婚約と聞いて、まず何を思い浮かべるだろうか。胸元や左手に光る婚約指輪、親族への挨拶回り、恋人との甘くてくすぐったい関係。アテネにとってそれは、懐かしくそして憧れでもあった。そして、たった今その1つを経験したところだった。
「……はぁ」
胸元に光る指輪を指で持ち上げる。それは紛れもなく、婚約指輪だった。控えめにキラキラと輝くデザインは気に入ったが、渡されたのは使用人から。両親はその使用人に連れられて、皇帝陛下に謁見中。
「中庭があるそうだから、アテネはそこで休んでなさい」
という母の言葉に従い、中庭へ来ているのだが…
「どうしようもなく暇…」
指輪から手を離し、へたり、とベンチへ上体を横たえる。初めは誰か通るかもしれないと気を張っていたのだが、もうそれすら疲れてしまった。自然と独り言も増える。
「ユーフェミアちゃん達…ここに居ないのかな」
来ることがわかっていれば、手紙でも送ったのに。暖かい日差しの中で、アテネはぼんやりと中庭を眺める。ああ、寝るかも。アテネがそう思い、意識が深く落ちそうになったその時
「おや」
低く、穏やかな声が耳に届いた。その後に、鳥のさえずりと土を踏み近づく足音。足音…?
「!!」
アテネは、横たえていた上体を勢い良く起こした。ぐらっと視界が揺れたが、それどこれではない。
「すすみません寝てましたすみません!」
慌てふためくアテネを見たからだろうか、目の前まで歩み寄ってきた相手がかすかに笑う。
「いやいや、構わないよ。今日は暖かいからね」
「は、はい…」
戸惑いながら、穏やかに笑っている相手を見る。白いYシャツと上品な刺繍を施したベスト、それと暗い色のズボン。シンプルだが、上品で雰囲気のある佇まいだ。
誰だろう。服や雰囲気からそれを推測しようとしたが、相手がそれを遮るように言葉を発した。
「隣に座っても構わないかな」
軽く首を傾げたことで、肩辺りで緩く結ばれている髪が下へと垂れる。もちろんアテネは否定する理由もなく…
「どうぞ」
と、腰を軽くあげて相手を隣へ誘導した。しかし、柔らかいその茶髪を…どこかで見たことがあるような。どこだったかな…。今度はアテネが首を傾げる。
「素敵なドレスだね」
「…ありがとうございます」
素敵、と言われるとやはり嬉しいもので、息苦しさも忘れて照れ笑いを返す。
「実は婚約者のためのドレスなんです」
そう返すと、相手は少しだけ驚いた顔でアテネを見返した。
「今朝お父さんから言われたばかりなんですけどね」
「…それは、大変だったね」
こういうこと初めてだからよくわからなかったが、やっぱり普通じゃなかったんだな。相手の苦笑を眺めながら父の顔を思い出す。腹痛でトイレから出られなくなってしまえ。真っ黒い念を父へ送り終えて顔を上げると、青年の気遣う表情に気がついた。
「あ、でも全然婚約は嫌じゃないですよ」
私は親から直前に知らされた事実に腹を立てているだけで、別に婚約に対しては苛立ってはいないのだ。もしかしたら前世の記憶と、関係しているのかもしれない。
「プロポーズがないことだけ…ちょっと残念ですが」
雰囲気を明るくするつもりで、隣に座る青年を見上げる。しかし、いらないことを話しすぎた気もする…。
「話し込みすぎましたね…すみません」
青年は、そんなことはない、と首を振った。そして、優しくアテネに微笑みを向ける。結局、彼が誰かはわからないがいつまでも私の付き合わせるわけにはいかない。アテネはベンチに手をつき、腰をあげた。しかし。
「え、」
その手を温かい感覚が掴んだ。目の前には、隣に座っていた青年。突然のことに、アテネは動揺した。
「あ、あの」
戸惑いの声は、青年がアテネの腰に手を添えたことで遮られる。周りから見ればまるでダンスを踊っているようにも見えるであろう、この状況。意識した途端にアテネの頬が熱くなる。こんなところ誰かに見られたら…。視線をさ迷わせながら辺りを見回す。幸い、人が来るような気配はない。ほっ、と胸を撫で下ろす。もしかしたらここは関係者しか立ち入れない場所なのかもしれない。
あれ、じゃあこの人…
関係者なの?
嫌な予感がアテネの頭を駆け巡る。一気に顔が青ざめたアテネに気づいたのか、抱く力が弱まり体に距離がうまれる。それを見計らって、アテネは口を開いた。
「貴方との出会いは、偶然なのでしょうか…」
「…それは…?」
アテネの問いかけに、青年は首を傾げる。困惑の色すら見えるその様子に、アテネの肩から力が抜けていく。 よかった。てっきり、婚約関係者だったりするのかと…。流石に考えすぎだったか。
これから婚約を交わすのは、第一皇子だ。そもそもこの人…言っては悪いが、こんなえっと…親しみやすい方が第一皇子だなんていくらなんでも無理がある。クロヴィスやユフィ、コーネリア…ルルーシュ。誰も彼も、眩い容姿である。と言うことは、ジェレミアのように爵位持ちの騎士なのかもしれない。雰囲気はとても上品だし。
「すみません、あまりこういった経験がなくて…」
とりあえずこの場を取り繕うために「どうしたら」「恥ずかしい」などの言葉を並べる。相手もどうすべきか思案しているようだし、すぐに察して手を離してくれるだろう。
「なるほど」
腰にあった感触が静かに離れていく。互いの距離も開いていき、それまで目の前に見えていたYシャツの代わりに、青年の柔らかそうな髪が視界に入る。それは丁度、アテネの腰辺りで揺れていた。なんだろう、靴紐でもほどけたのか。革靴であった気もするが見間違い……いや、頭の隅ではわかっているのだ。靴紐を結んでいるわけではないと言うことを。つまりそう、これは。跪かれている。先程までアテネの腰に添えられていた青年の手は、アテネの手のひらの上から重ねられている。
「しかしこの出会いを、私は偶然にしたくはない」
鼓動が早くなる。青年を平凡だと言った時には感じなかった感情がそうさせる。偶然にしたくない…それって…?必然や運命にしたいと言うことだろうか。私との出会いを。これ以上、考えてはいけない気がする。一応私は人妻になるのだから、こんな不実なことしている場合でもないのだ。早く活路を見つけなければ、後悔することになりそうだ。しかし、その心情とは裏腹に、アテネの目は青年を捉えて動かない。
「君はどうかな」
穏やかな微笑みが、真っ直ぐに自分へ向けられる。顔だけでなく、アテネの身体中が熱くなる。
「う、」
顔を隠そうと右手を頬に添えるが、全く意味を成してくれない。そのまま動けずにいると、青年が掴んでいたアテネの手を放した。驚いて見返せば、青年は照れたように笑って頬を掻く。
「うーん…中々難しいね、もっと気の利いた言葉を言えればいいのだけれど…」
「…………は?」
「もっと勉強するよ」
勉強…?え?真っ正面から見られているにも関わらず、アテネは呆けた顔で青年を見つめ返した。
「すすみません、ちょっと話が…なにを勉強するんです…?」
すると、青年は目を丸くしながら首を傾げた。
「プロポーズの言葉だよ」
「…プロポーズ!?」
なぜプロポーズ!確かに「プロポーズされたい」みたいなことは言ったが、なぜそれを彼が私にしたのか。全く意味がわからない。それとも私はなにかを見落としてるのか…。長い沈黙の中で、気まずさから落とした視線の端で光る何かに気づいた。それは、青年の指で控えめに輝いていた。その光を捉え、アテネは胸元へ手を伸ばした。
「えええええ!?」
理解する前に、既にアテネは叫んでいた。青年はそれに驚き、肩を震わせた。この人が…第一皇子…。そして、私の…婚約者…?あまりのことに力が抜け、よろよろと後ろのベンチへ崩れ落ちる。それを気遣う青年、オデュッセウスの言葉や、騒ぎを聞きつけてやってきた使用人の声もどこか遠くに聞こえる。
「帰りたい…」
現実から目を背けたい一心で呟いた言葉は、葉を揺らす初夏の風に掻き消されるのだった。
120707 第二話/完
140203 修正
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