07

ザァザァ…

大粒の雨が、窓ではぜてバチバチという音を出す。むしむしとしない梅雨は、やはり少し憂鬱だ。そうだ、雨だからこそ外に出てみようか。面白い発見があるかもしれない。腰を上げかけるが、先日の外出でお父さんから直々に外出禁止令が発令されていたことを思い出し、再び腰を降ろした。

「はぁ…」

お母さんにも、かなりの気苦労をかけてしまった。顔の傷やすっきりした髪を見て気を失いかけていたし……原因のほとんどがジェレミアさんなのだが、彼にはひどいことをしたこともあり告げ口はしないでいる。これで胸を触られたと言った日には…うん。
そういえば、彼はあのあとどうしたのだろうか。私が殴ったことをきれいに忘れているといいんだけど。

「…お見舞いの手紙でも書いておこうかな」

アテネは机から手紙用の羊皮紙を一枚出した。ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐる。上等なそれに、深い藍のインクを差した。

アテネ・ランベルティ

その文字を見ただけでこめかみがズキズキと痛んだ。顔をしかめながらも、その手紙を使用人から受け取る。それを見届けていた彼の母親の切れ長い眉がぴくりとわずかに動いた。

「ジェレミア、貴方まさかランベルティ家の御令嬢に…」

彼、ジェレミアはその問いを予測していたように肩をすくめた。

「そんなまさか、ご冗談を。分はわきまえておりますよ、母上」

ではその手紙はなんだという視線が投げつけられる。これには、まさか本当のことは言えまい。

「以前、稽古中の私にお声をかけていただきました」

ジェレミアの母親は彼のその答えには満足していない様子だ。しかし一度開かれた口は何も発することなく閉じられた。そして「それならいいのよ」という簡素な返答をして、使用人を携えながら部屋から出ていった。おそらく、父へも報告をするのだろう。だが相手があの、ランベルティ家だ。何か言われることはないはず。そこまで思考が至ると、そっとため息を吐き、問題の手紙を眺めた。

「開かないわけにもいかない…か」

そっとレターナイフを手に取り、慣れた手つきで開封する。同時にふんわりと甘いにおいが鼻をくすぐった。四つ折りにされたそれを静かに開き、流れるように書かれた文に目を通す。流石ランベルティの長女だけあり、文体にも気品がある。いや、文体には…といった方が正しいか。痛む頭に手を添えると、それだけであの時のことが甦るようだ。

しかし、手紙の内容はその記憶とは裏腹に会えてよかった、益々の活躍をなど、社交辞令的なもので別段変わったことはなかった。正式な対面ではなかったのにも関わらず、この丁寧な手紙を私に送るというのは…

「まさか、私に気があると…?」

口に出してから、パッと顔が熱くなる。頭の痛みでさえ、彼女の恥じらいの証拠だと思えてきた。そうして考えれば考えるほどに、ジェレミアの中での確信は深まっていった。満更でもなさそうに腕を組み、にやりとだらしなく笑う。彼女の気性はともかく、ランベルティ家の一人娘を妻にできるのであれば我が家も晴れて公爵家の仲間入り。大出世もいいところだ。そこまで考えて、悔しそうにする同期騎士の顔が浮かんだ。

カサリ

腕を組みながら掴んでいた手紙の封筒から、紙切れがひらりと落ちた。

「ん?」

気になって手を伸ばし、紙を覗きこんた。そこには小さく、P.S.と記されていた。どうやら手紙の続きらしい。

『P.S. 雨が上がる頃、またお会いしましょう。愛を込めて アテネより 』

「これは…!」

なんということもないただの文の締め方なのだが、それは今のジェレミアにとって最後の決定打となった。少し汗ばんだ手に無意識に力をいれると、くしゃっと音をたてて手紙が歪む。そんなことにも気を止めず、ジェレミアは早く雨が上がらないものかと窓際から外を覗いた。相変わらず、空は暗く窓には多くの水滴が空からぶつかり、音を立てていた。アテネ様も同じように、いや…私よりも憂いた顔でこの空を見ているのだなと罪作りな自分にため息をついた。

親愛なる アテネ様へ

と書かれた手紙が、封をきられてチェストの上に置かれている。手紙の中身は、それを受け取った少女の手の中にあった。少女は静かに手紙から視線をはずす。

「どうしよう…」

困り顔、というよりも思い詰めたような顔をしている。なにがそこまで少女、アテネを困惑させているのか。それは、先日強烈な一撃を食らわせた相手から恋文のような手紙が届いたからに他ならなかった。

「やっぱり、打ち所が悪かったんだ…それか、相当怒ってるか…」

どちらにしても手紙の内容並みに最悪だと断言できる。雨があがる頃、またあの稽古場でと記されている。ランベルティ家の私が男性に会いに行くということがどういった意味を孕むかわかっての配慮だろう。それは、ありがたいが…。「愛」だの「恋」だのと綴られたその内容を思い出して、頭を抱えた。極めつけはこれだ

「あなただけの勇者より」

これは……いや、確かに勇者を頼みはしたが。…晴れたら会おうと書きはしたが、これは社交辞令云々と言わず様子を見に行かなくてはならないかもしれない。ちらりと、明るい陽射しを差し込む窓に目をやる。

「晴れてるんだよね…」

窓からでも見える真っ青な空に、思わずため息をこぼす。雨が降る前よりも、空が近づいたように思える。となると、夏もすぐそこかな。

「かき氷、食べたいな」

甘いシロップが舌の上で溶けていく感覚を思い出す。再びため息がこぼれる。いつまでもこうしてる訳にもいかない。アテネは身支度のために使用人を呼んだ。

「ここでいいよ、ありがとう」

すとん、と地面に足をつき、握られたままの手をぎゅっと握り返す。白髭が自慢な運転手はそれだけでわかったように、目尻の皺を深くさせた。

「はい、それではお迎えは以前と同じ頃に」

運転手が礼をして車に乗り込むのを見届けると、アテネは目の前に広がる庭へと視線を移した。後ろから聞こえるエンジン音が遠ざかると、小鳥の囀りが耳に届いた。初夏だからだろうか、庭の様子が少し変わったようだ。しかし相変わらず綺麗な庭だ。

「…いけないいけない、稽古場に行くんだった」

日傘を開いて、今度は真っ直ぐに目的地を目指して歩き出した。前回はユフィに呼ばれて入ることのできが、今回はどうあの稽古場へ行こうかと言い訳を考えていた。しかし、門番に家の名を口にすればあっさりと通された。正直にいえば、少しだけ物足りなさが残る。公爵家ともなれば、詮索をしない暗黙の義務でもあるのかもしれない。そうこう考えているうちに、前回剣が飛んできたあたりに着いた。一応周りを窺うが、誰も見当たらない。まあ、ここ庭だしね。

「剣があっちから飛んできたってことは、稽古場は…あっ!」

視線の先にレンガ造りの塀を見つけた。きっとあそこだ。ホッと安堵から胸を撫で下ろし、足先をそちらに向けて歩き出した。額に汗がにじみ出した頃に、ようやくレンガ造りの塀の下へと辿り着いた。家で引きこもってろくに運動していないからだろう。ちょっと、休んでから行こうかなと近くの木陰へ。ふう…ハンカチを出して扇ぐ。あーいい風だ…前方をぼんやりと眺めていると、茂みの一部が不自然に揺れていることに気がついた。なんだろう…犬かな。あとは野生のタヌキとか?

アテネはハンカチをぎゅっと握りしめると、わくわくしながら木陰から茂みの方へと足を進めた。一歩一歩近づく度に、好奇心が更に足を前へと動かす。14にもなって、と思いながらも小さい頃体験できなかった秘密基地や探検家ごっこのようだと胸が高まった。茂みの前で立ち止まり、中腰になる。茂みのなかを覗いてみるが、やはり何なのかはわからなかった。

「おーい」

声をかけてみる。ガサガサッ…反応はないようだ。うーんどうしようか…アテネはキョロキョロと周りを見渡して、あ!と声をあげた。茂みから少し向こう側、つまり茂みの後ろにオレンジの木がなっているのを見つけたのだ。あれを採ったらにおいで顔を出すかもしれない。少し遠回りをするが、まあいいだろう。すっかりジェレミアのことは忘れて、アテネはオレンジの木を目指して藪の中へ入った。そして後悔した。

「…ちょっと入っただけでこの様か…」

小枝や謎の種にまみれた服を手で軽く叩き払う。しかもオレンジの木に着いてからわかったのだが、きちんと舗装された道が作られていた。つまり、骨折り損だったわけだ。しかしあまり落ち込んでいても茂みから動物がいなくなってしまうかもしれない。アテネは急いで、小ぶりだが下に成っているオレンジを採った。アテネがオレンジを手のひらに乗せたのと同時に、後ろの方でガサッと藪が大きく揺れたような音がした。それに続き、幼げのある声が2つあがる。

「みつけた!おにいさま!」

「う、うわあ!」

振り返り、目に飛び込んできた様子に、思わずアテネは片目を瞑った。少年の見事なスライディング(顔面)を見てしまったからに他ならなかった。痛そうだという感想を通り越して、私まで痛くなるほど見事なものだった。その少年が少女の下敷きになって俯せていることや、先ほど聞こえた音から察するに、どうやら少女が少年の背中に抱きついたことで転んでしまったようだ。

「おにいさま?」

転ばせた張本人は兄と呼ぶ少年の背中に寝ていた体を起こすと、自分のやったことを理解したらしく、目に涙をためて泣き始めてしまった。呆然としていたアテネも、少女の泣き声を聞いてようやく状況を飲み込んだ。

「だ、大丈夫!?」

走りより、まず少女をどうにかしなければと、少女を抱き上げて少年の背中から下ろした。そして急いでハンカチを取りだし、涙を拭ってやる。

「うっうう…にいさ、ま、ごめなしゃ…」

謝罪を述べながら、全身を震わせている。その様子は大変いじらしく可愛らしい。アテネは少女の頭を撫でながら転んでしまっていた少年に目を移した。少年は既に立ち上がって顔についた砂やら芝を手でこすり、払っていた。

「えっと、怪我はない?痛いところとか…」

焦りながら少年を上から下まで眺める。咄嗟に顔を庇ったようで、その整った顔には目立った怪我はないようだが、ズボンから出ていた膝小僧は赤くなっている。それが地味に痛いことを、盛んな幼少期を送っていたアテネはよく知っていた。

「………大丈夫です」

事実、少年は否定をしながらも擦りむいた方の足を落ち着きなく動かしている。知らない人に会って警戒しているから、ということも考えられるが。

「とにかく、洋服も汚れしまっているし…今日はお家に帰った方がいいかな」

この庭園にいるということは皇族関係の子だろうし、帰れば使用人が世話をするだろう。
その考えも合わせて提案すると、少年が首をかしげた。

「関係者ではないんですか?」

頭の切れる子だな、と感心。そしてこのままだと不審者になってしまうということに気づいた。

うーん、でも公爵家だからって血の繋がりはないしつまり、我が家は皇族の関係者かと言われたらとてつもなく微妙なわけだ。しかし、とにかく名乗っといた方がいいだろうか。アテネはそう結論を出すと、なるべく人当たりのいい笑顔を浮かべ、口を開いた。

「アテネ・ランベルティよ…今日は、ここで人に会う約束をしてるの」

「そうだったんですか…」

少年は家名を聞いてホッとしたようで、表情の筋肉が解れた。よかった。と思うと、くいっと、今度はスカートがひっぱられる感覚が。下を見る。犯人は、可愛らしい笑顔でアテネを見上げていた。

「はんかち、ありがとうアテネおねえちゃん」

「え?」

胸がキュンッとしたことを、ここで懺悔したい。いや、ロリコンなわけではないですが…精神だけは老女手前なわけだから。そう、孫への愛情のようなものなんだこれは。人知れずにアテネが葛藤している中、少年は困ったように、苦笑してみせる。しかし、少女に向ける目差しは柔らかい。

「ナナリー、まだ姉上が欲しいのか?」

まるで、あれ以上いたら困るとでも言いたいようである。

「お姉さんは姉上ではないよ」

しかし、少女…ナナリーには難しかったらしく、可愛らしい笑顔のまま首をかしげて見せた。

「約束があるのに、すみませんでした」

「いえいえ、そこまで急な用では……」

手にあるオレンジが視界に入り、アテネの思考が一瞬止まる。私、なんでオレンジ片手にこんなところにいるのだろう。もちろん、ジェレミアさんへのお見舞いがてら彼の様子を来たんです。そして迷子になって…迷子に……そうだった。場所がわからなくて、とりあえず記憶している方向を頼りに徘徊していたんだった。早く行かなければ、日が沈んでしまうだろう。ああああ、どうしたら…

「あの…どうかしたんですか?」

恐る恐ると言うように、少年がアテネに声をかける。それが長居させてしまった罪悪感からなのか、恐怖からなのかはわからない。

「あ!」

もしかして、この少年に騎士の詰所を聞けばいいんじゃないか?期待を込めて視線を投げる。少年は、アテネがいきなり声を上げたと思えば自分が注視され、戸惑っている様子。

「ちょっと聞きたいのだけれど…」

「…は、はい」

「騎士の詰所ってどこか…わかる…?」

少年から丁寧な説明を受け、騎士の詰所はあのレンガの建物ではなく、そこから北にある背の低い建物だということを教えてもらった。しかも、帰る家から近いということで、その建物まで送ってもらうことに。ありがたい。しかし、なにか、こう……ね。最近は一段と暑くなったなど世間話をしながら、隣を歩く少年と、その手を握り跳ねるように付いてくる少女をなんとも言えぬ気持ちで見つめた。

「…ですか?」

「えっ」

しまった、話を聞いていなかった。バッと視線を戻すと、少年はキョトンとしてから。

「そのオレンジ、どうしたんですか?」


…オレンジ?ああ、さっき木からもいだこれか!片手に握ったままのオレンジ。どうやら私がオレンジを採る所は見られていないようだが、動物捕獲のために採りそのまま成り行きで手荷物に…とは言えない。

「えっと、これから会う人が…オレンジが好きで…お土産というか」

素手で?というツッコミは受け付けられない。…少年の視線が突き刺さる。

「ナナリーも好き!」

突拍子もないナナリーちゃんの発言や笑顔。それに癒されていると、少年のアメジストのような瞳がいたずらっぽく細められ、アテネを映した。

「あっ、あれかな?」

その視線から目をそらすためでは、決してないが、アテネは見えてきた建物を指差した。少年も「うん、あれだよ」と頷く。それに胸を撫で下ろし、アテネは少年へにこりと笑みを向けた。

「…ありがとう、本当に助かった」

少年は「僕たちもお姉さんにたすけてもらったから」と、首を横に振ってみせる。十にもならないだろうに、その礼儀ある応対に感心するばかりだ。

「それじゃあ」

しかし、いつまでもこうしているわけにはいかない。アテネは日傘を差し、別れを言おうとした時、少年に名前を聞いていないことに気づいた。黒髪に紫色の瞳…皇族関係者にいたかと考えを巡らせるが、喉の奥からその答えは出てこない。

「ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア」

「ああ、ルルーシュく……え?」

視線が少年へと釘付けになる。ルルーシュ…って、確かマリアンヌ様の…。え?そういえばマリアンヌ様は黒髪だと聞いたことがある。関係者どころか、皇族だったということか。…しかも直系。やらかしたのかもしれない。

アテネの表情が忙しなく変わる様子を見ながら、ルルーシュは笑みをこぼした。それは相手を嘲笑するものではなく、楽しいという気持ちから滲み出るもの。腹を探り合うような勝負事を好むルルーシュにとっては、少し物足りない悪戯ではある。しかし、普段自分や妹に向けられるものとは違うアテネの表情、素朴な性格は彼にとって新鮮だった。

「今度は僕やナナリーにも、本を読みに来てください」

「え」

ルルーシュの一言でついに動きを止めるアテネ。

「では、失礼します」

「おねぇさん!さようなら!」

ルルーシュは軽く頭を下げて、ナナリーは元気よく手を振る。呆然としながらも手を振り返すと、二人は手を繋いで背中を向けて歩いていく。

「……う、うわぁ」

アテネがようやくそうく呟いた頃には、彼らの背中は見えなくなっていた。ルルーシュが言った「本を読みに」という台詞を思い出す。思い浮かぶのは、ユーフェミアに読み聞かせた神話。…おそらく、どこかでユーフェミアから私のことか本について知ったのだろう。ユーフェミアやクロヴィスに次いでまたもや皇族と知り合うとは…偶然と言うよりは奇跡に近い気がする。そういえば、以前父から竹馬の友だと紹介された人も皇帝の側近や騎士師団長などなど…権力者ばかりだった。ランベルティ家には先見の明がある、というのはこういった強運が原因なのかもしれない。ということは…これから会いに行くジェレミアさんも、将来大出世したりするのか。淑女の胸を触るあのドジさんが…?

「ジェレミアさんが出世はないな」

「んなっ!?」

ん?周りを見回す。声がしたように思ったが、誰もいない。変だな…私しかここにいないはずなのに。

「アテネ様…こちらです…」

今度は間違いない。確かに声が聞こえた。しかも、聞き覚えがある。後ろに恐る恐る視線を動かす。

「ジェ、ジェレミアさん…」

「……」

「えっと…」

まずい。彼の表情を見て、アテネは思わず後退った。落ち込んでいる。原因はもちろん、私だろう。

「…ランベルティ家の嫡子に、出世、せず…と……いいわれ…」

手に持つサーベルの剣先が、地面へとつく。丁度これからまた練習に出る所だったのだろう。

「ああああ違うんですよジェレミアさん!!た、ただちょっと、あの…!!」

「…父上に、なんと……」

「だから、ジェレミアさん…違うんです…!」

今のヘタレなジェレミアさんが何年後かに出世していたら自分の強運を信じざるを得ないな…という意味合いで呟いただけであって…。と、言うのは墓穴を掘るだけな気もする。

「ととにかく、中に入りましょう。ここは暑いですから」

と、彼が出てきたばかりの詰め所へ入らせてもらう。特に受付もない様子だったために、ジェレミアさんの背中を押しながらすんなりと入ることができた。

「……」

「……」

正直、帰りたい。皇族と知り合うという一大イベントがあったばかりなのだ。しかし、このままにしておくのも…後々問題になりそう。

「あの…」

「……」

反応がない。完全に狼狽している。ため息を吐いて、アテネは傍にあった椅子へ腰掛け、詰め所の内装を眺めることにした。外の白を基調にシンプルな様子とは一変し、中はシックで落ち着いた雰囲気だ。

(ジェレミアさんは、ここで普段すごしてるんだなぁ…)

ちらりと、視線を横へ。彼がどういった思いで騎士に就いているのかはわからない。だが、今手に持つサーベルの筒にある汚れも、日々鍛練するなかで付いたものだろう。

「血筋が…、でも」

「……」

段々と、私の一言だけで落ち込んでいるジェレミアに対して苛立ちを覚え始める。

「そんなに、家名って大切ですか」

そして気づいた頃には、そう溢していた。

「え」

目の前には、彼の驚いた顔。様子が変わったことに気づきこちらを向いている。

「あ、いえ…なんでもないです」

これ以上、彼を動揺させてどうする。首を軽くふり、笑顔を作る。

「そういえば、ジェレミアさんはこれから鍛練ですか?」

「ええ…そうです」

右手にある重みに視線を落とし、ジェレミアはその柄を強く握りしめる。一方、アテネは日の傾きに目をやり、迎えまでの時間を確認した。まだ少し余裕がありそうだ。ならば、ということでアテネはある提案をしてみることにした。

「もしお邪魔でなければ、見ていてもいいですか?」

「…私の、鍛練をですか…?」

なんの抵抗もなく頷くアテネ。ジェレミアに衝撃が走った。年頃の女性は…見習い騎士の鍛練を見たいと言うものなのか?ましてやランベルティ家の長女が。難しそうに考え込む様子に、それはそうか…とアテネは肩を落とした。

「やっぱり…邪魔ですよね…」

「い、いや!邪魔…ではないですが…」

少し驚いただけで、と口の中で小さく弁明をする。その言葉はしっかりとアテネの耳に届いていた。

「では、行きましょう」

結局その後、アテネはジェレミアの鍛練を影が伸びるまで見て、帰っていった。顔を見に来ただけだから、と明るい口調で言ってはいたが、その表情は暗かった。

「……ん?」

サーベルを鞘に戻し、そこについた土を軽く払う。いつ着いたのだろうか、首を傾げる。「出世はない」と言う言葉を聞いたときかもしれない。それを追うように、「家名はそんなに大切なのか」というアテネの問いを思い出す。それは自問にも近いように聞こえた。少なくとも自分にとって、家名は大切なものだ。誇りであって、背負うべきもの。
しかし彼女にとっては…

「…違う、ということか」

では、どう違うのか。そこまで考えて、ジェレミアの口角が僅かに上がる。瞳には今までなかった、強欲さが灯る。

「では、あの方の言った言葉を…私が。このジェレミア・ゴットバルトが覆して差し上げるまで」


私が出世をする。
それがひいては彼女の家名への憤りを消す。

「勇者様、というのも…あながち間違いではないかもしれぬな」

山際で、日が沈む
それを鋭く見つめて、彼は詰め所へとその歩を進めた。


12622 第七話/完
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