05

ディオたちの練習試合から数ヵ月。室内にいても肌寒く感じる季節となって、最近は着替えるのも億劫だ。今朝なんかは、ベッドのなかで着替えようとして布団をはがされてしまった。ようやく着替え終えた郁は、退出していくお手伝いさんたちをソファに腰かけながら見送った。そして、暖炉にくべられた火を眺める。郁の心情を表すように、ゆらゆらと揺れるそれに、昨夜のことを思い出していた。

それはジョージさんに、話があるからと呼び出された書斎でのこと。蔵書がずらりと並ぶ棚と、重工感のある書斎机を前に、郁は身を小さくした。学校の応接室みたいだと萎縮する郁に、ジョージは優しく笑う。

「座って話そうか」

「……は、はい」

うながされるままに座ると、温かいミルクと1枚の写真を手渡された。立ち上る湯気の向こうで、白黒のそれを眺めた。郁よりもひとまわり年上に見える、ひとりの紳士が写っている。そして、彼と婚約の話があがっていると告げられたのだった。

「大切な娘を外にやるのは、とても寂しい……いつかそんな日もやってくるのだとは思っていてもね。しかし、郁が望まないのであれば断ってもいいとも思っているんだ。幸せになってほしいからね」

瞳に浮かぶ慈愛を前に、郁の体はじんわりと暖かくなった。実の娘でもない自分にここまで愛情を傾けてくれる彼を、郁は心の底から尊敬していた。婚約の話も郁のことを思ってのことなのだろう。

「どうだろうか」

「その……嬉しいです。でも、婚約なんて初めてのことだから、うまくできるか……」

というと、ジョージさんは一度目を見開いて、すぐに大声で笑い始めた。なんだか恥ずかしくなったが、滅多に見れないジョージさんのチャーミングな爆笑姿に、どうでもよくなった。こうして笑い顔を見ると、やはりジョナサンの父親なんだなとしみじみと思った。

「うまくやる必要はないよ、郁。自然とそうなっていくものだからね」

あまりピンとこないが、ジョージさんにそう言われると、そんな気もしてくるから不思議だ。永遠の17才を地でいくようになって、早十何年。そろそろ結婚を経験するのも、いいかもしれない。そして郁は、すぐに首を縦に振った。

しかし、問題は少々シスコンぎみの実弟である。婚約とか言ったらどうなることか。肌寒さとは違う寒気から、肩を震わせる。肩掛けを羽織って、郁は気が進まないままに彼の部屋をノックした。

「おめでとう」

ディオは素っ気なく言葉を返して、机に身を向け直した。予想とは異なる反応に、郁はクリスマス前日にプレゼントを見つけてしまったあの日と同じ気持ちになった。幼い頃からの私に過保護な彼のことだから、もっと「その婚約は許可しない!」とかなんとか言うと思ったんだけれど。

「なんだい、姉さん」

「いや……反応薄いね」

「この屋敷で、姉さんの婚約話を知らなかったのは姉さんくらいだ」

「は?」

「前に、来客があっただろう。あのときにきた紳士は、自分の息子と姉さんの結婚話をしにきたのさ」

つまり、その日からすでに屋敷内の人々は私の結婚が近いことを知っていたのか。確かに、あの日からいつも以上に入念なお世話をされるようになった気がする。

「相手は公爵家に由来する名家らしい。きっと、いままで以上に幸せな生活が送れる」

「お、おお……」

そういえば、ジョージさんがそんなようなことを言っていた気がする。素晴らしきニート生活が待っているということか。これ以上の贅沢なんて、想像もつかないが。

「弟の俺じゃ、姉さんを守れやしないからな」

「ディオ……」

端正な横顔が、一瞬苦しそうに歪んだ気がした。大学生にもなって、まだ私を守ろうと考えていたとは。もう自分の心配だけして、他人に甘えてしまえと言いたいが、きっと天国に執着することでしか生き続けられなかったあの母親から、無償の愛を受けきれなかったディオには、難しいだろう。姉たる私では、母親にはなれなかった。

「幸せになってくれ、姉さん」



そう言われた数ヵ月後には、ジョースター家を出た郁。ジョナサンが大泣きして大変だった。エリナちゃんと幸せにな。ディオもさっさと恋人つくって幸せになるんだぞ。ジョージパパ、お世話になりました。別れの挨拶もそこそこに、郁は馬車に乗り込んだのだ。車輪が転がる音を聞きながら、初めてジョースター邸に来た日のことを思い出す。向かいの空席に少しだけ不安を覚えながら、郁は馬車に揺られた。

婚約者のお宅に着いたのは、夕日が沈みかける頃だった。ジョースター邸よりもさらに大きな敷地と庭を前に、玉の輿……と呟かずにはいられない。このお屋敷の息子さんの奥さんになるのか。郁は緊張しながら敷居を跨いだ。

の、だが。なんと、息子さんはいなかった。40をすぎたいい伯父様がひとりで住んでいたのだ。これが夫なのかと失礼にも叫びそうになったが、彼の口から「息子はイタリアに留学をしていてね。彼が帰郷しだい正式に結婚することになっているんだ」と聞き、郁は落ち着きを取り戻す。

「それまで、花嫁修業をしていておくれ」

なんですと

というわけで、郁はマリッジブルーを経験することもなく、家庭教師の女性から嫁入り修行をする毎日を過ごすこととなった。裁縫なんてやったこともない郁にとって、それは地獄のような日々だ。

ジョナサンやディオは、元気にしているのだろうか。ふるさとのことが懐かしく、思い浮かべていた。ジョナサンは、よく手紙をくれる。大学の課題とか、試合についてとか、ディオのことも。あとは、最近ジョージさんが風邪気味だと書いてあった。主治医の先生がいるから心配はいらないと添えてはあったが、やはり気になる。郁は色とりどりの刺繍糸を手に取りながら、ため息を吐いた。

「それでは郁さん。今日はこの辺りにしましょうか」

「は、はい」

「お元気がないようですから」

先生は、郁の手元を見て、花ともゴミともわからない刺繍たちを眺めて苦い顔をする。いや、針を握りつぶさないようにするだけで大変なんですよ。なんて言い訳は、裁縫箱の引き出しのなかへと一緒にしまいこんだ。

「そうだわ。旦那様からお話があるそうだから、お部屋に帰っても起きておいてくださいね」

「え?」

一体なんだろう。こういってはなんだが、この家の旦那様はあまり人と関わりを持ちたがらないお人だ。使用人とも会話らしい会話をせず、ただ日々を淡々とすごしている。そんな旦那様が私に用事ってなんだろう。あれかな、庭にある半壊してた小屋を壊してしまったことがついにバレたのかな。でも、軽く蹴っただけで全壊するとは、まさか思わないよね。

言い分けを考えながら自室へ下がり、寝床の準備をする。それを終えても旦那様は来ないので、郁は出窓から垂れているカーテンの端に指を入れて外を覗く。夜の戸張が降りた空に、ぽっかりと浮かぶ月は異様に明るくて、先日とどめをさした小屋の形を露にしている。反省をこめたため息を吐こうと息を吸って、郁は動きを止めた。

「……血のにおい?」

それは、窓の外から香っていた。郁は錠前を降ろす。ふんわりと広がったカーテンのなかへ入り、外を覗く。虫の音も聞こえない静寂が、郁の前に横たわった。

「タケル?」

なぜそう言ったのかはわからないが、郁は暗闇に向かって言葉を落とした。すると、なぜだか血のにおいも静寂も消えて、虫の音が郁の鼓膜を震わせ始めた。




翌日

昨夜遅くにジョースター邸が火事で焼け落ち、そしてその家主、ジョージ・ジョースターが亡くなった。1面の端に、そんな記事が小さく載った。


140818
141120 修正
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