平穏に思える帝都に、私の息切れだけが響く。ここまでどうやって来たのか、何一つわからない。ただ、目前の人の波を掻き分けひたすら走る。足が震えて、中々前に進めない。走った疲労やこれから起こることへの恐怖からなのか、それとも──
周りの人は、物珍しそうに眺めるだけ。
すれ違った人のなかには、幼い頃知り合った人もいた。使用人の姿で箒を持つ彼らに、あの時の面影はない…。きっと今会いたいと願うあの人も、そうなっているのだろう。荒い息とともに、嗚咽が漏れた。
世界は変わった
──いや、変わろうとしている。
そしてそれを成し遂げんとしているのは、アテネが弟のように愛した子。彼は泣きそうな顔で私を見つめ、魔法をかけた。その魔法がアテネの足をひたすら前へと動かすのだ。
──あの子の傍にいてあげたかった。崩れてしまいそうなその肩を、そっと支えてあげたかった。遠ざかっていく彼を思い、目元が熱くなる。
「……っ」
その度に…アテネの瞳は赤く染まった。
泣くことも許されない。呪いのようなこの魔法が、憎い。いつも私から愛しいものを遠ざける。そしていつも私にできることはない。消えてしまった人を前に悔やむだけ。今となってはひとりぼっちの彼を思って涙を流すことすらできない。
ただ、走る。
長い廊下を曲がり、中庭に出た。木が揺れ、風がアテネの髪を巻き上げる。思わず閉じた瞳を開くと、乱れていた息が止まった。ベンチに座る彼は、アテネが求めて仕方がなかった人。
「オデュッセウスさん…!」
ぴくりと肩を動かし、ゆっくりと振り向く彼。我慢しきれず、その胸に顔を埋めた。
「おや」
驚きながらも、オデュッセウスはアテネの肩を抱き締めた。
「ごめ、なさ…い」
アテネの口から絞り出された言葉は、彼に届いた。
「いや、構わないよ。……今日は暖かいね」
穏やかな声が、アテネの肩にあった緊張をとかす。何も変わらない……彼は、初めて会ったあの時から何も変わっていない。
「……まるであの時に帰ったみたいですね。誰もがいた、あの時に…」
頭を撫でる優しい感触に、瞼が下がっていく。
しかし、いつまでもこうしてはいられない。
「オデュッセウスさん、逃げましょう」
「…?」
逃げる、この穏やかな場所から?不思議な気持ちで胸のなかを見ると、固い表情でアテネがオデュッセウスを見上げていた。
唇を噛み、震えている。
「フレイヤが、ここに落とされるんです!早く、早く逃げないと!」
「………フレイヤが…?」
その時、上空にキラリと光る何かを見つけた。胸元で震えていた彼女も、それに気づく。おそらくあれがフレイヤを落とす船なのだろう。
「今なら、間に合います…!!お願いです…私、幸せに……貴方が幸せなら…私…」
苦しそうに叫ぶアテネ。瞳が赤く染まり、その度に泣きそうな顔が歪み、笑顔をつくる。帝都にフレイヤが落ちる。……きっと、逃げ出すべきなのだろう。どこか他人事のように、そう思う。なぜ、こんなにも冷静なのか。その答えは自分の腕の中にあった。
「……アテネ、」
必死に自分の服を握りしめるアテネの手を、優しく包む。
「…アテネが傍にいる、私はそれだけで幸せだよ」
「しあ…わ、せ…?」
「ああ、そうだよ」
服のシワが、ゆっくりと消えていく。力の抜けた手を握りしめ、左の薬指へ口づけを落とす。
「…私も、」
呪いはとけた。瞳は赤から、黒へ。うっすらと膜をはるそれに、オデュッセウスの微笑みが映る。
「君との出会いは、偶然だったのかな」
オデュッセウスの目は、黒曜石のような瞳を捉えて動かない。胸の奥から沸き上がる感情が、アテネの口元を持ち上げる。首をかしげ、「どうかしら」とそ知らぬふり。
「でも、この出会いを私は偶然にしたくないわ」
オデュッセウスの指が、アテネの瞼に触れる。指先が頬へ下ろされ、アテネは自分が泣いていることを知った。鼓動が早くなる。
「貴方はどうかしら」
言葉はいらない。
アテネを強く抱き締める、この腕がその答えなのだから。
彼等は幸せだった。
例え、それが光とともに消える運命にあるとしても。
