07.なにもかもが突然で

なにが起きたんだ。
私にもわからない。
少なくとも――

「タケルじゃないみたいだ」

ネット際での握手で佐伯から放たれたその言葉は、郁の心臓をひんやりと萎縮させるのに十分であった。

「本当に、いつもと全然違う動きで圧倒されたよ。なにか心境の変化でもあったのか?」

「ははははは」

心境の変化、というより心境が違うというか。そう素直にこぼしたい程に混乱していたが、佐伯の真っ直ぐな視線に耐えられるはずもなく。郁はリストバンドで何度も汗を拭きながら、目をベンチの方へ泳がせた。

「……ああ、なるほど。部長の不在、か」
「え?」
「幸村も、頼りにしてるさ」
「へ?」
「男前が上がったな、タケル」

そう言うと佐伯はこちらの肩をポン、と叩いて「次は負けないよ」と宣言してベンチへ下がっていった。……なにか多大な勘違いをされている予感。しかしそれを上回る衝撃が、郁を襲っていた。

え、今なんて?男前?タケルが?おいおい。佐伯さんみたいなキングオブ男前に言われるって、すごすぎじゃないか。……タケルだよ?

額に浮かぶジトッとした汗を拭きながら、ベンチに向かう。そんな郁を迎えたのは――

「た、タケル先輩〜!?な、な、か、なんスか今の!?ちょ、反則技使ったんスか!?そうっスよね?!」

黒髪の悪魔、もとい、赤也くんのドアップ……であった。あまりの衝撃に固まっていると、ベンチの中からワラワラとイケメンたちが集まってきた。

「やるじゃん!ま、俺のが天才的だけどよ」
「びっくりしたぜ、ほんと」
「まるで人が変わったような動きでしたね」

「あ、え?えー?あはははは〜!?」

なるべく相手を見ずに、なんとか笑いを返しながらベンチの奥の奥へ。なにを言っても墓穴になりそうだし、なによりイケメンはもう恐怖の対象なのである。有りがたいことに、真田が「さっさと次の試合の準備に入らんか!」と一喝をしてくれたので追撃はなさそうだ。安心して、静かな空気が流れるベンチの最奥へと腰を落ち着けた。

「っはぁ〜〜」

……本当に、今日は厄日だ。訳もわからずタケルと精神が入れ替わって、まさか試合までして……勝って、しまって。自分の状況にほとほと疲れはてベンチに沈む郁の前に、ずいっと紙コップが現れた。

「ひっ!?」
「お疲れ、タケル」

紙コップの主は……幸村くんだった。反射的に緊張させた体から、一気に力が抜ける。どうやらベンチの最奥には先客がいたようだ。「そこまで驚かなくても」と少し肩を竦ませた彼に申し訳なくて、郁は大人しくコップを受け取る。彼からすれば親しい同級生に見えるんだしね。……それに喉もちょうどカラカラだったから、ありがたい。

「郁さんも、喜んでるんじゃないか?」
「ブッ」
「……どうした?」
「え!?いや、なんで私の……じゃなくて……姉ちゃんの、話が出んのかなって」
「いつかスタメンで試合見せるんだって、夢だって言ってただろ?」

夢?

ふと、試合前に同じようなことを言われたことを思い出す。そっか、タケル……私に見せたかったんだ。試合してるところ。なのに入れ替わっちゃって――郁は、心がしんと静まる感覚を覚えた。

「タケル?」
「え、……あー……どっ、どうかな?あ、あはは。案外、びっくりしてるだけ、かもな」

乾いた笑いが口端から転がり出た。
私、ちゃんと笑えてるかな。

「たしかに、俺もびっくりしたよ。あんなに相手を強気に攻めるタケルなんて、初めて見たからね」
「そう、かな」
「うん。本格的なスタメン入りも、夢じゃないさ」
「え……じゃあ……また、試合……」

ちらりと、顔を拭いていたタオルの端から、部長の彼の瞳を覗き見る。パチリと音がしそうなほど目があって驚いていると、彼の瞳は柔らかく細められた。

「……ああ。みんなや自分の期待に、あれだけ立ち回れたんだ。きっと出られる」

……よかった。
郁は蒼白になった顔を、タオルで覆って俯く。なんだかんだ言って可愛い弟だ。彼の頑張りを、とりあえず次には繋げられた。……まあ、そのかわりまた違う問題も出てきたけど。

まずは体を元に戻して、それから動きのコツとか教えてなんとか物にしてもらわないと。なんかタケルの体の扱い方みたいなやつ、なんとなくわかったし。な、なんとなく。……というか、その「まず体を元に戻して」がどうすればいいのかわからないし。

……とにかく今は、頑張った自分を労おう。それまでモヤモヤと頭を覆っていた考えを、被っていたタオルと一緒に払った――その時。郁の耳は、かすかに隣からこぼれた吐露を拾いあげた。

「俺には、眩しいくらいだ」
「え?」

思わず、食い入るようにその横顔を見る。青白く、少し痩せこけたそれは、まさに病室での生活を思わせた。

「いや、すまない。気にしないでくれ」
「……」

そういえば、幸村くんは何か病気をしていたと。その復帰について、作中で話していた気がする。ふんわりとしか思い出せない感覚に、郁は愕然とした。きっとそれを読んだときの私は、その程度の認識だったのだ。しかし目の前の彼にとって、それは……とてつもなく大きな壁だったに違いない。思わずこうして独り、薄暗いベンチでこぼしてしまうほどに。

「みんな、輝いてるよね」
「……?」
「見て、コート」

郁が指差す先で、無事に快勝を納めた赤也が真田に拳骨を食らう。それを腹を抱えながらからかうブン太に、つられて噴き出すジャッカルの背中。仁王と柳生は次の出番に向けてストレッチをしているが……その表情は、どこか柔らかい。

「いい仲間だね」
「ああ……最高のね」
「ほら、同じ顔してる」
「……え?」
「だから……、……その、なんて言うか」
「……」

「……もっと、頼ってもいいんじゃない?きっと一緒に乗り越えられるよ。……最高の、仲間なんでしょ?」

それは確証だった。実際、漫画であれだけテニスしていたし。彼は復帰後の不安を、しっかり乗り越えられる。ファンとしての応援も込めて、そう伝えた。

「……ふ」
「ふ?」
「フフッ……あはははは!」

伝えたら、笑われた。

「あはははっ!フフ、ごめん、いや、これはちょっと……驚いてしまって……」
「は?」
「だってなんか、タケル……全然違うから」
「え?」
「まさか俺が、タケルに……フフフッ」
「え!?」

たしかに、タケルこんなこと言わないな!?というか言い出したら「お前大丈夫か」と、私でさえ爆笑するだろう。

「……って、姉ちゃんが言ってたんだ!」
「フフ、そう……郁さんが、ね?」

慌てて言い分けというか、本当のことを付け足したが効果はないらしい。目尻に涙まで溜めだした彼に、どんどんこちらの体温が上がっていく。よくよく考えたら、めちゃくちゃらしくないこと言ったし。……なんだこれ、恥ずかしいぞ!?

「……」
「ふぅ……タケル、あのさ」
「ト、トイレ!」

なにかを切り出そうとした幸村の言葉を遮り、郁はベンチから飛び出した。女としてそのぶったぎりはどうなの、とか。トイレ本当にこっちなの、とか。色々と頭をよぎったが、気にする余裕はない。羞恥心を動力に、全力で走る。

「あっ、姉ちゃん!―――って」

ふと、前方から聞き覚えのある声。
目の前に迫る自分の顔。

額に、猛烈な熱。
遅れてやってくる激痛。

……あ、デジャブ。


脳内で冷静な自分がそう呟き、郁はいつの間にか目の前に広がっていた空を眺めていた。

慣れ親しんだ、自分の体で。


201017 なにもかもが突然で/完
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