の髪は重たく、背中で揺れた。
コツ、コツ、
彼女が再び靴音を立てて目指すのは、マリアンヌの自室。彼女の胸に生まれた不信感が、その足取りを早くする。そうして再び、廊下に静寂が戻った。
◇◇◇
「……突然どうかしたの、C.C.」
一度のノックで、扉はすんなりと開かれた。顔を覗かせたのは怪訝そうな表情をしたマリアンヌ。
「確かめたいことがあってな、入るぞ」
するりと、マリアンヌの脇を通って室内へ入るC.C.…それを目で追い、マリアンヌは扉を閉めた。
「この時間帯には来ない約束だったわよね…子ども達がいたらどうするつもり?」
「フンッ、そうだったかな」
「……」
相変わらず、掴めない女。そんな彼女に文句を言うことすら徒労に思え、その言葉を飲み込んだ。
「──それで、確かめたいことって何かしら」
ソファーに腰かけ、窓枠に座るC.C.を見上げる。西日が差し込み輝くガラスに、白く華奢な指が触れた。
「第一皇子が婚約したらしいな」
「…あら、耳が早いのね」
「なんの意図があってそんなことをした」
「もちろん、あの計画のため。どうしてもあの子が欲しかったの」
あの子──
「アテネ・ランベルティか」
「……」
無言は肯定とみなされた。マリアンヌが切望する少女…彼女と接触したこともないC.C.には、まったく納得ができない。あの計画に、今以上の人が必要とは思えない。部外者を情報漏洩に繋がる危険性もある。
「アテネは計画の賛同者…部外者ではないわ」
C.C.が気にかけていることがわからないマリアンヌではない。すぐに彼女が欲しがる答えを与えた。
「本人がそう言ったのか?」
思惑通り、C.C.は“賛同者”という言葉に反応を示す。気づかれぬよう、マリアンヌは微笑んだ。
「ええ、あの子は覚えていないだろうけれど」
「……」
考え込む魔女。おそらく興味がわいたのだろう。彼女の思考が手をとるようにわかる。もう一押し、とマリアンヌの口が再び開いた。
「あの子と貴女は一緒よ」
「…………それはどういう意味だ」
「ふふ、安心して…ギアス保持者ではないわ」
保持者ではない?ならば何が一緒なのだ。彼女はいまそう思っているはずだ。その動揺こそがマリアンヌの狙いだということに、C.C.は気づいている。しかし……。
「婚約の件を私に知らせなかったのは何故だ」
「タイミングの問題よ、知らせようとは思っていたわ」
C.C.は真意を見極めようと、マリアンヌを見つめる。しかし彼女は綺麗な笑顔を浮かべ、首をかしげるだけだった。
「私達の関係に重要なのは、信頼関係だ…それを忘れるな」
もう二度と、秘密裏になにかをするな。そう釘を刺し、C.C.は窓枠から立ち上がる。
「ええ、わかっているわ」
マリアンヌの応えに視線すら送らず、扉へと向かう。部屋を出る直前…「そういえば」と、緑の髪を舞わせ、振り返った。
「シュナイゼルがなにか動くつもりらしい、用心しておけ」
「!」
「では、邪魔したな」
そして、扉は静に閉められた。
「シュナイゼルが…」
マリアンヌはそれまで崩さなかった笑みを消し、何かを考えるように目を細める。そして何かに気づき、再び扉に視線を戻した。
「ただいま!お母様!」
「こら、ナナリーまだ顔に泥が…」
勢いよく開かれた扉から、2つの影が飛び出してきた。その愛しい存在は、部屋に春を訪らせるように、明るく暖かい。
「おかえり、ナナリー、ルルーシュ」
マリアンヌの瞳に、とけるような愛情が宿る。子どもはソファーに駆け寄り、母親を見上げた。ナナリーの頬についた泥についてルルーシュに聞けば、庭園で走り回ったためだとルルーシュが困ったように答えた。マリアンヌのなかでその時の様子が目に浮かび、さらに目元を和らげた。この子たちだけは守らなければ。そのためにはどんな手でも使う。そう、あのランベルティ家であっても。……そうだわ、この子たちにもいま伝えてしまおうかしら。
「そういえば、アテネ・ランベルティさんとは仲が良かったわね。2人は。」
「アテネ、ですか?」
「うん、仲良し!」
「アテネさんとオデュッセウス様が、婚約されたらしいの」
──兄妹の反応は、全く違うものだった。
「こんやくってなーに?」
ルルーシュの服を握り、見上げるナナリー。いつもは言葉の説明をするルルーシュだが…。ルルーシュは脇にある本をぎゅっと握り、俯いてしまった。
「婚約、って…」
「ふふ、ナナリー。アテネさんはお嫁さんになるのよ」
代わりにマリアンヌがそう教えると、ナナリーはひまわりのような笑顔を向けた。
「えー!」
それぞれが驚きを見せるなか、マリアンヌはルルーシュの表情に苦笑を浮かべる。息子は思った以上に衝撃を受けているようだ。切なそうな表情をしてうつむいている。てっきり、ユーフェミアのことが好きなのかと思っていたが、どうやらそうとも限らないようだ。我が子の成長を感じながら、マリアンヌはC.C.が残した言葉を思い出す。用心するような策を彼が打てるとは思わないが、安心はできない。シュナイゼルがどう動くつもりなのかを探らなければ。この世界と子どもを守るために。マリアンヌの胸にある歪んだ愛情。それが生む悲劇に、まだ誰も気がつかない。
120904 第三話/完
140203 修正
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