01

ふと、外から聞こえていた雨音が止んだことに気がついた。しばらくは降り続きそうな雲行きだったが、案外風が強かったらしい。明け方くらいまで降っていてくれれば明日の任務も少しは楽になったのに。郁は横たえていた体を起こし、自分の目で確認しようと窓辺に近づこうとした。そして、窓からほんのりと光が射していることに気がつく。……おかしい。ベッドに寝転がる前は、確かに外は暗闇に包まれていた。ブーツを脱ぎ、数秒体を休めただけだというのに、すでに日が昇るだなんて。ありえない。

ベッドのうえで動かず、窓を眺める郁。部屋のなかは、自分の足がシーツの海を裂く音しか聞こえない。耳が痛くなるような静寂に、唾を飲み込んだ。なんだろう、この緊張感は。同時に襲いかかってるのは、違和感。息を吐くことも忘れた郁だったが、激しく戸を叩く音によって意識を戻した。数回、部屋の入り口の扉らしい板がガタガタと震える。金具がダメになっているらしく、油を指し忘れた金属が振動しあう不快な音が響いた。そして、わずかに開いた板の向こうから、見覚えのないオッサンが顔を出した。

「おい郁、郁!いつまで寝てんだ!さっさと酒……」

誰だこのハゲ

ハゲは、郁がベッドの上に座っているのを見て、なにかを言おうとしたらしいが、しばらくして閉口した。口許には随分と卑しい笑みが浮かんでいる。

「働かねぇんだったら、そうして客をとらせるのも悪くねぇかもなァ」

おいおい、人の寝起きをそんなゲス顔で見るな。しかもこいつ、そのままズカズカと部屋に入り込んでくるではないか。まず不法侵入だということ以前に、不快だ。表情とか、存在が。郁は吐き気が出そうだと相手を見下げながら、口を開いた。

「なに言ってんのハゲきもい」

こんな汚い言葉を使うようになったのは、人類最強で掃除好きなチビの影響かもしれない。だが、浮かべている表情も彼の影響を受けていることに、郁は気づいていない。まさに、豚を見る目でハゲを見やる。

郁の返答を受けたハゲは、目を見開いて固まっていた。開きっぱなしの口から酒の臭さが漂ってきて、郁は思わずトイレのスリッパを突っ込んでやりたくなった。

「て、て、てめぇ!誰のおかげでここにいられると思ってやがんだァ!」

「はあ?」

調査兵団の宿舎に自分がいることで、なにかこいつに許可をもらうことがあるのだろうか。むしろ団長殿から直に頼まれて、ここに留まっているのだが。それとも、こいつは団長以上の権力を持っていると?鼻が曲がりそうな酒と体臭をまとう、この男が?ありえない。というかまず、贅肉だるんだるんな男が、ここにいることもおかしいのではないだろうか。

ここで、郁はまたしても違和感を感じた。そしてこれが以前も数回感じたことがある感覚であることに気がつく。もしかして……もしかしなくても、また世界から弾き飛ばされた?

「この俺が!風のしのげるこの家で養ってやってんだぞ!この……実の父親である、この俺が!」

「なるほど、虫酸が走った!」

確実に、また別世界に来たことを確信する。私の父さんは、同じように贅肉だるんだるんでも、身なりはそれなりに小綺麗にしていたし。ハゲてるけど、こいつみたいにハゲ散らかしてはいなかった。可哀想な私。また異世界に放り出されたうえに、今度はこいつが父親とか。とりあえず、受け入れがたいから暫定父親……いや、自称父親にしておこう。自称父親は、酒焼けした声を張り上げる。

「女だからって、調子に乗りやがってッ!」

怒りのあまりに錯乱した様子で、郁の肩を鷲掴みにすると、自称父親はそのまま郁をベッドに縫い付けた。興奮した猿って、こんな感じなんだろうな。なんて、随分とゆったりとした動きだったので、郁は避けることすら忘れてそんなことを考えていた。こいつに組み敷かれたところで、簡単に抜け出せそうだから別に焦る必要はないが、酒臭い息を顔面に浴びせられるのは我慢ならない。

「顔と穴以外は、殴ろうが切ろうがどうとでもなるからなァ……仕置きに、肩でも外してやろうかァ!」

上等だ!言っておくが、お前の穴の無事は保証しねぇからなァ!郁がそう噛みつき、相手の顎を砕いてやろうと拳を握ると、自称父親が視界から消えた。そして同時に、立て付けの悪い扉に、なにかが激しくぶつかったような振動が部屋を揺らした。

「姉さん!」

必死に上げられた言葉に、今度は郁の動きが固まる。自分のことを姉と呼ぶのは……どの世界でも、ひとりだ。いつもいつでもヒロインポジを保持しやがるが、どこでもどこまでも大切な私の弟である彼。タケル……!

上体を勢いよく起き上がらせた郁は、扉前で自称父親に掴みかかる少年を捉えた。くたびれたYシャツに、サスペンダーを付けた背中は、郁の記憶するタケルよりも随分と小さくて、引き締まっている。さらに目を引いたのは首に流れる、金糸。……って、え、あれ?…………金髪?

「ディオ、てめぇぇ!」

「このっ……クソ親父!」

自称父親が少年の襟元を掴み上げたことで、金糸に隠れていたその横顔が露となる。タケルだと思われた弟の横顔は、西洋の彫刻を思わせるほどに美しい。灰に燻されたような肌も、いまはくすんでしまっているが、水で濯げば光るだろう。間違いなく、神に祝福された顔面を持つ美少年であった。とてもじゃないが、平均顔のタケルには見えない。

つまり……誰なんだ、この子。

「姉弟そろって舐めた真似しやがって!」

自称父親いわく、美少年は私の弟らしい。なにそれ遺伝子ミステリーすぎる。そのまま淡々と現状を把握し、親子のやり取りを眺め、ベッドから動かない郁。自分との力差を理解しているからこそくる余裕なのだが、タケルかもしれない美少年……えっと……とりあえず、暫定タケル……いや、ディオくんだったか。ディオが必死の様子で、郁に振り向いた。

「姉さん、早く表に……ぐあっ!」

バキッという、骨と肉が衝突したときに鳴る音がして、ディオの体は激しく床に打ち付けられた。ニヤリと笑う自称父親は、拳を握ったままゆらりと立ち上がる。さらに殴るつもりだと気がついたその瞬間、郁の体は意識することなく行動を起こし、素早くベッドから移動した。そのまま、床に這いつくばりながら体を震わせるディオに、覆い被さる。

「大丈夫!?」

「ゲハッ、グガ……ガハッ」

ディオの口から、血が滴っていた。左手でディオの横髪を避けると、腫れた頬と鋭い眼光が覗く。瞳のなかでギラリと揺れる、燃えるような怒りの炎に、郁の動きが止まる。形のいい彼の唇が「クソじじぃが……」と歪み、郁の後ろを見上げていた。

「おい郁、どきやがれッ!このグズにはなァ!父親として!教えてやらねぇことがあんだよォォ!」

背中を、ガツンガツンとなにかが叩く。どうやら、自称父親の足が乗せられているようだ。腕をついて、胸にディオを守る形をとりながら、できるだけ自然に体勢を整える。反撃の隙を狙う郁だったが、胸で隠していたディオから視線を感じて見下ろす。ハッと目を見開く彼は、眉を歪ませて泣きそうな顔で郁を見上げる。それに対して、郁は明るく返す。

「大丈夫、痛くないから」

本心のままに出た言葉だったのだが、ディオはどうにも我慢ならなかったようだ。郁の体からするりと抜け出して、転がりだしてしまう。それに満足そうに笑うのは、自称父親だ。

「俺がやるから、姉さんには、なにもすんじゃあねぇ!」

……なんて健気な子なんだ。郁のなかに、温かい思いが満ちる。まったく見覚えのない少年だが、私を姉と呼んで守ろうとする背中がタケルと重なる。確かに、彼は私の弟なのだ。

そうとわかれば、郁の行動は早かった。床に投げ出していた足を素早くスライドさせ、起こった風で自称父親の足元を掬う。奴はディオを殴ることに集中していたらしく、いともたやすく転げた。

「グ、ァ!……うう」

しかも打ち所が悪かったらしく、そのまま気を失ってしまった。なんだ……事故をよそったお仕置きをたんまりしてやろうと思ったのに。なかなかの強運を持っているようだ。

「酔いが回ったみたいだし、いまがチャンスだね。椅子に寝かしておこうか!」

「え、あぁ……」

呆然とするディオの頭を撫で、とりあえず顔を洗ってくるようにいう。ディオは手の甲で口許に滲む血を拭い、コクリと頷いた。部屋から出ていく背中を見送り、郁は自称父親を見下ろす。やはり、臭いから掴みたくないしこうするしかないな。躊躇せず、くたびれた体を蹴り転がしながら部屋から出した。そのまま酒ビンが転がる机の下までドリブルして、息をつく。椅子が体と平行するように転ばせて、いくつかビンを割る作業に移る。

ここがどんな世界なのかはまだわからないが、どうやらタケルはあのディオという少年になってしまったらしい。随分とまぁ、美形になったわけだが。……きっと色々また拗らせてしまったんだろう。さて、自称父親の体も酔いつぶれて椅子から転げ落ちたようにセットし終えたし、ディオくんの様子でも見に行くか。


141120

我慢が限界を迎えました
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